2013年02月25日

ふるさと:原発事故23カ月 2度、国に捨てられた

ふるさと:原発事故23カ月 2度、国に捨てられた
每日新聞 2013年02月24日 22時46分(最終更新 02月24日 22時56分) 

東京電力福島第1原発事故に見舞われた橘柳子(りゅうこ)さん(73)は、福島県浪江町権現堂の自宅から夫(76)と帰省中だった妹(63)の3人で避難する車の中で、旧満州(現中国東北部)から命からがら帰国した68年前の逃避行を何度も思い出していた。


 「戦争が終わっても、国からは具体的な引き揚げの指令は来なかった。
原発事故が起きた後も一緒。
人生で私は2度、国に捨てられ、棄民になった


 中国・大連で1939年に生まれた。
父は日本の国策会社・南満州鉄道で農作物の検査官をしていた。
「豊かな暮らしだった」。
しかし、広島、長崎に米国の原爆が落とされ、日本は降伏。
45年8月15日にハルビン(中国・黒竜江省)で天皇が終戦を告げたラジオ放送を聞いた。
その6日前、ソ連は満州へ侵攻を開始。
橘さんの家もソ連兵に押し入られた。
父親が一時捕らえられたが、隙(すき)を見て逃走。
言葉にできない苦労の末、家族全員が母親の実家がある浪江町にたどりついたのは11月ごろだった。


 東京の大学を出て、福島で中学校の英語教師になった。
60年代。
「出稼ぎしなくても働く場所ができる」と海沿いの浜通り地方では原発誘致が盛んだった。
歓迎ムードのなか、学習会などに参加し、「被爆国に原発はふさわしくないのでは」と考えるようになった。


 第二の浪江町に原発建設計画が浮上すると反対運動に加わった。
保護者には原発関係者も多かったが、「原発から放射能が漏れたら、どうなると思う?」と問いかけるなど、原発の危険性を考える授業にも取り組んだ。

それだけに、「事故が起きてしまったのは自分たちの力が足りなかったから」と自責の念に駆られ、今も落ち込む時がある。


 原発事故からの避難で、首をかしげたくなる国や県の対応を経験した。
甲状腺がん予防のため、避難所で子どもにヨウ素剤を飲ませるように訴えたが、聞き入れられなかった。

橘さんをはじめ多くの人が浪江町からの避難に使った国道114号方面には原発から高濃度の放射性物質が流れていて、そのことをSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)は示していたが、すぐには公表されなかった。


 「なにかあると、いつも苦しめられるのは民衆
終戦後と原発事故後の避難は、徒歩が車に変わっただけ」

 避難所など9カ所を転々とし、原発から7キロの自宅から50キロ離れた同県本宮市の仮設住宅に落ちつきはした。
でも、一時帰宅を巡って夫と意見が対立するなど、事故はあらゆるところに分断と
対立を引き起こした。
事故から2年近くたつが、静かな日常は戻らない。

 12年6月、東電幹部や国に対して刑事責任を問う福島原発告訴団の集団告訴・告発に参加した。
「安全神話を振りまいて原発を推進してきた国の責任は重い。怒らなくちゃ」
 
 告訴・告発状を受理した検察庁は、東電幹部らの事情聴取を進めている。
立件は困難との見方が報道されているが、「誰も責任を取らないのはおかしい」と、起訴を求める署名活動に取り組み、4万人以上の署名が集まった。

戦争の記憶は、つらすぎて封印してきたこともある。
でも、2度も
ふるさとを奪われた経験から、原発事故は決して忘れてはならないと肝に銘じている。


 「福島県民16万人の避難の歴史を、残さないといけない。国の責任を追及しないと、国策に苦しめられる人がまた生まれてしまうから」
     【三村泰揮】

posted by 小だぬき at 09:48| Comment(4) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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