2022年08月11日

安倍3代にわたる統一教会との蜜月関係を、なぜ大新聞は追及しないのか

元木昌彦【週刊誌からみた「ニッポンの後退」】
安倍3代にわたる統一教会との蜜月関係を、なぜ大新聞は追及しないのか
8/7(日) 日刊ゲンダイ

 腰抜けの大新聞やテレビは、今ごろになって自民党の政治家と統一教会との癒着構造や、安倍政権時代に統一教会から世界平和統一家庭連合への名称変更が認められたなどと寝とぼけたことを報じているが、週刊誌ははるか先へいっている。

問題の核心は、岸信介、安倍晋太郎、安倍晋三と3代にわたって脈々と続いてきた安倍家と統一教会との「親しすぎる関係」にあることは間違いない。
 週刊新潮(8月4日号、以下新潮)で自民党のベテラン秘書がこう言っている。
「選挙で誰が統一教会の支援を受けるかは、安倍さんの一存で決まるといわれていました。
教会の組織票は約8万票。
ただ、衆院選では1選挙区あたりの統一教会の票数はそれほどでもないので、参院の全国比例でその組織力が発揮されます」

 推薦を受けるには、統一教会のトップと面談をする。
そこで不倫や金銭トラブルがないかただされ、安倍元首相が応援している候補なら確実に支援してもらうことができるという。 
 だが、選挙の直前になると教会の施設で泊まりがけの研修を受けなくてはいけないというから、この時に“洗脳”されるのかもしれない。
そんな連中が政治家になり、統一教会の言うがままに便宜をはかってきたとすれば恐ろしいことである。

 その大本が岸信介にあることはよく知られているが、新潮(7月28日号)が放った「『岸信介』が1984年に当時のロナルド・レーガン米大統領に送った『統一教会首領・文鮮明』釈放嘆願書」は、時宜を得たスクープだった。
そこにはこう書かれている。
〈文尊師は、現在、不当にも拘禁されています。貴殿のご協力を得て、私は是が非でも、できる限り早く、彼が不当な拘禁から解放されるよう、お願いしたいと思います〉

 文鮮明はその前に、アメリカで脱税容疑で逮捕・起訴され、84年4月には懲役1年6月の実刑判決を受けて連邦刑務所に収監されていた。
つまりこの書簡は、日本の元総理がアメリカの現職大統領に宛てて、韓国人「脱税犯」の逮捕が不当だとして釈放を依頼するという、極めて異例の内容なのだ。
 手紙の後半では、
〈文尊師は、誠実な男であり、自由の理念の促進と共産主義の誤りを正すことに生涯をかけて取り組んでいると私は理解しております〉
〈彼の存在は、現在、そして将来にわたって、希少かつ貴重なものであり、自由と民主主義の維持にとって不可欠なものであります〉。

 このころには、統一教会の悪質な「霊感商法」が世の厳しい指弾を受けていたのである。
 しかし、「昭和の妖怪」といわれた岸は引退後も政界に隠然たる力を持ち続け、統一教会との関係も、息子から孫へと受け継がれたことは間違いない。
 だが、週刊誌はタレントたちの合同結婚式では報道合戦を繰り広げたが、政界の統一教会汚染にはあまり熱心ではなかった。
探してみたが新潮(1992年7月30日号)が、「勝共連合が発表した勝共推進議員名簿には150人もの国会議員が名前を連ねている。ハッキリいって、自民党の代議士の半分以上が統一教会の恩恵にあずかっているといってもいいんですよ」(統一教会に詳しいジャーナリスト)ぐらいだった。
 今度こそ、安倍元首相も含めて、統一教会と政治家の極めて不適切な関係にメスを入れなくてはいけない。 (文中敬称略)
(元木昌彦/「週刊現代」「週刊フライデー」元編集長)
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2022年08月10日

「無理して働く→体を壊す→金欠になる」年収250万円の会社員が貧乏ループを脱出した起死回生の一手

「無理して働く→体を壊す→金欠になる」年収250万円の会社員が貧乏ループを脱出した起死回生の一手
2022年08月06日 PRESIDENT Online

お金を貯めるには、どうすればいいのか。
YouTuberのミニマリストTakeru氏は「家計を健全化するには、モノを買わないことだ。まずは何かを“減らすこと”に目を向けるといい」という――。
※本稿は、ミニマリストTakeru『貯まらない生活はもうやめよう モノを手放すだけで増える「お金と幸せの法則」』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです

■お金を稼ぐ努力で金欠になる悪循環
20代前半、私は会社員として3社を経験しました。
仕事の主な内容は学習塾の営業で、時折、小学生と中学生に学習指導もして、月収は約20万円。
年収は250万円ほどでした。
将来は自分の会社を立ち上げたいと意気込んでいた私にとって、すべてが大事な仕事だと張り切って臨みました。
しかし、営業という仕事は結果がすべて。
結果を出すために労働時間も長くなりがちで、毎日が疲労困憊(こんぱい)。
断られることが当たり前の世界なので、心もすり減っていきました。

もともと難病持ちだった私は体調をよく崩し、数カ月に1度は病院に通って、点滴や検査をしている状態でした。
しかも、自炊をする余裕はなく、寝る時間がとにかく欲しい。
食事はスーパーの惣菜やコンビニ弁当、
外食が続き、お金はあっという間に消えていきます。
そこに加えて病院代も増えていく。
お金を貯めながら健康的な生活を送るなんて、夢のまた夢でした。

家計管理も節約もする余裕はなく、毎日のように長時間働いて、簡単に食事を済ませて、寝て起きたらすぐに仕事。
すべてはお金のために、感情を無にして、思考停止状態で仕事をせざるを得ませんでした。
私は、社会の厳しさと仕事の難しさを痛感しました。
学生時代とはまるで違う。お金を稼ぐこと、お金を貯めることは、こんなにも難しいことなのかと。

■転職しても生活の苦しさは変わらなかった
ある時、どうせ仕事は大変なのだからと、給料アップを目指して同業種に2度転職をするも、半年も経たずに退職。
貯金を切り崩す生活になり、結局貯金はゼロに。
毎日毎日お金のことを気にして、お金のことで頭がいっぱいになりました。
そんな20代前半を私は過ごしました。
私がこの経験から学んだのは、仕事はもちろん、お金の知識やスキルを適切に身につけないと、結局は同じ失敗を繰り返すだけになってしまうということです。
毎回同じことの繰り返しで、働いて、お金を使って、退職をして、お金がまったく貯まりません。
つまり、仕事とお金に振り回される人生になってしまうのです。

お金がなくて疲労困憊だった私は、ウキウキした気分で朝を迎えることができません
毎日が憂鬱(ゆううつ)でした。
完全に意気消沈。
仮病を使ったりサボったりする日もありました。
だから、よく自己啓発書やビジネス書を読み、自分を奮い立たせようと試みるのですが、「心から好きなことをしなさい」とか「頑張らないで生きなさい」とか、逆に「死ぬほど頑張れ」とか、いろんな言葉に触れたけど、当時の私にはほとんど響きません。
好きなことはしたいけど、生活することが最優先だし。頑張らなかったら、お金がなくなって、より生活が苦しくなってしまう。
今も必死に働いているのに、これ以上頑張ったらもっとしんどい……。そんな心境だったのです。

「いったい、僕はどうしたらいいんだ!」と毎日のように思えど、その答えは見つからないままだったのです。
だから、この先もしばらく苦しむことになります。
若いうちは好きなことをなかなか仕事にできないし、貧乏も経験するし、死にそうなくらい働かないといけないし、その反動でまったく働かない時期もあるし、お金はなかなか貯まらないし、何かを変えるだけの余裕もない。
もしかしたら、人生はそういうものなのかもしれません……。

■行き詰まったら、まず「減らす」
あなたも今、あれこれ学んで考えても答えが見つからず、身動きが取れなくなって悩んでいませんか?
私がただ1つだけ、あの頃の自分にアドバイスをするとしたら、「何を始めるにしても、まず最初に“減らすこと”を考えて」と伝えます。
多くの人が身動きが取れないのは、多くを抱えすぎているからです。
あなたはさらに、新しいことを付け加えようとしていませんか?
 だから、キャパオーバーで何もできなくなるのです。

何かを減らさなければ、あなたには動き出せるだけの体力や気力、発想力も残っていません。
だから、何かを減らすことを考えましょう。
減らすことで、余裕が出てくるのです。
たとえお金に余裕がなくても、時間や心に余裕が出てくれば、何かを変えようと思えるはずです。
人生を変えられる人間がいるとすれば、それは余裕のある人間です。
もっと言えば、何かを手放せる人間だと私は思います。

仕事でも、家事でも、人間関係でも、無駄遣いでも、モノでも、行動習慣でも構いません。
「余裕」を生み出すために、何かしらを手放しましょう。
何を始めるにしても、一番最初に「減らすこと」からスタートするのです。

■借金やローンは「労働時間の前借り」
私たちは一生懸命働き、生活費や税金、社会保険料はもちろん、クレジットカードの引き落としなどを毎月のように払っています。
だから、私たちの多くは毎月月末に支払いを終えると、手元にはごくわずかなお金しか残りません。
私は、「支払いに追われる生活」が、永遠に続く重荷のように感じていました。
しかも、高収入で贅沢をしている人をSNSで発見するたびに、自分だけ取り残されている気分になっていました。
欲しいものはキリなく出てくるし、引っ越ししたり、転職したり、家具家電を新調したりすれば、永遠にお金が貯まりません。
私の場合、気づけば借金が340万円まで膨らんでいました。
借金やローンは、いわゆる「労働時間の前借り」です。
借金があればあるほど、そのぶん働かなければいけません。
そしてローンを組めば、欲しいものが「今すぐ」手に入る代わりに、「あなたの労働時間を差し出す」という代償があるのです。
借金やローンには、そういった罠が隠されているので注意が必要です。

多くの人間は、目の前の欲しいものが手に入った喜びに舞い上がってしまい、そんなことはどうでもいいと感じているかもしれませんが、そのことをキチンと理解する必要があります。
なぜ多くの人は、労働時間を前借りしてまで、欲しいものをすぐに手に入れたがるのでしょうか。
その原因の1つが、「欠乏マインド」です。

■欠乏マインドがある限りお金は貯まらない
「あの人はこれも持ってる。こんなこともしている」「なのに、自分にはこれがない。自分はこれができてない」というように、自分の見ている世界が「持っていないもの」や「できていないこと」、つまりは「足りないもの」だらけになっているのです。
その足りないものを今すぐ手に入れたい衝動から、多額の借金やローンを組んでしまうのかもしれません。

私も、何かが「足りない」と感じると、渇望し、すべてが「必要」と勘違いしてしまい、いつも衝動的にお金を使っていました。
世の中には、いいモノや新しいモノが次から次へと出てきます。
それをすべて手にすることはできません。
より多くを手にするには、借金をするか、お金を貯めては買ってを繰り返すかしかありません。
そんな生活になっていないでしょうか。
つまり、この欠乏マインドは、買えば買うほどさらに欲しくなるという悪魔のサイクルをつくり出し、そのことに気づかなければ永遠に抜け出すことができないのです。

そして、この欠乏マインドの怖いところは、お金自体が欠乏してしまうと、生活において「お金」が最も重要なものになってしまうことです。
お金を最優先して、自分らしくない生き方をしてしまいます。
例えば、ローン返済のためにやりたくない仕事をしぶしぶ続けていたり、ブラック企業から抜け出せなかったり、1日10時間以上働かなければならなかったり、休みなく働いたり。せっかく稼いだお金で、大量のモノを買って浪費する。
もはや生活に必要なモノは十分あるはずなのに、贅沢やストレス発散、衝動買いで浪費するようになります。
そして、お金がまた足りなくなるのです。

■モノを買わなければ家計は健全になる
私はこの「欠乏マインド」によって多くを失いました。
お金とモノに支配され、自分の行く手が阻まれ、身動きがとれず、夢が破れ、夢を忘れ、仕事を失い、恋人とも別れ、健康状態も悪化。
多くの信用とたくさんのお金を失いました。
そんな生活から脱出したいと思い、さらにはお金やモノに振り回されない自分らしい生き方を追求したくて、私はミニマリストという生き方を選んだのです。

私は正直、ミニマリストになった今、「なぜあんなにモノを買ってしまったのだろう」「あのお金、もったいなかったなぁ」と、後悔することがあります。
物欲や衝動に身を任せていなければ、もっと豊かになっていたかもしれないのに。私もあなたも、モノを今以上に買わなくても死ぬことはないでしょう。
普通に、今まで通りの生活はできるはずです。

では、健全な家計にするにはどうしたらいいのでしょうか。
極端かもしれませんが、「いったんモノは買わない」と決めることです。
一度、悪循環を断つのです。
もちろん、生きていくために必要な食材や日用品はいいのですが、例えば新しい洋服や靴、カバン、ガジェット系などは今すぐ買わなくても生きていけるでしょう。
身の丈ギリギリの家賃を払い、新車を買い、手持ちのお金のほとんどを趣味や娯楽、買ったところで毎日は使わないようなモノに費やすと、お金をどんどん失い、お部屋が不要なモノで溢れてしまいます。

まずは生活に必要なモノを見極め、「欲しいモノ」はいったん我慢しましょう。
モノは買わず、今あるモノたちに目を向けるのです。

あなたが毎日のように使っているモノは何ですか?
 ないと生活や仕事に支障が出てしまうモノは何でしょうか? 
そうした、必要なモノだけを持つのです。
「これだけあれば十分」というラインがわかれば、確実にお金は増えていきます。
買う必要性がなくなるからです。
そして、何かを買う時は、必ず自分に問いかけてみてください。
あなたの「労働時間」「大切な命(時間)」を差し出してまで、交換するに値するモノですか?
 生活になくてはならないモノですか?

すでに、多額の借金を抱えてしまい、経済的自立の道に戻ろうと頑張っている人も少なくないはずです。
まずは支出を削り、金利の高い借金から返済していきましょう。
金利の高い借金は、あなたから一番お金を奪い、一番速く膨張していくからです。
だから、借金を抱えていると、望むような生活はできなくなるのです。
そして、クレジットカードという魔法のカードに惑わされてはいけません。
必要なものはすでにあります。
まずは、お金を使わない生活にするのです。
とにかく支出を削り、いち早く借金を返済してください。

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ミニマリストTakeru(ミニマリストタケル)
YouTuber
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2022年08月09日

【御巣鷹山から37年】「なぜ、救助は翌朝に?」天国の夫に誓う墜落の真相究明

【御巣鷹山から37年】
「なぜ、救助は翌朝に?」天国の夫に誓う墜落の真相究明
2022年08月07日 女性自身

「21年間の結婚生活で夫婦げんかは一度もありませんでした。
百貨店に行けば、私を着せ替え人形のように頭の先から爪先まで、ぜんぶコーディネートしてくれた主人です。
生まれつき股関節脱臼がある私を『歩けなくなったら、必ずおんぶしてあげる』と。
この幸せが、ずっと続くように祈っていました。
あの年の8月12日、主人は急な日帰り出張で東京に行きました。
帰りの飛行機の前に電話をくれた主人は、とても疲れた声でした」
それが、吉備素子さん(79)が聞いた最愛の夫・雅男さん(享年45)の最後の肉声だった。
「いまから帰る。19時に伊丹空港に着く便に乗るーー」

■「主人がなぜ亡くならなければならなかったのか?」
1985年8月12日に発生した日航123便墜落事故。
群馬県上野村の御巣鷹の尾根に18時56分に墜落した羽田発大阪行き(ボーイング747)には、乗員・乗客524人が搭乗していたが生存者はわずか4人(すべて女性)。
520人もの尊い命が犠牲となった単独機世界最大の大惨事だった。
犠牲者の中には、国民的歌手の坂本九さんも含まれていた。
また、同事故を扱った山崎豊子原作の映画『沈まぬ太陽』(2009年)では主演の渡辺謙が航空会社社員として遺族の世話役を演じた。
夫の雅男さんはその犠牲者であり、吉備さんは遺族となったのだ。

「4カ月間、私は遺体安置所で、身元不明の部分遺体をひとつずつ手に取って、主人を捜しました。
でも主人は手も足もバラバラで、ぜんぶは見つかりませんでした」
9月の誕生日で満80歳となる。
昨年は大腸がんの摘出手術をした。
さらに先天的な股関節脱臼で激痛があり、歩くのには杖が必要だ。
そんな吉備さんが日航に対し、民事訴訟を東京地裁に起こしたのは、2021年3月26日のこと。
当初、この7月に判決予定だったが、8月25日の口頭弁論を経て、9月以降になる見込みだ。

「墜落機のボイスレコーダー(音声記録装置)とフライトレコーダー(飛行記録装置)の生データ開示請求」が趣旨だが、なんと発生から36年、日本では同事故の裁判が一度も行われてこなかった。
それを、なぜいま吉備さんが、ひとりで闘おうとしているのか。
「ひとえに、主人がなぜ亡くならなければならなかったのかの事実、真実を知りたいだけなんです。
今日の今日まで、日航から直接、事故原因を説明されたことなど、一度もないんですから」

同事故は、事故調査委員会の1987年の事故調査報告書で「ボーイング社の修理ミスが原因で後部圧力隔壁が破壊、急減圧が発生し垂直尾翼が吹き飛ばされたことが原因」とされ、ほとんどの人が「不運な事故」と記憶しているはずだ。
しかし吉備さんは目を見開いて「真実は明かされていないんです」と訴える。
「日航や国の対応は辻褄が合わず、おかしな点ばかり。
夕方に墜落したのに救助は翌朝やっと始まった。
夜に始めていれば100人ほどは助かったのではとも聞きました。
国も日航も、なにか隠している。
私は墜落原因にずっと疑問を持ってきました」

今日までの出来事と疑問、闘いのすべてを振り返ってもらった。
(なお、判決の行方は、河出書房新社より10月25日に発売される青山透子さん著『JAL裁判 日航123便墜落事件と1985』で詳しく綴られる)

■「家に帰ると、その日の出来事をすべて私に報告するのが、主人の日課でした」
「私が生まれて3カ月のとき、父はニューギニアで戦死しました。私には父の記憶がないんです」
1942年9月24日、朝鮮生まれ。
歯科医の父と石川県出身の母とのあいだに生まれた、3人きょうだいの末っ子で次女が吉備さんだ。
3歳になる年に終戦を迎え、その12月に一家は引き揚げの途に。
「すでにロシア兵が侵攻していて、一家で歩いて38度線を越えました。
足が動かなかった私を、母が背負って歩いてくれたんです」
命からがら「おんぼろ船に乗り込んで」父の実家の徳島県へ
成長につれ股関節は丈夫になり、小学校には杖なしで歩いて通えた。

その後、学生時代の吉備さんを見初めたのが、雅男さんである。
「3歳上の雅男さんと学生同士の集まりで知り合いました。
でも私は最初、逃げ腰だったんです」 というのは雅男さんの外見が、いわゆる“コワモテ”だったから。
だがそのうち、彼の内面のやさしさ、包容力に気がついた。
「長男で、責任感が強い人とわかってきました。逆に私は末っ子で、甘えたいところがあった。 股関節のことでいつかは歩けなくなる覚悟をしていましたので、『歩けなくなったら、必ずおんぶしてあげるよ』という雅男さんの言葉が、温かかったんです

」 大学で薬剤師の資格を取得した雅男さんが製薬会社に就職した後、2人は結婚。
長男、長女も授かり、幸せを実感する日々を迎えた。
「主人はたばこを吸わず、お酒も仕事のつき合い程度。
家に帰ると、その日の出来事をすべて私に報告するのが日課でした」

そんな雅男さんに、吉備さんはかなり溺愛されていたようで。
「私が家から徒歩数分のパン屋さんに行くのも心配で、幼少の娘に『迎えに行っておいで』と後を追わせ、次に息子を。最後は本人が店の前で私を“出待ち”していて」

吉備さんも、夫に献身した。
「主人は朝6時半過ぎには家を出ますから、私は4時起きで、まず自動車を拭いて、靴を磨き、家族全員分の食事を支度します。
そして、主人の仕事に役立つようにと、経済や医学の新聞記事に赤ペンで丸をつけるんです」
ほほ笑んだ吉備さんが、表に目を向けるように言った。
「車の運転席に主人、隣が長男で、後ろに長女と私。 そんな休日には幸せをしみじみ感じました。
『この幸せがずっと続きますように』と天国の父に祈っていたんです」
夫45歳、妻42歳、幸せの絶頂にいたはずが、あの日、一変する。

■バラバラになってしまった夫を必死で探しまわった
1985年8月12日、夕刻。 東京から帰阪する予定の夫を、長男が伊丹空港に迎えに出ていた。
「19時過ぎ、その息子から電話で『いつまでたっても出てきへん』と。
いつも、真っ先に降りてくる主人がです。慌ててテレビをつけたのが19時半ごろでした……」
テレビから飛び込んできたのは、 《日航123便が、レーダーから消えたもようです》

近所に住む妹夫婦に、すぐ空港まで送ってもらった。
「主人が乗った飛行機だとわかっていました……でも、無事をひたすら祈っていました」
夫の同僚も駆けつけた。
そして。 「《墜落した》とだけわかりました。
でも《場所はわからない》と」 搭乗者名簿の報道に夫の名が出たのは、23時過ぎだったと記憶している。

一旦帰宅し「一睡もせず」翌朝7時の飛行機で上京。「群馬方面」へのバスの道中、11時前に《生存者4人発見》の速報が。 「でもなぜか『主人はダメだろうな』と感じていました。
群馬について、トイレに行く気も食欲もなく体育館で待機していると、16時過ぎに警察が『調書を取る』と」 そこで夫の持ち物、身体の特徴、服装、カバンの中身などを聞かれるにつけ「ふつうの状態では見つからないのだろう」と観念した。

「体育館には次々遺体が収容され、17日には身元確認に遺族2人までが入れることになりました。
でも、虫の死骸を見るのも苦手だった私は長男と義弟に止められて、彼らが先に入ったんです」
ほどなくして、雅男さんと似た遺体の一部が見つかったといわれたが、吉備さんが確認すると一目瞭然で別人とわかった。 「ちょっと擦りむいたり、筋肉痛があるだけでも『痛い、痛い』って私に甘える人でしたから、どこに傷があるかも全部わかっているんです」

当時、検視では、頭部と胴体がつながっている遺体を「完全遺体」、両部が離れた遺体および顔や手足など一部のみの場合を「離断遺体」(部分遺体)と呼んだ。
群馬県警高崎署で身元確認班長を務めた飯塚訓さん著『墜落遺体』(講談社)によれば同事故の検視総数は《2千65体》。つまり《520人の身体が、2千65体となって検屍された》というのである。
このような想像を絶する状況で、吉備さんは「必死になって主人を捜し回った」と述懐する。

「家が好きだった主人を、早く家に連れて帰りたい一心でした。
あるとき子どもさんの棺を開けてしまったんですが、そこに納められていた小さな右手が、ひと目で主人のものとわかったんです」
なぜ小さな右手を雅男さんだと確信できたのだろう。
「ダメだ」と警察に制止されるも食い下がり、指紋の照合を懇願している。
「5時間ほど後に、指紋が一致しました。
焼かれたら縮むんですね。
すっかり小さく、やさしい手になっていたけれど、指の短さなどが夫の手でした。
主人を見間違うはずがありません」

棺にはズボンも置いてあった。
「主人のズボンに違いありませんでした。そして棺には、太ももの途中から足首までしかない右足があり『B型』と書かれていた。
でも主人は『O型』ですので、警察に引き取られてしまい、『もう一度、正確な血液検査をしてください』とお願いしました」

■抗議に出向いた日航の本社で、当時の社長はブルブルと震えだした
翌日には、傘だけすっぽり抜け落ちたカバンが、ほかはあの朝、詰めたのと同じ状態で見つかった。
そして19日、右手とズボンとカバンだけ荼毘に付すことに。
「知人が般若心経を写経した着物を届けてくれて。
でも、頭も体もありませんから、日本赤十字社の看護師さんが新聞紙で主人の全身をかたどって、顔の部分も包帯で巻いてくれたんです」
その夜は、夫の骨壺を「肌身離さず抱いて」明かした。

「亡くなったことは受け入れなければいけない。
でも、わかってはいるけど、空虚な感じでした……」
残りの遺体確認を続けるなか、10月には、再検査を依頼していた右足が勝手に荼毘に付されてしまっていたことが発覚する。 「『話が違う』と抗議しました。
さらに『政府が部分遺体すべてを10月中に荼毘に付す予定だ』と聞き、日航の社長に会いに行ったんです」
一遺族に一人ついた「世話役」の社員が帯同し、本社に高木養根社長(当時)を訪ねると。
「彼は墜落現場に行かず、黒焦げの遺体も見ていないことがわかった。
私は『あのような状態で荼毘に付しては浮かばれない。
520人の命を持って中曽根(康弘)首相に直訴しましょう』と言いました」
すると高木社長は「ブルブルと震えだした」というのだ。

「そして『そんなことしたら私は殺される』と怯えているんです。
『なぜだ?』と疑問に思いました」
その後、部分遺体を荼毘に付すのは延期され、雅男さんの背中の一部と右足首も見つかった。
12月の合同葬の前日、吉備さんは身元不明の残りの部分遺体すべてに、両手をさしのべている。
「2時間くらいかけて『捜し当てることができずに、ごめんなさい』とお詫びしていました」
(取材・文:鈴木利宗)
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