2012年12月08日

真珠湾から71年 96歳の誓い 元ゼロ戦兵 非戦語る

真珠湾から71年 96歳の誓い 元ゼロ戦兵 非戦語る
2012年12月8日 東京新聞夕刊

太平洋戦争が開戦した七十一年前のきょう、長野市の原田要(かなめ)さん(96)は、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)のパイロットとして旧日本軍によるハワイの真珠湾奇襲に参加した。
いまは語り部として講演で実体験を伝え、平和を守ることの尊さを訴えている。 
(森若奈)

「米国有数の軍港の攻撃に出られるとは、男冥利(みょうり)に尽きる」

 一九四一年十二月八日、二十五歳だった原田さんは武者震いしたという。
だが、与えられた任務は攻撃隊の上空護衛で戦闘の機会はなく、戦果を挙げて帰還した戦友が英雄視される姿を見て悔しさが込み上げた。


 翌年四月、英国軍の基地があったセイロン島(現スリランカ)の戦闘で初めて空中戦を経験。
敵機の一撃をかわして後方につき、仲間と一緒に五機を撃墜した。
瞬間は「自分がやられなくて良かった」という安堵(あんど)と「うまく当たった」という思いが広がった。
その後に、最期を悟った敵パイロットの恨めしそうな顔がよみがえった。


 その後も激戦を生き延びたが、ガダルカナル島の戦闘で撃墜されジャングルを二日間さまよって生還。
終戦は日本内地で迎えた。

今も「人を殺してしまった感覚は一生抜けない」という。


 戦後は地元に幼稚園を設立し、二年前まで園長を務めた。
「人をあやめた罪を償うとともに、平和を大事にする大人を育てたい」という願いからだ。


 「言うと思い出すから」としばらくは多くを語らなかったが、一九九一年の湾岸戦争が沈黙を破るきっかけになった。

 米軍の空爆映像を「テレビゲームみたい」と表現した日本の若者に「あの先で一番弱い人間が犠牲になっていることを分かっているのか」と危機感を覚えた。
以来、長野県内を中心に講演し、自らの厳しい体験を語り続けている。


 最近危惧するのは、対中関係悪化などで威勢のよい「ナショナリズム」を叫ぶ風潮が高まっていること。「武器を持てば、私がやったようなことになってしまう」と、非戦を貫く大切さをこれからも伝えたいという。
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余録:1941年の対米英開戦の前…

余録:1941年の対米英開戦の前…
毎日新聞 2012年12月08日 00時18分

1941年の対米英開戦の前、政権を投げ出した近衛文麿(このえ・ふみまろ)の後継首相に東条英機を指名したのは内大臣の木戸幸一だった。
彼は戦後30年を経て「どう考えても僕にはあれしかなかった」
「東条推薦は失敗だというのは結果論だ」と語った

▲「結果論」といわれても、300万の国民とそれを上回る他国民の生命を奪うという途方もない「結果」だった。
およそ政治は結果責任がすべてならば、そこに政治
はなかった。
勝田龍夫著「重臣たちの昭和史」によると、木戸自身は次のように当時を回想している

▲「もう選択の余地がなくなっちゃったんだ。政治家はみんなどこかに隠れてしまって」
「東条は生真面目だ。政治家でもないんですよ、あの人は、軍人ですよ」「おそらく他の大臣を持って来ても戦争は始まったでしょう」「戦争すれば負けると思ったんだ、僕は」

▲こう見ると開戦必至で、敗戦は不可避だから東条にやらせたとも受け取れる物言いである。
何も今さら木戸の責任をあげつらいたいのではない。
「政治」というものの底が抜けた国がどんな運命をたどるか−−衆院選さなかの開戦の日を前にそれを思い起こしたのだ

▲現代の首相を選ぶのは内大臣ではなく、衆院選の有権者である。
では政治の求心力が失われ、責任の所在もはっきりしない国の迷走が続くというのは、はて昔の話か今のことか。
辛うじて、その先の運命を選べる私たちだ

▲「選ぶ政治家がいない」「誰がやっても同じ」「どうせ世の中は良くならない」。
どこかで聞いた嘆きをもらす向きもあろうが「結果」は自らにふりかかる。
まず政治の底を固める有権者の1票だ。
posted by 小だぬき at 09:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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