2018年08月19日

沖縄県知事選、最期まで沖縄を守るために生きた翁長知事の遺志を継ぐ戦いの行方

沖縄県知事選、
最期まで沖縄を守るために
生きた翁長知事の
遺志を継ぐ戦いの行方
2018/08/18 HARBOR BUSINESS

 8月8日、沖縄県副知事の謝花喜一郎さんが記者会見を開き、沖縄県知事の翁長雄志さんに意識の混濁が見られるようになったため、しばらくの間、知事の仕事を代行すると発表しました。
 この日の記者会見で初めて、翁長雄志さんの病気の状態があまり良くないことを知らされることになったのですが、その日の晩、翁長雄志さんはそのまま天国へと旅立ってしまいました。

翁長雄志さんのお通夜は10日、告別式は13日に行われ、政治家はもちろん、経済界や米軍からも別れを惜しむために各関係者が駆けつけ、そこには辺野古基地の建設をめぐって対立していた菅義偉官房長官の姿もありました。

 基地をめぐる意見は大きく違えど、そこは同じ政治家です。
本当の心の内は分かりませんが、それでもお悔やみの気持ちがなければ、お通夜に駆けつけることはなかったでしょう。
翁長雄志さんが亡くなったことは、沖縄の未来、いや、日本の未来に大きな影響を及ぼす政治的に重大な出来事。
なので、お通夜が10日、告別式が13日であることは多くの関係者に共有されていたはずで、菅義偉官房長官がお通夜に参列しているのですから、安倍晋三総理が知らないはずはありません。

そして、こちらが告別式が行われる13日の12時45分にTwitterでアップした安倍晋三総理のツイートです。
 これはけっして不注意なんかではありません。
翁長雄志さんの告別式があることを知りながら、あえてアップされている安倍晋三総理のメッセージです。
 どこぞのインスタ女子じゃあるまいし、日頃からかき氷を食べる姿をアップしているわけでもないのに、わざわざアップする必要のない「かき氷を食べる写真」を載せる。
嫌いな奴が死んで、今日もかき氷がうまいのです。
とても大人とは思えませんが、これが「日本の総理大臣」なのです。
今さら始まった話ではありませんが、この国のイカれっぷりは、なかなかハイグレードです。

◆翁長雄志さん以外に
選択肢がなかった
「オール沖縄」の衝撃
 翁長雄志さんの突然の訃報を受け、世の中がお盆休みでウェイウェイする中、一年で最も飛行機代とホテル代が高いシーズンに沖縄に入り、取材することになりました。
お財布へのダメージを考えると、産卵するウミガメのように涙が出てきますが、どこより早く情報をお届けしたかったのです。

翁長雄志さんの遺志を継ぎ、「オール沖縄」は誰を擁立するのでしょうか。
 関係者に話を聞いていくと、衝撃の事実が明らかになりました。
 沖縄県知事選は当初、今年の11月に行われる予定だったのですが、あれだけ痩せ細って体調を不安視する声があったのに、「オール沖縄」は翁長雄志さん一択で、それ以外の選択肢を用意していなかったのです。
つまり、「万が一」のことは何も想定していませんでした。
さすがに亡くなることは想定しなかったとしても、入院する可能性は否定できないだろうに、そういう「万が一」には何も備えていなかったのですから、あまりにピュアすぎます。
なので、自民党や公明党が推す政権側の候補が宜野湾市長の佐喜眞淳さんに一本化される中、翁長雄志さんを失ってしまったオール沖縄に持ち札はなかったということになります。

◆オール沖縄が翁長雄志さんしか
      考えられなかった理由
 今となっては多くの人が「オール沖縄」を、共産党や社民党が中心の「革新系」だと思っているかもしれませんが、そもそも「オール沖縄」は「保守」であり、翁長雄志さんは自民党出身の政治家です。
本当の意味で沖縄県民を守るためにやるべきことは「基地をなくすこと」であり、世界で何があっても、この沖縄を再び戦地にすることがあってはならない。
また、沖縄経済を停滞させている元凶こそが基地であり、これらを解消するには基地を縮小することはあっても拡大することはない。
翁長雄志さんは本来の「保守」としての考え方で、命を削ってまで辺野古基地の建設に反対したのです。  

沖縄は今から73年前に壮絶な地上戦の末、アメリカ軍に占領されました。
 あの時も沖縄では「皇国日本を守るために戦うことが正義」とされ、それこそ誰もが知る「ひめゆりの塔」のような悲劇が、沖縄のあちこちで起こったのです。

「ひめゆりの塔」とは、15歳から19歳の沖縄師範学校女子部と沖縄県第一高等女学校の女子学生たちが召集され、ほとんど機能を失った沖縄陸軍病院で負傷する日本兵たちの救護に尽力したものの、戦況が悪化の一途を辿り、地下壕で潜むことになったのですが、あまりに絶望的な戦況となり、彼女たちが突然、上官から「解散」を命じられた悲劇です。

今さら「解散」と言われても、地下壕から出ることは「死」を意味します。
地下壕に残っても死を待つだけなので、小さなグループを作って地下壕を出ることになったのですが、多くの女子学生たちが逃げようとするも砲弾やガス弾を受け、命を落とすことになりました。
ひめゆり平和祈念資料館には女子学生222名が当時、どんな女の子たちだったのかが書かれており、テニスが好きだったり、オルガンを練習していたり、ごくごく普通の女子学生らしい女の子たちだったことがよくわかります。

 忘れてはいけないのは、こうした沖縄で起こった数々の悲劇は「日本を守るため」と言われた末に起こったことであるということです。

 いまや自民党議員の多くが「日本会議」や「神道政治連盟」などの大日本帝国復活に憧れるカルト団体に籍を置き、ネトウヨをこじらせている安倍晋三総理になってからは、同じ思想を持った人だけが出世するようになってしまったため、ますますネトウヨが幅を利かせるようになり、「日本が攻撃されたらどうするんだ。日本を守るためには自衛隊を軍隊として認め、時として先制攻撃も認めるべきである」と言うようになりました。

 今から73年前の沖縄と同じ話を繰り返しているのですが、実は、文明が進化した現在の日本の防衛システムは73年前より圧倒的に「茶番」です。
なんてったって、日本をぶっ壊そうと思ったら、大きな戦艦も、最新鋭の戦闘機も、頑丈な戦車も必要ないからです。
必要なのはお手軽なロケットランチャーのみ。
こいつをたったの1発、原子力発電所にぶちこんでやれば、一瞬にして日本を人が住めない土地にできるのです。
数千億円かけて建設するイージス・アショア、こんなの「ゴミ」です。

残念ながら、日本は原子力発電所なんてものを重宝して全国に建ててしまった時点で「平和」を前提にしているため、どれだけ勇ましいことを言っても茶番でしかありません。
もちろん、いくら「戦争」だと言っても一応のルールがあり、民間人を殺してはいけなかったり、原子力発電所を狙ってはいけなかったりするのですが、今どき「民間人を殺してはいけない」なんてルールが守られた試しは一度もないので、戦争とは「ノールールの殴り合い」です。
 それを踏まえた上で、「日本を守る」とか言っているオジサンたちの顔を見てください。

「日本を守るために基地を作る」と言いながら、一方では原子力発電を日本のベースロード電源に位置付けると言っているのです。
小学生でも想定できる原発への攻撃は「想定外」。
辺野古基地が完成したところで、普天間基地を返還してもらえる約束ができているわけではないのに、約束してもらえていない段階から基地を作り、珊瑚の海に土砂を投入して、取り返しのつかないことをしようとしている。
これでは基地を減らすどころか増やしてしまう可能性が高い。

翁長雄志知事が命懸けで何を守ろうとしていたのか。皆さんもわかるはずです。
 翁長雄志さんは「保守」の政治家です。
 翁長雄志さんを推してきた地元の有力者たちは、けっして共産党や社民党を支持しているわけではなく、あくまで「保守」である翁長雄志さんを推してきたのです。
だから、翁長雄志さんに万が一のことがあったとしても翁長雄志さん以外に考えられない。
これが「オール沖縄」の現実なのです。

 翁長雄志さんは亡くなりました。
本当はもう少し悲しみに暮れる時間が欲しいところですが、涙を流す時間的余裕はありません。
翁長雄志さんがやりたかった「本当の意味で沖縄を守る」という遺志を継ぎ、立候補する人物を探さなければならないのです。
「オール沖縄」は26日までに話をまとめるとしており、仮に「革新系」と言われる人の中から候補者を立てる場合でも、本当の意味での「保守」の思想が理解できる人でなければまとまりません。
ただ、これまでに入っている情報を精査すると、どうやら有力候補が浮上しているようで、そこまで難航しているようには見えません。
さまざま可能性を考え、協議を続けているところだと思いますが、もしかしたら翁長雄志さんと同じくらい沖縄県民に愛される候補が誕生するかもしれません。
もう少し沖縄に滞在し、取材を続けたいと思います。

◆翁長雄志さんの
     知事としての責任感
 翁長雄志さんは、ギリギリまで病気の状態を伝えていなかったようです。
 僕は取材の過程で、翁長雄志さんの死亡届を受理した市役所の職員さんに話を聞くことができたのですが、死亡届にはどのような過程で死亡したのかを記入する欄があり、それを見ると、ニュースなどで見てきた翁長雄志さんの衰弱する姿とリンクし、「普通はこんな病状であれば誰か他の人に話しただろうに、それをしなかったというのは最後まで自分がやりきるという責任感だったのではないか」と感じたそうです。
 今、沖縄県民の間では「翁長雄志さんは沖縄のために戦って死んだ」と評価されています。

◆佐喜眞淳さん陣営が
主張し始めた「沖縄の分断」
 自民党・公明党推薦で沖縄県知事選に立候補を表明している佐喜眞淳さんは、「基地問題に反対しているオール沖縄が沖縄県民を分断している」と主張し始めました。
 確かに、基地問題は「賛成派」と「反対派」がいますが、みんながみんな同じ感性であるはずがないので、どんなものにも意見の対立は起こります。

 例えば、みんなで旅行をするとしましょう。
ある人は北海道に行きたいと言い、ある人は沖縄に行きたいと言ったとします。
北海道は連日の猛暑を忘れられるくらい涼しくて、広い大地に花が咲き、美しい景色と、味噌ラーメンやスープカレー、海の幸が美味しくて最高です。
いやいや、どうせ暑いなら沖縄でゆったりとした時間を過ごし、青い空に青い海、泳いで踊ってステーキを食べて、泡盛パーティーしちゃいましょう。
意見は対立するけれど、それで「分断」されることはありません。
「ステーキおごるよ」とか「泡盛パーティーに沖縄の友達を誘っちゃうよ」とか、さっきまで北海道に行きたかった人たちに「沖縄に行ってもいいかな」と思わせることで、意見をまとめることができるからです。
そして、これをするのが本来の政治家の仕事です。

 ところが、分断が起こるというのはどういう時かと言うと、北海道に行きたかった人の分まで沖縄行きのチケットを取ってしまうことです。
まったく行きたくなかった沖縄の飛行機を勝手に取って料金を請求する。
その人は飛行機恐怖症で、新幹線で北海道に行きたかったかもしれないのに、有無を言わさず、沖縄行きの飛行機のチケットを取ったらどうでしょうか。
たぶん「行かない」ということになるでしょう。
それでいて「行かないのはオマエが悪いんだからキャンセル代はオマエが払え」とか言ったら、友達は終わります。
これが分断です。

 では、基地問題はどうなっているでしょうか。
自民・公明党で構成される「政権側」は、反対する人たちの意見を聞かずに工事を強行しました。
実力行使をしているのはオール沖縄ではなく、安倍政権であり、分断を作り出しているのは他でもない安倍政権にもかかわらず、沖縄県民を分断しているのはオール沖縄だと主張し始めたのです。
 これはもう完全に、自分からぶん殴っておいてコイツが悪いのパターンです。

 しかし、モリカケ問題にしろ、公文書改竄問題にしろ、いろいろな問題が起こっても「日本を守る」とか言っていれば応援されてしまうのが今のニッポン。
「オール沖縄が分断しているんだ!」と大きな声で言えば、ネトウヨを中心に「分断!分断!」の大合唱です。
こうして日本がどんどん偏っていく。
新しい基地ができ、オスプレイが落ちて、沖縄県民が新たに死ぬようなことがあっても「こんなことがないように沖縄を守る!」とか言っておけば、まるっと解決。
日本はチョロいのです。

◆選挙ウォッチャーの分析&考察
 何事にも「順番」ってものが大切です。
僕は先日、沖縄のガールズバーで可愛い女のコに出会いましたが、いきなり告白なんかしたら超気持ち悪いオジサンです。
だから、まずは彼女に良い印象を持ってもらうために何度か通って、温度を探りながら、仲良くなるところから始めなければなりません。

 基地の問題も同じです。
本当に問題を解決したいのなら、何はともあれ、「辺野古基地ができたら、本当の本当に普天間基地を返してもらう」という約束を取り付けることが大切です。
そうじゃないと沖縄に新しい基地を増やすだけになるからです。

 どうやら日本政府は、「普天間基地を返してもらう」と言いながら、米軍とその約束をするどころか、イージス・アショアやオスプレイの購入に数千億円突っ込んでいるので、返してもらう気持ちは微塵もないようです。
 これだけ戦争の歴史や遺産が残っているのに、あれやこれやと言い訳をつけて戦争を肯定している人たちが政治の上では主流派になろうとしている現実。
ひとたび戦争が起きれば、真っ先に狙われるのは基地のある沖縄ということになりますが、どうせ死ぬのは自分じゃないし、やがて緊急事態条項ができれば、反対する奴らは全員「パヨクの非国民」ってことで牢屋にぶち込んでやればいいのです。

だから、今日も故郷のかき氷はうまい。やっぱり夏はこれですね。
<取材・文/選挙ウォッチャーちだい
(Twitter ID:@chidaisan)>

ちだい
●選挙ウォッチャーとして日本中の選挙を追いかけ、取材活動を行う。
選挙ごとに「どんな選挙だったのか」を振り返るとともに、そこで得た選挙戦略のノウハウなどをTwitterやnote「チダイズム」を中心に公開中。
立候補する方、当選させたい議員がいる方は、すべてのレポートが必見。
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2018年08月18日

気象予報士の森田正光、サマータイムは「意味がない」と断言

サマータイムに気象予報士も反対 
「時間を繰り上げても
気温は1〜2度しか違わない。
アジアでは気候的に無理」「意味がない」
2018年8月17日 キャリコネニュース

気象予報士の森田正光さんは8月15日、ラジオ番組「森本毅郎・スタンバイ!」(TBSラジオ)で、サマータイムは「意味がない」と断言した。
北米と違い、アジアでは1〜2時間繰り上げても気温がそれほど変わらないため、システム変更等のコストに見合うだけの利点がないという。

視聴者からの質問で「サマータイム導入は是か非か」と聞かれた森田さんは、「非ですね。個人的には意味がないと思っています」と断言した。
「朝の時間を活用しようとか、涼しい時間に何かしようとしたって温度は一緒、湿度も高い」
「そもそも論で言うと、日本にサマータイムは向いていないということがあります。
欧米と季節が違う。
元々の導入はイギリスですよね。
100年くらい前にイギリスの建設業の方が考えたそうです。
昼が長いので有効に使おうということでやったのが始まりなんですね。
100年くらいの歴史があるんです。

日本では戦後、進駐軍が来て4年間くらいサマータイムをやったんですね。
ところがもう皆寝不足でダメになったっていう経過があるんです」

日本では、GHQに占領されていた1948年に夏時刻法が成立し、時計を1時間進めた時刻が使われていた。
しかし4年後の1952年には廃止されている。
韓国でも1988年のソウルオリンピックに合わせて、87〜88年の2年間だけサマータイムが実施された。
しかし「季節的に無理」という理由で廃止されたという。

この「季節的に無理」というのは、時間をずらしても暑いから意味がないということだ。
「暑すぎるんです。2時間やそこらずらしても一緒だということです。
実際に2時間ずれて朝の7時が5時になっても1〜2度しか違わないんですよ、最大で。
昼の時間はどの時間帯でも暑いわけです。
結局は、朝早い時間を有効活用しようとか、涼しい時間に何かしようとしたって温度は一緒で、湿度も高い。
アジアでは気候的に無理」

気象庁によると、今年の8月14日の気温は午前5時に24度、午前7時に25.7度だった。
15日は午前5時が27.4度、午前7時が29.2度となっている。
2時間早起きしても、気温に大差はないのだ。

そのため森田さんは「導入する時にシステムを変更するとかコストが掛かるじゃないですか」と労力が必要な割に見返りが少ないことを指摘していた。

フィンランドでは7万人の署名を受けて
政府がEUに廃止を提案
番組パーソナリティの森本毅郎さんは「イギリスでも100年経った今、見直し論が出ているという話がありました。
(中略)睡眠障害の影響も出てくるという話ですから」と指摘した。
現在、EU加盟国では共通の夏時間「デイライト・セービング・タイム(DST)」を導入している。
3月の最終日曜日から10月の最終土曜日まで時計を1時間進めるというものだ。
しかしフィンランドでは7万人の署名を受けて、今年1月に政府がEUに廃止を提案した。
リトアニアでも17年12月、政府とEUが廃止に向けた協議に入っている。
フランスドイツラトビアでも世論調査で過半数が夏時間に反対しているという。

健康への悪影響も指摘されている。
睡眠不足になり、心筋梗塞や脳卒中のリスクが高まったり、判断力の低下で交通事故が増える可能性があるという。
日本では奈良県が2012年から、開庁時刻と閉庁時刻を30分繰り上げるサマータイムを実施していた。
東日本大震災後、節電のために始まったものだが、職員から不評だったため、2017年に廃止している。
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2018年08月17日

インパール作戦を立案・指示した「陸軍最悪のコンビ」の深層心理

インパール作戦を立案・指示した
「陸軍最悪のコンビ」の深層心理
8/17(金) 現代ビジネス(広中 一成)

不祥事の「責任」は誰にあるのか?
 昨年から今年にかけて、日本では組織内で何らかの不祥事が起きたとき、誰がどのように責任を取るのかという問題が注目を集めた。
 そのひとつが、いわゆる森友学園問題である。
これは、学校法人森友学園が小学校新設に際し、不当に安い価格で国有地を手に入れたことに端を発する。
政界を巻き込む大スキャンダルとなり、最終的に問題に関わっていた財務省側の局長クラスの幹部らが懲戒処分を受けた。  

もうひとつ、私たちの記憶に新しいのが、日本大学アメフト部悪質タックル問題である。
今年5月6日に開かれたアメフトの試合で、日大選手が故意に相手選手にタックルし負傷させた。
その後、日大選手にタックルするよう命じた監督とコーチからが責任を取って辞任した。
 しかし、どちらの問題も責任者の処罰だけで終わらせてよいのかという声が今でも根強い。
 組織の誰かが不祥事の責任を取って終幕を図るというやり方は、今に始まった話ではない。

過去の事例をひとつあげる。
 筆者は、今年7月に『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』(星海社新書)を上梓した。
そのなかでは、主人公である陸軍軍人の牟田口廉也中将と、彼の上司にあたる河辺正三(まさかず)大将の関係に着目した。  

このふたりは、アジア太平洋戦争期の日本陸軍のなかでも、「最悪のコンビ」として一部で評されている。

「最悪のコンビ」の誕生
 牟田口廉也は、1888年佐賀県に生まれた。
陸軍大学を卒業すると、陸軍参謀本部に入り、その後、近衛歩兵連隊長、陸軍省軍務局員、参謀本部庶務課長などを務め、陸軍エリート将校として順調に出世の階段を登った。
 しかし、1936年に東京で陸軍若手将校の軍事クーデターである二・二六事件が起きると、牟田口は、クーデターの支持派とみなされ、陸軍中央から中国北京に駐屯していた前線部隊の連隊長に「左遷」された。
 その前線部隊で牟田口の上官となったのが河辺正三だった。

 河辺は、1886年富山県生まれ。
牟田口の上官とはいえ、ふたりの年の差はわずか2歳であった。
河辺は陸大卒業後、参謀本部や連隊長職を歴任し、牟田口と同じ1936年、支那駐屯軍北京旅団長に任じられた。

 牟田口は強気で勇猛果敢だったのに対し、河辺は大人しく学究肌と、対照的な性格だった。
実戦経験のなかった牟田口は、河辺から連隊長としてのイロハを学び、河辺も慕ってくる牟田口に目をかけた。
 ふたりがコンビとなってからほどなくの1937年7月、北京近郊で盧溝橋事件が発生した。
 日中戦争の火蓋を切ったこの戦いで、牟田口は北京を留守にしていた河辺に代わって、事件処理の陣頭指揮をとった。
しかし、事件の穏便な解決を望んでいた河辺に対し、牟田口は実力行使で臨み、事態を悪化させた。

 本来、上官であるなら、部下が意に沿わない行動をしたら叱責するなどして命令に従わせればよい。
 しかし、牟田口のもとに現れた河辺は、叱責することなく「一言も発さない、一言も発さないで口を結んで、「余計なことをした」と言わんばかりの表情」をしただけだった。
それはなぜか。
 河辺は牟田口がすでに前線に発した命令を撤回することは、「如何に見解の相違とは謂え、高級指揮官として採るべき策ではなかった」と考えたからだった。
 これは、今まさに戦闘が繰り広げられている前線を混乱させたくないとする河辺の高度な判断であったといえる。
しかし、結果的に戦火が拡大したことを考えると、日本軍の現地責任者として河辺の判断が正しかったかどうかは疑問符をつけざるを得ない。

牟田口の「悔恨」が招いた無謀
 強硬姿勢を貫き独走する牟田口と、部下を抑えることなく放任した上官の河辺。
このいびつな関係のふたりが、再びコンビとして相まみえた場面が、日本軍の稀代の「愚策」とされるインパール作戦だった。

 インパール作戦とは、アジア太平洋戦争後期の1944年3月、ミャンマー(当時はビルマ)にまで支配を広げていた日本軍が、隣国インドの北東部にある都市インパールを攻略するために始めた戦いをいう。
このとき、河辺は現地日本軍トップのビルマ方面軍司令官、牟田口がその直属の第十五軍司令官を務めた。

 ミャンマーとインドの国境は、切り立った山々の連なる密林地帯で、そのなかを進軍することは容易でなかった。
それにもかかわらず、なぜ日本軍はインパールを攻めようとしたのか。
 その理由のひとつが、インドから中国へつながる援蔣ルートを遮断することだった。

 援蔣ルートとは、日本と戦いを続ける中国国民政府(蔣介石政権)への米英からの物資支援のことをいう。
日本軍は日中戦争が長期化した原因に援蔣ルートの存在が大きいとみなし、複数あったルートを次々と遮断していった。
 しかし、米英はインドから飛行機でヒマラヤ山脈を越えて中国昆明まで空輸するルートを新たに開き、中国への支援を続けた。
日本軍はインパールを支配下に入れることで、インドからの援蔣ルートを完全に抑え込もうとした。
 また、インパールを攻略するもうひとつの理由として、いわゆる対印施策(印はインドのこと)の実現があった。
対印施策とは、インド独立派のスバス・チャンドラ・ボースらを支援して、インドをイギリスの植民地から「解放」させる方策をいう。
これは当時日本政府首相を兼務していた東条英機陸相の肝いりで進められた。

 あるとき、ビルマ方面軍高級参謀の片倉衷(ただし)大佐は、対印施策について河辺から次のように告げられた。
 「自分が着任前、東条首相と会談したが、その節、ビルマ政策は首相として対インド政策の一環として関心があり、また大東亜戦全局の戦局指導上、ビルマ方面に期待すとの話合があり、私、河辺も対印施策に関心がある」
 東条の意を受けた河辺は、ビルマ方面軍司令官として対印施策の実現を目指した。
そして、東条と河辺は、インパール作戦は対印施策のきっかけをつかむものとして期待した。
 もともと、インド方面への進攻は、「二十一号作戦」という名で計画された。
この作戦について、はじめ意見を問われた牟田口は、作戦の実行が困難であるとして消極的な考えを示した。
 しかし、これまで強気な態度を見せ続けた牟田口は、このとき自分が初めて弱気な一面を表してしまったことを悔やみ、何としてでも作戦を実現させようと心に誓った。
そして、意地でもインドに攻め込むという牟田口の執念が、無謀なインパール作戦の計画が立てられる発端となった。

河辺は唯一、作戦を支持した
 作戦は雨季に入る前の春先一ヶ月間とされた。
しかし、上述のとおり、インパールまでの道のりは険しく、正攻法で挑んでも作戦を達成することが難しかった。
 そこで、牟田口は行軍を少しでも早めるため、作戦に参加する将兵に持たせる食料や装備をできるだけ少なくした。
そして、作戦中に将兵の食料が足りなくなったら、道端に生える野草を食べるか、作戦部隊が引き連れてきた羊や牛などの家畜を殺して食べるよう命じた。
 この計画を、牟田口はかつてモンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンが家畜を率いて戦いに出た故事から「ジンギスカン作戦」と名づけて自賛した。

 この荒唐無稽な作戦計画は、当然ながら軍司令部の誰もが反対した。
しかし、そのなかで、唯一、牟田口の計画を支持したのが河辺だった。
河辺の存在は、インパール作戦の実現に邁進する牟田口の心の支えとなった。
 1944年3月、日本軍は兵力約9万人を擁してインパール作戦を発動した。
しかし、多くの軍司令部幕僚の不安は的中し、インパール作戦は日本軍に3万人あまりの戦死者を出して失敗に終わった。
食料を失った日本軍将兵は、撤退途中で次々と倒れ、命を落とした。
屍が並んだ道は別名「白骨街道」と呼ばれた。

 牟田口は、インパール作戦の責任を取って、第十五軍司令官の職を解かれた後、陸軍を退官し、召集先の陸軍予科士官学校で敗戦を迎えた。

 あなたも「牟田口」に
          されるかもしれない
 戦後、牟田口はインパール作戦を実行した敗戦の将として、世間から猛烈に批判され、「愚将」という不名誉なレッテルを貼られたままこの世を去った。
 インパール作戦は、牟田口が勝手に始めたのでなく、上官の河辺、さらには東条首相の支持がなければ実現できなかった。

よって、本来であれば、インパール作戦の敗北の批判は、牟田口だけでなく、河辺らにも向けられなければならなかったはずだった。
 しかし、河辺はインパール作戦後、ビルマ方面軍司令官の職を退くが、特に作戦の責任を問われることなく、終戦前に陸軍大将にまで進んだ。
そして、河辺は世間から「愚将」と罵られた牟田口とは対照的に、戦後静かな余生を送った。

 河辺にとって、牟田口はインパール作戦の批判を一身に受けたスケープゴートだった。
 昨今、様々な不祥事が起き、誰かひとりが批判の矢面に立つと、加熱する報道やSNSでの書き込みも手伝って、国民総出でそのひとりを徹底的に追いつめる風潮がある。
みんなが集まりよってたかって敵を叩く習性は、よそ者に厳しい日本人独特の「島国根性」の表れなのかもしれない。

 しかし、敵を批判することに熱中するあまり、私たちはその不祥事がなぜ起きたのかという問題全体を見通す視野を失っていないだろうか。
しかし、実はその「敵」はスケープゴートに過ぎず、「敵」の裏に潜んでいるのが、本当の批判の対象かもしれない。
 愚かな判断の裏には、それを黙認し、かつ支持しながら、いざ失敗が明るみになると、「自分は関係ない」と姿を隠す人間が必ずいる。
 いま、あなたは気づかないうちに「牟田口」になっているかもしれない。
もしそうなら、あなたの後ろには「河辺」がいる。
posted by 小だぬき at 15:08| 神奈川 ☀| Comment(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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