2020年10月21日

菅政権の目的は「国民統制」!?聞こえのいい政策が続く危険性とは

菅政権の目的は「国民統制」!?聞こえのいい政策が続く危険性とは
2020.10.20 ダイヤモンドオンライン
上久保誠人:立命館大学政策科学部教授

菅政権が発足し、1カ月で続々と政策を打ち出している。
しかし、政権の目的は「政策実現」ではない。
国民にとって「いい政策」が聞こえてくるが、菅政権の最終的な目的は「国民統制」ではないかということが、既に見えてきている。(立命館大学政策科学部教授 上久保誠人)

安倍前政権は目的=政策実現、手段=権力集中 菅政権は逆になった!?
 菅義偉政権が「安倍政治の継承」を掲げて発足してから1カ月がたった。
だが、安倍晋三前政権とのはっきりとした違いが見えてきた。
それは、菅政権では、政権が「目的」とすることと、その実現のための「手段」が、安倍前政権時代と入れ替わっていることだ。

 安倍前政権では、首相の「やりたい政策」というものが前面に掲げられていた。
まず、首相の悲願であった「憲法改正」だ。
次に、「特定秘密保護法」、「安保法制」、「テロ等準備罪(共謀罪)法」などの安全保障関連の法律の整備であった。
 また、それら「やりたい政策」を実現するために、内閣支持率を維持する経済政策「アベノミクス」、「一億総活躍」、「働き方改革」「女性の社会進出」、「教育無償化」などの国内政策も次々と並べられた。
これらの政策を実現が、安倍前政権の「目的」だった。
 そして、その「目的」を実現するための「手段」が、菅官房長官(当時)を中心とする首相官邸への権力集中だった。

在任期間が歴代最長だった菅官房長官は、毎年約10億〜15億円計上される官房機密費や報償費を扱い、内閣人事局を通じて審議官級以上の幹部約500人の人事権を使い、官邸記者クラブを抑えてメディアをコントロールし、官邸に集まるありとあらゆる情報を管理した。

 官邸に集まるヒト、カネ、情報を一手に握った菅官房長官が行ったことは、「森友学園問題」、「加計学園問題」、「桜を見る会」、「南スーダンの国連平和維持活動(PKO)の“日報隠し”問題」、「裁量労働制に関する厚労省の不適切な調査データの問題」などの公文書の改ざん、隠蔽、破棄、そして「前法相夫妻の逮捕」などのスキャンダルの悪影響が広がることを抑え込むことだった。
 要は、政策の実現という安倍政権の「目的」を妨げるものを排除していく「手段」として、菅官房長官は、絶大な権力を掌握して、それを行使したといえる。

 一方、菅政権では、官僚、メディアを掌握し、国民を統制すること自体が政権の「目的」のようだ。
そして、政策はその目的達成のための「手段」として打ち出されているように見える。

政策そのものではなく、やり方が問題
「ハンコ廃止」は大臣がやることなのか
 菅首相は、就任と同時に、行政の縦割り打破や規制改革に取り組むことを打ち出した。
これ自体はなにも問題はない。
日本政治・行政の長年の課題であり、この解決を図ろうとするのは、新政権として当然のことである。

 問題は、行革・規制緩和を進める菅政権のやり方だ。
菅首相は、河野太郎行革担当相に対して、国民から電話や電子メールで「縦割り」の弊害の具体的な事例を通報してもらう窓口「縦割り110番」を設置し、行政の目詰まりを全部明らかにし、1カ月ごとに報告をするように指示した。
 河野行革相が「行政の無駄」として目を付けたのが、「ハンコ」だった。
行革相は、全府省庁に対し、民間から行政機関への申請手続きなどで求める押印手続きなど、「ハンコ」を原則廃止するよう文書で要請した。
「ハンコ」を存続させる場合は9月末までに理由を示すようにも求めた。
 その後、河野行革相は、全府省庁での検討結果を公表し、押印を求めていた約800種類の申請書や添付書類を全廃する考えを示した。
一方、法律や政省令、告示で押印を要求していて変えられないと回答があったものが35種類あったが、「(押印を)やめられると思う」と、全府省庁に再検討させたことを明らかにした。

 中央省庁では、ハンコを必要とする手続きはおよそ1万1000件あるといわれる。
その中には、「偉い人スタンプラリー」と呼ばれる、1枚の書類に10以上の承認印を必要とするものがあふれ返っている。
すべての役職者の承認印を得るのに、担当者が何日も役所内を回り続けなければならない。
要するに、「無駄な押印」は、「お役所仕事」と呼ばれる行政の非効率の象徴であることは間違いない。
「ハンコ廃止」は、この「お役所仕事」の改善につながる。

コロナ禍における定額給付金10万円の支給がもたついたことなどで批判されたことなど、行政手続きの煩雑さは長年の日本の課題である。
それを改善するための有効な策であることは間違いない。
 また、やりがいのない煩雑な業務に忙殺されて残業が多いことで、若手官僚の多くが転職を考えているという。
「ハンコ廃止」で無駄な業務を減らすことで、霞が関の「働き方改革」につなげて、優秀な人材の民間への流出を防ごうという狙いもあるだろう。

 しかし、そもそも「ハンコ廃止」は、首相が音頭を取って、大臣が陣頭指揮してやるべきことなのだろうか。
役所であれば、部長あたりが音頭を取れば、できることではないのかということだ。
 実際、筆者が勤務する大学を例にすれば、既に「ハンコ」を押す機会は激減している。
留学生が増えたからだ。
留学生は印鑑を持っていないから、書類にサインすればいいということになる。
指導教員もサインでいいとなり、次第に日本人学生の他の書類もサインで十分というのが増えていったのだ。
 要は、別に大臣に陣頭指揮などしてもらわなくても、業務の効率化を現場レベルで考えればできることだ。

特に、国際的な競争にさらされる現場だと、有無をいわさず変化を求められる。
既に変えている民間企業も多数ある。
 確かに、霞が関は特に外部との競争と無縁で、変化が起こりにくいところではある。
だが、コロナ後はデジタル化・IT化が徹底的に進む「スーパー・グローバリゼーション」の世界になる。
時間は少しかかるかもしれないが、いや応なしに変化は起きていく。
それを、大臣が陣頭指揮をして、行革の中心課題のように扱うというのには、強い違和感があるのだ。

政権の陣頭指揮で「ハンコ廃止」を進める理由
官僚バッシングにうってつけ
 それでも、菅政権が陣頭指揮で「ハンコ廃止」に突き進むのには、行革の推進以外に理由があるからだ。
それは、この政策が庶民を「感情的」にして官僚をバッシングさせるには格好だからである。
 子どものころから頭のいい優等生で、東京大学など優秀な大学を出て、霞が関に入ったエリート官僚が、実は自分たち以上に、非効率的で無駄な仕事をしてきたことが明らかになる。
頭でっかちなガリ勉で、実はたいしたことないじゃないかと思う。
これは、エリート官僚にコンプレックスを持ってきた庶民にとって、実に気持ちがいいことだ。

 既に「ハンコ廃止」にもさまざまな異論が出始めているが、今後、行革・規制緩和が本格化して、霞が関の本格的な抵抗が起こり始めたら、感情的になって官僚をバッシングするようになる。
その「気持ちのよさ」を知った庶民が、次々と「炎上」を起こすことになる。
 菅首相は、政権に反対する官僚を「異動させる」と明言している。
省庁幹部人事を一元管理する内閣人事局で「官僚支配」を続ける方針だ。

安倍前政権時、内閣人事局を使った官邸主導の強化による官僚の「忖度」には強い批判があった。
 しかし、菅政権では、首相に抑え込まれる官僚の姿を見ることに「気持ちのよさ」を覚えた庶民によって、感情的な「官僚バッシング」が起こる。
そして、首相の強気の姿勢が異様なほど称賛されることになりはしないか、強い懸念を覚える。

「携帯電話料金引き下げ」の進め方にも疑問
政策は「統制の手段」として実行される
 菅政権の打ち出した政策は、その他にも「統制の手段」として実行されることが疑われるものがある。
例えば、菅政権の目玉政策のひとつである「携帯電話料金引き下げ」である。
 菅首相は就任直後に武田良太総務相を官邸に呼んで、トップダウンで値下げを急ぐよう指示した。
武田総務相は「国民生活に直結する問題なので、できるだけ早く結論を出す」とし、「(値下げ幅は)1割程度では改革にならない。
海外では健全な競争を導入して70%下げたところもある」と、大幅な値下げの実現に強い決意を表明した。

 確かに、携帯電話料金が下がることは、コロナ禍の経済停滞に苦しんできた庶民にとってはありがたいことだ。
だが、これも首相が音頭を取って大臣が陣頭指揮でやることかという疑問がある。
 政府が経済についてやるべきことは、市場の公平な競争条件を整えて、多くの企業を参入させて、結果として適切な水準まで市場の価格が自然に下がっていくように促すことだろう。
それ以上に強制的に値下げをさせるなど過剰な企業活動への介入は、「統制経済」につながってしまう危険があるのではないか。

 安倍前政権時にも、企業に対して「賃上げ」を再三再四にわたって求めるなど、「統制経済」的な側面があった。
だが、それは「アベノミクス」という政権の看板政策を実現するためのものであった。
また、あくまで企業側に対する「要請」であり、強制力を持つものでもなかった。

 一方、菅政権は、より強く産業を統制しようとする意図がにじんでいる。
政権発足直後にロケットスタートで「携帯電話料金値下げ」を政府主導で決める。
これは、庶民にとって一見いいことのように見えるので、携帯業界は抵抗しづらい。
抵抗すれば、庶民からバッシングを受けることにもなりかねないので、黙って従うことになるだろう。
それを見る他の業界も、菅政権の強い姿勢に震え上がり、黙ることになる。

菅政権は、このように産業界全体の強い統制に成功することになるのではないか。

「いい政策」が続き批判できない空気が漂う
 さらにいえば、菅政権は「不妊治療の保険適用拡大」など、多くの国民が「いいことだ」と賛成できる政策も次々と打ち出している。
これが、後述の「学問の自由」の侵害の問題などが起きても、「いいことをやっているんだから」と批判を控えさせる効果がある。
 端的な事例は、野田聖子・自民党幹事長代理が、「女性はいくらでもウソをつける」発言をした杉田水脈議員に辞職を求める13万6000筆の署名の受け取りを拒否したことだ。
「議員辞職させる権限がないから受け取れない」という理由は意味不明である。

 一方、野田幹事長代理は、菅政権の1カ月について「国民に直接響く、生活感を大切にした政策の積み重ねが特徴で、24時間休むことなく突き進んできた1カ月だった。
一緒にいる私たちもヘトヘトで、いい仕事をさせてもらったと感謝している」と高く評価した。
要は、菅政権が女性の権利拡大の政策に取り組んでくれるので、批判的な行動はできないということだ。

度を越している学者の抑えつけ
梶田会長の行動は「子どもの使い」
 そして、菅政権の国民統制という目的のための「手段」の極めつけが、「日本学術会議任命拒否」だろう。
筆者は、日本学術会議が「学問の自由」を守れていない側面があると批判した。
しかし、菅政権の学者を抑えつけようとする姿勢は、度を越しているように思う。

 菅首相と日本学術会議の梶田隆章会長(東京大学教授)が、首相官邸で15分間会談した。
梶田会長は、学術会議が推薦した会員候補105人のうち、6人を任命しなかった理由の開示と任命を求める要望書を、首相に直接手渡した。
しかし、梶田会長は菅首相の直接任免拒否の理由を問いかけることはなく、首相も説明しなかったという。

 会談で菅首相は、「学術会議が国の予算を投ずる機関として国民に理解をされる存在であるべきだ」と話し、「学術会議としてしっかり貢献できるようやってほしい」と梶田会長に要請した。
梶田会長は、政府への政策提言が不十分といった批判が出ていることを念頭に「発信力が今まで弱かった。早い段階からしっかり改革していきたい」と応えた。
そして、学術会議の在り方について、今後検討していくことで合意したという。

 一言でいえば、梶田会長の行動は、「子どもの使い」のような無様さだった。
なぜ、菅首相に任免拒否の理由を直接聞かなかった。
首相が答えなければ、テコでも動かない。
答えるまで官邸に籠城するくらいのことはしてほしかった。
命を懸けて首相と刺し違えるくらいの覚悟がなければ、「学問の自由」など守れるわけがないではないか。

 菅首相も、ノーベル賞受賞者の梶田会長をいい加減に扱うことはできなかったはずだ。
乱暴に官邸から追い出せば、世論が黙ってはいないからだ。
梶田会長は自らが持つ絶大な「権威」を使って「権力」と戦うべきだった。

戦前、学問の自由を守るために逮捕されてもまったくひるまなかった河合栄治郎のように、信念を示してほしかった。
 だが、梶田会長は、しょせん学者がけんかのやり方を知らないひ弱な優等生でしかないことをさらしてしまった。
やはり、日本学術会議は「学問の自由」を守るために百害あって一利なし、無用の長物だと断ぜざるを得ない。

今後、政治は遠慮なく「学問の自由」を奪うために学者を攻撃してくるだろう。

学者を最初に狙い撃ちした理由
政権の最重要の「目的」とは
 菅首相は、日本学術会議を攻撃する二の矢を既に放っている。
自民党は、日本学術会議の在り方を検討するプロジェクトチームを発足させ、初会合を党本部で開いたのだ。
下村博文・自民党政調会長は、政策提言など会議側の活動が不十分だとの認識を示し、「納税者の国民の立場から見て、学術会議の在り方を議論することは重要だ」と発言した。
 自民党は、年内をめどに提言をまとめ、政府に提出する方針だという。

一見、自民党が言うことは「正論」に聞こえる。
だが、要は政府に批判的な学術会議を、政府に黙って従うものに変えるという、自民党の学者に対する公然たる宣戦布告だと言っても過言ではない。
 前回も述べたが、古今東西、「権力」は国民を統制しようとする時、学者を最初に狙って攻撃してきたものだ。
学者は「権威」があり、社会に圧倒的な影響力を持ちながら、優等生でけんかができないからだ。
政治家からすれば、崩しやすい相手であり、いったん崩せば、国民は「権威」を崩した「権力」に対して、黙り込むことになる。

 菅政権が、政権発足後、まず学者を狙い撃ちにしたのは、政権の最重要の「目的」が国民の統制にあることを明確に示しているのだ。
だが、何度でも繰り返すが、学者から「学問の自由」を奪うことを皮切りに、国民の「言論の自由」「思想信条の自由」を抑えつけて、「権力」への批判がない社会を実現した先に待っているのは、「亡国」しかないということは、古今東西の歴史が証明している。

 政策とは、国民を統制するための「手段」ではない。
政策は、国民の自由と幸せな生活の実現という「目的」のためにあるはずだと、菅首相に強く主張しておきたい。
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2020年10月20日

まじめな人ほど「疲れが取れない」納得の理由

まじめな人ほど「疲れが取れない」納得の理由
10/19(月) 東洋経済オンライン

ITコンサルティング会社から独立後、1度も営業せずに月収96万円を達成したフリーランスのシステムエンジニア・末岐碧衣氏による連載『友達0のコミュ障が「一人」で稼げるようになったぼっち仕事術』。
エンターテインメントコンテンツのポータルサイト「アルファポリス」とのコラボにより一部をお届けする。

■ON/OFFの切り替え、できてますか? 
 休んでも休んでも疲れが取れない!  そんな経験ありませんか? 
 いつでもどこでも仕事ができてしまうリモートワークのオフィスワーカー、フリーランス、経営者など、休みも含め、ある程度自分の裁量に任されているような人は、意識的に仕事のON/OFFを切り替えないと、つねに仕事中という状態になりかねません。
 私も独立して自宅で仕事をする時間が増えた頃は、切り替えがまったくできませんでした。
それでつねに仕事をしていないと不安で、休んでいても仕事のことを考えてしまう日々が続き、結果として半年もしないうちに精神的にも肉体的にも息切れ状態になったのです。

 私ほどではないにしても、終業後だらだらと仕事をしたり、休日も仕事のメール見たりしてしまう人は少なくないように思います。
今回は、コミュ障でぼっちだからこそ気づけた、そんな状態から抜け出すのに効果的なテクニックを紹介したいと思います。

 ●まじめな人ほど、身体を休めるのが下手? 
 なぜ、休んでいても仕事のことを考えてしまうのか。それはまじめすぎるからだと思います。
 休むことに罪悪感や不安・焦りを感じてしまう、もっと仕事で評価されたい、お客さんのためにベストを尽くしたい、仕事が楽しくてほかのことに興味が持てないなど、理由は人それぞれですが、まじめな人ほど自分を追い込んでしまいがちです。  
 例えば、こんなことをしたことがありませんか? 

・その日の作業に一区切りついているにもかかわらず、まだ眠くないからもうちょっとやろうかなと深夜・明け方までサービス残業? してしまう
・忙しくても仕事を引き受けてしまう
・仕事の連絡に即レスするために頻繁にスマホをチェックしてしまう
・仕事が終わらないときはすべて自分の責任だと考え、誰かに相談することなく睡眠時間や休日を犠牲にして仕事をしてしまう

 頑張った分評価されるかもしれませんが、そうした無理は蓄積してしまうもの。
知らず知らずのうちに、仕事を忘れてゆっくり休めない身体になってしまい、気づいたときには、自分ではコントロールできない状態になっている――というのが、いわゆるワーカホリックの怖いところです。

 私が陥ってしまった状態の話をすると、ずっとONのモードが続き、少しずつ息切れしてきたというか、仕事はやれるんだけれど元気がなくなっていったという感じでした。
平日の業務時間中はいつも眠くて疲れていて集中できず、ダラダラと夜遅くまで仕事をしてしまう。
それにもかかわらず無駄やミスが多くなかなか終わらないので、休日も平日の遅れを取り戻すために仕事をしなければならない、という悪循環に陥ったのです。
 加えて、「休日に連絡しても対応してくれる人」という印象をもたれてしまい、土日だろうが年末年始だろうが仕事の連絡が来るようになりました。
休日なのでそもそも対応する必要はないのですが、駆け出しのころは自信がなく、それくらいサービスしないと自分には価値がないと思い込んでいたのです。

 そんな働き方を続けていたところ、
何のために仕事してるんだっけ?  
何が楽しくて生きてるんだっけ? 
 みたいなことをぐるぐる考えるようになりました。
それで眠れなくなった私は、眠るための飲酒が癖になり、浅くて短い睡眠しか取れない日々にさいなまれることに……。
夢の中でもプログラミングの仕事をしていて、上司にミスを指摘されて言い訳する自分の声で飛び起きたこともありました。

 極めつけは、2時間の映画すらまともに見られなくなったこと。
始まって30分も経たないうちに気づけば仕事のことや将来のことをモヤモヤ考えてしまい、話の筋を見失うようになったのです。
30分も集中力がもたない、というのは自分でもかなり衝撃で、ずいぶん気落ちしたのを覚えています。

■情報を遮断したら元気になった! 
 そういう状態になって私は、運動してみたり、仕事量を減らしてみたり、自然に触れるようにしてみたり、いろいろやってみました。
中でもいちばん効果があったのが、スマホを持たずネットもできないような状態にして、オフラインにするというものでした。

 前職でお世話になった人の中に、非常にまじめで、休日だろうが風邪で休んでいようが、自宅にパソコンを持ち帰って仕事するタイプの人がいました。
毎年必ず、1人で沖縄の美ら海水族館を訪れてジンベイザメの水槽の前でぼんやり1日過ごしている、という変な人で、チーム内でちょっとしたネタにされていました。
 初めて聞いたときは「何それ、楽しいの?  変なの」って思いましたが、今なら理解できます。
おそらく、今で言うマインドフルネスに近い効果があったのではないかと思います。
なお、マインドフルネスには、うつの改善や集中力アップの効果が認められています。

 思い返してみると私は、ニュースを見たりSNSをチェックしたりしているときに不安が強まり、仕事のことを考えるループに入り込むことが多かったです。
 テレビをつければさまざまなニュースが流れていて、それに対してコメンテータがいろいろ言っていて、CMでは知りたくもない新商品の情報が次々紹介され、電車に乗ってもそこら中に広告が貼ってあり、スマホにはLINEやらTwitterやらSNSの通知がひっきりなしに飛んできて、YouTube動画は毎日新しいものがアップされます。

 今の若い世代は年金もらえないから貯金しろだの、会社がなくなっても大丈夫なように副業を始めようだの、今日生きるのでいっぱいいっぱいなのに、読むだけで疲れる情報が毎日飛び交っています。
休日でもお構いなしに仕事メールが飛んでくることもあります。
 そうした外からの情報を遮断しただけで、私の頭の中の声(不安をあおったり焦らせたりする)は静かになりました。
その状態で、黙々と掃除をしたり、瞑想をしたり、好きな本を読んだり、料理をしたりして過ごすと精神的に落ち着き、すごく安らぐのです。
まぁ、本を読みながら、うっかり登場人物と自分を比較して不安になったり、仕事のことを考え出して気づいたら話の筋を見失っていたりと、最初から完璧に切り替えることは難しかったのですが……。
 ともかく、そんなふうにオフラインを取り入れた結果、今では当時の1/5くらいの時間で同じ量の仕事を集中してこなせるようになりました。
2時間の映画も、最後まで楽しめる状態に回復しています。
 それだけではなく、ワーカホリックになる前よりも、仕事への集中力が増し、ON/OFFの切り替えも自分でコントロールできている感覚が、人生の幸福度を高めている感じがします。
調子のよいときは、午前中にすべての仕事を終えることができ、午後は軽い足取りで散歩や買い物に出かけたりするのがささやかな楽しみになっていたりするのです。

■オフラインな時間の作り方
 いやいや、スマホを手放すなんて無理だよ!  そんなことぼっちにしかできないよ!   そう考えてしまうのもわかります。
オフラインな時間を実現するにはちょっとした準備が大切です。
仕事や友人から連絡がひっきりなしに来てしまうような場合、それをオフラインだからと無視するのはなかなかに精神力を要することで簡単ではありません。

 例えば、私はオフラインの時間を決めたら「この日のこの時間帯は所用のため連絡が取れませんので、あらかじめご了承ください」と周知しておくようにしています。
休日よりも限定的なので、相手に悪印象をもたれる心配もありません。
 もう1つ、忙しかったり暇だったりの波が激しいので、あえてオフラインな時間は固定していません。
例えば、メインの仕事は月・水・金という契約になっているので、それ以外の曜日で適当にオフラインな時間を作るようにしています。
 つまり、あらかじめ「オフラインの時間を取る!」ということだけ決めておき、ある程度自由度をもたせて、周囲に迷惑をかけないようにしておくのがよいのかなと思います。

 ただし、こんな感じで連絡が来ることの対処ができたとしても、スマホを見るのが習慣づいてしまっている人(多くの現代人がそうだと思いますが)は、オフラインな時間そのものに抵抗を感じるかもしれません。
 私も以前は、つねに何かしていないと落ち着きませんでした。
寝る前だけでなく仕事中、散歩中、運動中でさえ、動画やラジオ、オーディオブックを聞き流すのが癖になっていて(一時期は、同時に2冊の本が高速で読めると思って片耳イヤホンの左右で違うオーディオブックを、倍速で聞き流したりしていました。〈笑〉)、無音だと落ち着かない、何かしら情報が入ってきていないと耐えられないという末期症状(? )でした。

 でも、情報のシャワーをつねに浴びて過ごすというのは、脳にストレスを与え続けているような状態です。
脳は情報という刺激が大好きなので、自然とやってしまいがちなのですが、実は休んでも疲れが取れないことの根本的な原因はここにあるように感じています。
だからこそ、強引にでも情報を遮断する必要があるのかなと。
 ちなみに、私がまず手始めにやったのは、スマホを持たずにぶらぶらと近所の禅寺まで散歩するというものです。
禅寺では時々、清潔な作務衣(さむえ)を身に着けたお坊さんがホウキで石畳を掃いていたりして、眺めているとなんとなく自分の心もきれいになっていく感じでした。

■ちゃんと休めているか、改めて考えてみよう
 私は、オフラインな時間を意識的に作ることで、情報ジャンキー的な悪癖も減り、無意味に変な焦り方もしなくなりました。
仕事のことで不安になる時間も減り、仕事中は仕事で集中し、休みは休みで切り替えて楽しめるようになったのです。

 「何をやっても楽しくない、何をやってもうまくいかない」と感じたときはいったん立ち止まって、自分に向かって「疲れていないか、本当に休めているのか」を尋ねてみる必要があるのかなと思います。
それでもし心当たりがあるようだったら、情報を遮断したオフラインの時間を過ごしてみると、よくなるかもしれません。

■まとめ
・まじめな人ほど、休むのが下手
・休めてないと感じたら、オフラインの時間を過ごしてみる
・オフラインになるときは、周囲迷惑をかけないようにしておく
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☔ | Comment(2) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月19日

「次々に湧いてくる不安」を心から消すたった一つの方法

禅の世界に学ぶ、「次々に湧いてくる不安」を心から消すたった一つの方法
2020年10月18日 PRESIDENT Online

コロナ禍がもたらした生活の大きな変化により、どうにもならない不安を抱える人は多いのではないでしょうか。
曹洞宗徳雄山建功寺住職であり、『心配事の9割は起こらない』『上手な心の守り方』(三笠書房)を著書にもつ枡野俊明さんに不安の解消方法を教えてもらいます。
※本稿は、枡野俊明『人生は凸凹だからおもしろい 逆境を乗り越えるための「禅」の作法』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

■どうにもならないことは、無頓着でいい
人は誰でも不安に駆られたり、悩みに押し潰されそうになったりすることがあるはずです。
不安も悩みも、いってみれば、生きている証ですから、生きているかぎり、それらがなくなることはありません。
ただし、どうでもいい不安や悩みに振りまわされるのはつまらないことです。

不安については、禅にこんなエピソードがあります。
禅宗の始祖である達磨大師と二祖となった慧可和尚に関するものです。

達磨大師のもとにやってきた慧可がこう尋ねます。
「わたしはこれまで仏典を学び、修行もしてきましたが、どうしても不安を断ち切ることができません。
どうか、わたしの不安をとり除き、安心を与えてください
達磨大師はこう応じます。
「それなら、おまえがいう“不安な心”とやらをここにもっておいで。
そうしたら、おまえを安心させてやろう」
慧可は必死になって不安な心を探します。
しかし、いくら探しても見つかりません。
慧可は再び達磨大師のもとに赴いてそのことを告げます。
「不安な心を探したのですが、どこにも見つかりません」
その慧可に達磨大師はこういいます。
「ほら、おまえの心を安心させてやった」

最後の言葉で達磨大師のいわんとしたのはこういうことです。
いくら探しても見つからないのは、もともと不安などというものには実体がないからだ。
自分の心が勝手につくり出しているに過ぎないのである。
そのことに、つまり、見つからないことに、実体がないことに気づいたら、すなわち、それが安心なのだ。
これは「達磨安心」という公案のもとになっているエピソードですが、不安や悩みの「正体」を的確にいいあてているといっていいでしょう。

不安も悩みも、じつは自分の心がつくり出しているのです。

■「不安」は不確実な未来だと自覚しよう
不安を抱くのは将来、未来に対してです。
「このご時世ではいつまで仕事がつづけられるかわからない。
家族のいまの生活を維持していけるだろうか?」
「いずれ親の介護の問題が起きてくるだろう。
きょうだい間で押しつけ合いになったりしたらどうしよう」
「子どもが引っ込み思案で心配。
このままで社会生活に適応できるのか?」

いずれも先のことを見越して、不安になっています。
しかし、将来どうなるか、未来に何が起きるかは、誰にもわからないのです。
不確実性のなかにあるのが将来、未来です。
そのわからないことに対して、手の打ちようがあるでしょうか。
何かできることがありますか。
ありません。

わからないことは、いくら不安を感じようが、悩もうが、どうしようもない。
どうにもならないのです。
禅はこう教えます。
「どうにもならないことは放っておきなさい」
そう、どうにもならないことには頓着しない、無頓着でいるのがいちばんいいのです。
頓着することで、自分が不安をつくり出してしまう。
仕事がつづけられなくなった自分を想像して、親の介護をめぐっていがみ合っているきょうだい間を思って、社会に適応できなくなった子どもに頓着して……不安になるわけでしょう。

不安は想像の産物、思いの産物、頓着の産物です。
そこに実体はありません。
いい替えれば、現実にはなっていないのです。
そして、人が何かできるのは、いま、目の前にある、現実に対してだけです。

■「いま」にこだわる大切さ
即今、当処、自己」 この禅語を知ってください。
たったいま、その瞬間に、自分がいるその場所で、自分自身ができることを精いっぱいやっていく、そのことが大切である、という意味です。

たとえば、仕事をつづけられなくなった自分を想像するのではなく、「いま」自分がやるべき仕事に全力でとり組む、いがみ合うきょうだい間を思うのではなく、「いま」親の介護についてきょうだい間で話し合うことを提案する、子どもの将来に頓着するのではなく、「いま」子どもを誘っていっしょに外の世界(世間)に触れる……などなど、できることはいろいろあるはずです。

こんな言葉もあります。
人はきのうにこだわり、あすを夢みて、きょうを忘れる
過去にとらわれたり、未来に頓着したりするから、いまが疎かになるのです。
できること、やるべきことは、いまにしかないのに、そのことに全力を注げなくなる。
ひたすら注力すべきはいま、いましかありません。
将来、未来は不確実、不透明ですが、それがどのようなものであっても、常に「いまを精いっぱい」で臨んでいれば、怖いものなし。
そこに、楽しさも、おもしろさも、必ず、見出すことができます。

■おなかから声を出そう
わたしは毎朝、四時半には起きます。
それからすべての窓を開け放って各部屋の空気を入れ換え、寺の門を開けます。
その後、朝のお勤めになるわけですが、その際の読経が「健康法」になっているのではないか、と思っています。

読経ではおなか(丹田=おへその下、約七・五センチ)から声を出します。そうしないとよく通る声にはならないのです。
おなかから声を出すには姿勢を正しくしなければなりません。
腰(骨盤)を立て、背骨を真っ直ぐ伸ばす。
少しそっくり返るような感覚がするかもしれませんが、それが頭のてっぺんと尾てい骨が一直線上に位置している正しい姿勢なのです。
読経のときは正座ですが、足を結跏趺坐というかたちに組んでおこなう坐禅でも、上半身の姿勢はまったく同じです。
前屈みの姿勢でいると、内臓が圧迫されて負担が大きくなります。
内臓にいちばん負担がかからないのが正しい姿勢です。
声もよく響きます。
そのときの呼吸は深く、ゆっくりしたものになっています。
酸素が十分にとり込まれる呼吸です。
その結果、全身の血のめぐりがよくなる。
おなかから大きな声を出すと、身体があたたかくなってくるのはそのためです。
血流のよさは健康であるために欠かせない条件でしょう。
読経が健康法になっている所以がそこにあります。

■「声だし習慣」は健康状態のバロメーターになる
一般的な日常生活とお経は縁がないと思われているかもしれませんが、朝、仏壇の前で『般若心経』をあげているという人は、案外、少なくないのです。
『般若心経』は二六〇字余りの短いお経ですから、生活にとり入れるのもそれほど難しいことではないと思うのですが、いかがでしょうか。
もちろん、お経でなくてもかまいません。
おなかから声を出す習慣をもつことは、健康上とてもよいことだと思います。
気に入った詩や文章の一節を音読する、その日のスケジュールを声に出して確認する、歌をうたう……。
何か自分に合ったものを見つけたらいかがでしょう。

声を出すことを習慣にしていると、それがその日の健康状態を知るバロメーターになります。
わたしの場合がまさにそうなのですが、日によって声の出方が違うのです。
体調がいいときは部屋中に響くような声が出るのに対して、体調が思わしくないときはくぐもったような声になるのです。

体調がわかれば、その日の行動調整ができます。
「きょうは調子がいいから、少々、がんばっても大丈夫だな」
「体調がイマイチだから無理をしないように心がけよう」 といった具合。

体調に合わせた動き方をすることで、大きく健康を損なうことがなくなります。

■今日からできる「声だし習慣」入門編
「朝、声を出す習慣ね。
たしかにいいと思うが、ちょっとハードルが高い気がする」
そんな人もいるでしょう。
「入門編」もあります。

手始めに大きな声で挨拶することを家族間の朝のルールにするのです。
かつての日本では祖父母、両親、子どもたちという三世代が同じ家に暮らすというのがふつうでした。
その時代の朝は、「おはようございます!」「おはよう!」という元気な声が飛び交っていたものです。
挨拶はしつけの基本中の基本だったからです。

しかし、時代を経たいま、核家族化が進み、しつけは蔑ろにされ、家族間でも挨拶を交わさない、という家庭が増えているように感じます。
かつての姿をとり戻すべきでしょう。
家族間に新しいルールをつくることで、家庭の空気は変わります。
慣れ親しんで(馴れ合って)いるゆえにどこか停滞した空気感に、清々しい風が吹き込みます。

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枡野 俊明(ますの・しゅんみょう)
「禅の庭」庭園デザイナー、僧侶 1953年生まれ。
曹洞宗徳雄山建功寺住職、庭園デザイナー、多摩美術大学環境デザイン学科教授。
大学卒業後、大本山總持寺で修行。
禅の思想と日本文化に根ざした「禅の庭」を創作する庭園デザイナーとして国内外で活躍。
著書に、『心配事の9割は起こらない』(三笠書房)、『傷つきやすい人のための 図太くなれる禅思考』(文響社)、『禅、シンプル生活のすすめ』(知的生きかた文庫)など。
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posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする