2013年05月07日
「置手紙」、タイムアウト表示 3日目
日本ブログ村・足のポイントや順位が いかに読者の皆様のご支援のたまものだったか痛感しています。
最近、体調も今一つで 寝て小だぬきと「春眠」「夏眠」が多くなっています。
1日1食でも 体重計の数字は 増える日々。
腹だけは大だぬき状態のまま、人体の不思議です。
この際ですが、未だに調べ続けている事柄を紹介します。
★「ジェネリック薬品」と「新薬」の効果は本当に同じか??
よく政府広報や病院では 「ジェネリックス」を薦めますが、ここで拘り「鬱患者」は混乱の頭になるのです。
◎特許切れだけで 「効能は変わらずに安い」といわれますが、では、「新薬」は新たに別の特許をとっただけなのか・・・。製薬会社は「10年特許」期間 何の進歩もしていないのか、との疑問です。
◎私は「丸山ワクチン」の支持者ですが、なぜ副作用のつよい「いれっさ」が承認され 副作用のまったくない「丸山ワクチン」が闇に葬られたのか・・・
★右翼化した政党が「憲法改正」をいうのは、論としては理解できても、なぜサンフランシスコ平和条約と同時に施行された「日米安保条約」「地位協定」破棄・改善に本腰をいれないのかわからない。
◎日本に占領軍として上陸・拠点にした基地を 日米安保で「占領軍から駐留軍」にし 半ば 占領軍隊を詭弁を弄して「平和に必要」と対米軍事隷属下にある。
◎本来なら1952年から1972年までに 沖縄に新設された「米軍施設」は施政権返還とともに無効・不法占領・返還が 筋なのに 自民党政府は「内実より名をとった」屈辱外交。今の普天間基地を含め 戦後にブルドーザーで強制された基地返還は 独立国として当然の願い。
◎テレビや映画で 航空管制が英語でされていることに違和感を感じた方はいませんか?? 今でも領空の大部分は 米軍管制下にあり、米軍訓練空域・自衛隊訓練空域を除く 狭い範囲でしか 民間航空のルートがないためです。
◎自衛隊が「専守防衛」なら 1945年の「沖縄戦」から 教訓を学び、編成を考えなくてはならないし、住民避難の方策が必要なのに、未だに住民避難は後回しにされている。
★福島原発の廃炉の見通しがないのに輸出ですって
◎これって ブラックジョークですよね。
年代がばれますが、テレビの1作目宇宙戦艦ヤマトの「コスモクリーナー」の技術が完成していればともかく 福島第一の溶融燃料棒取り出しの見通しもたっていないのに 再稼働だ輸出とは・・・。
★会社・社員の概念より「労働者」を
◎マルクスの「資本論」に 立ち戻るべきです。
結局 近代経済学というのは「富めるものはより豊かに、貧しいものはより貧しく」する学問であったことは事実のように思えます。
★散々と子どもを抑圧しておいて いまさら・・・
◎小さい時から 思う存分遊ぶ「空き地」「公園」「他人の庭」「校庭」などを 子どもたちから奪っておいて 今の子は体力不足・・・。
元教員として「体力向上の幼少期」を保障しないで 「よく言うよ」です。
◎校内で事故があるたびに増えた「禁止品」「使用禁止」
刃物のじこがあると「肥後の神」「カッター」、酷い時は「コンパス」の禁止。
赤い羽根での的当てで 失明の事故があると 一斉に「針からシール」に。
これも元教員として 危険と隣り合わせでも道具を使う機会を奪っておいて、今の子は不器用との文科省、ふざけるなです。
ごめんなさい、愚痴の方が多くなりました。
村上春樹さん公開インタビュー詳報
2013年5月7日 東京新聞
6日、作家の村上春樹さん(64)が京都市左京区の京都大百周年記念ホールで行った講演と「公開インタビュー」の詳報は次の通り。
▽冒頭の講演
僕は普段はあまり人前に出ません。
ごく普通の生活を送っている普通の人間です。
文章を書くのが仕事なので、なるべくそれ以外のことに首を突っ込みたくない。
だから僕のことは絶滅危惧種の動物、イリオモテヤマネコみたいなものだと思ってくれるとありがたい。
そばに寄って触ったりしないでください。おびえて、かみついたりするかもしれないので。
河合隼雄先生とは20年ぐらい前に米プリンストン大で初めてお会いし、その後あちこちで時間を一緒に過ごした。
僕にとっては「河合先生」で、最後までそのスタンスは変わらなかった。
小説家と心理療法家というコスチュームを脱ぐことはなく、そういう枠があった方が率直に話ができた。
今でも覚えているのは、先生の駄じゃれ。
一種の悪魔払いのようなものだと思っていた。
臨床家としてクライアントと向き合い、相手の魂の暗い場所におりていく作業を日々されていた。
それは往々にして危険を伴う。
帰り道が分からなくなるかもしれない。そういう暗い場所で、糸くずのように体に絡みついてくる闇の気配を振り払うには、くだらない駄じゃれを口にしなければならなかったのではないか。
僕の場合の悪魔払いは、毎日外に出て走ること。それで、絡みついてきた闇の気配をふるい落としてきた気がする。
われわれが共有していたのは物語でいうコンセプトだったと思う。物語というのは人の魂の奥底にある。人の心の一番深い場所にあるから、人と人とを根元でつなぎあわせることができる。
僕は小説を書くときにそういう深い場所におりていき、河合先生もクライアントと向かい合うときに深い場所におりていく。
そういうことを犬と犬がにおいで分かり合うように、分かり合っていたのではないか。僕がそういう深い共感を抱くことができた相手は河合先生しかいませんでした。
それが励ましになり、僕がやってきたことが間違っていなかったと実感できた。
▽インタビュー
〈人間とは。物語とは〉
魂を2階、1階、地下1階、地下2階に分けて考えている。
地下1階だけでは、人を引きつけるものは書けないんじゃないか。
(ジャズピアニストの)セロニアス・モンクは深いユニークな音を出す。
人の魂に響くのは、自分で下に行く通路を見つけたから。
本当に何かをつくりたいと思えば、もっと下まで行くしかない。
〈初期作品について〉
「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」などは、店をやりながら書いたので、まとまった物語を書く余裕がなかった。
それが新鮮だと評価されたが、僕は先に行かなければならないと思った。
村上龍さんの「コインロッカー・ベイビーズ」を読み、こういう書き方をしたいと思い、店をやめた。
一日好きなときに書けるのがうれしく、物語を書く喜びにつながった。
結末が分からないまま最初の何ページかを書き、うまくできたので、僕はそういうのに向いているのだなと思った。
〈「ねじまき鳥クロニクル」について〉
それまではただ楽しみながら書いていたが、「ねじまき鳥」はもっと世界を広げ、分散させ、分割させる試みだった。
記憶、日記、いろんなものをかみ合わせ、重層的な世界をつくろうとした。
〈小説家の仕事〉
(徐々に)魂のネットワークのようなものをつくりたい気持ちが出てきた。
みんな自分が主人公の複雑な物語を、魂の中に持っている。
それを本当の物語にするには、相対化する必要がある。
小説家がやるのは、そのモデルを提供することだ。
誰かが僕の本に共感すると、僕の物語と「あなた」の物語が呼応し、心が共鳴するとネットワークができてくる。僕はそれが物語の力だと思う。
〈読書体験〉
10代は19世紀小説ばかり読んでいた。
ドストエフスキー、トルストイ、ディケンズ、バルザック。
体に染み込んでいる。
物語はなくてはならないものです。
1950〜70年代、物語小説は差別され、物語というだけでばかにされた。僕は(夏目)漱石のファンだが、漱石も昔は評価が低かった。僕も最初のころはずいぶん批判が多かったが、いつも買ってくれる人がいた。それがずっと続き、ありがたい。
〈新作「色彩を持たない多崎(たざき)つくると、彼の巡礼の年」について〉
「ノルウェイの森」のときは純粋なリアリズム小説を書こうと思った。
一度書いておかないと、ひとつ上にいけないと思った。
自分では実験的だと書いたものがベストセラーになったのは、うれしかったが、ある種のプレッシャーになった。
前作「1Q84」での大きな意味は、全部三人称で書いたこと。
三人称はどこにでも行けるし、誰にでも会える。
ドストエフスキーの「悪霊」のような総合小説を書きたかった。
(「多崎つくる」は)僕の感覚としては、頭と意識が別々に動いている話。
今回は「1Q84」に比べ、文学的後退だと思う人がいるかもしれないが、僕にとっては新しい試みです。
出来事を追うのではなく、意識の流れの中に出来事を置いていく。
(多崎の恋人の)沙羅(さら)さんが、つくるくんに(過去と向き合うため)名古屋に行きなさいと言うが、同じように僕に書きなさいと言う。
彼女が僕も導いている。
導かれ何かを体験することで、より自分が強く大きくなっていく感覚がある。
読む人の中でもそういう感覚があればいいなと思う。
今回は生身の人間に対する興味がすごく出てきて、ずっと考えているうちに、(登場人物たちが)勝手に動きだしていった。
人間と人間のつながりに、強い関心と共感を持つようになった。
(多崎は友人4人との共同体から切り捨てられるが)僕も似たような経験をしたことはあるし、何が人の心を傷つけるのかはだいたい分かる。
人はそういう傷を受けて、心をふさいで、時間がたつと少し開いて、ひとつ上に行くことを繰り返しながら成長する。ひとつの成長物語なんです。
僕は自分の小説を読み返して、涙を流すことはない。
唯一泣いてしまうのは、小説ではないが(地下鉄サリン事件の被害者や遺族を取材した)「アンダーグラウンド」。
殺された方の20代の奥さまの話を聞き、家を出て、電車に乗っている時に涙が出た。
1時間ぐらい止まらなかった。
それが、違う話を書いている時にもよみがえってくる。あの本を書いたことは、僕にとって大きな体験だった。
小説を書き始めた29、30歳のころは、書きたいけど書けないことがいっぱいあった。
書けることを少しずつ増やし、だいたい書きたいことが書けると思えたのは2000年ぐらい。
(今作も)単純に書けるようになったから、書こうと思ったのかもしれない。
〈音楽について〉
朝早く起きて午前中に仕事をし、昼は翻訳をするが、朝はだいたいクラシックを聴く。
夜寝る前に、翌朝に聴くレコードを用意するんです。
遠足に行く子供のように。
仕事に集中しているので真剣には聴いていないが、音楽に励まされて書いている気がする。
20代のころは店をやり、朝から晩までジャズを聴いた。
自分の中にリズムが染み込んでいる。
文章もそのリズムを使って書く。
僕の本を読んで泣きましたと言う人がときどきいるけど、僕は笑いが止まらなかったと言われる方がうれしい。
悲しみは個人的なところに密接につながっているが、笑いは関係ない。
やっぱりユーモアの感覚が好き。
書くときはなるべくユーモアをちりばめたい。
▽事前に寄せられた質問への回答
〈ランニングについて〉
年を取ると体力が落ちる。若いころは少しでも速く走りたかったが、今は年をとっても走れるようにしたい。
80歳、85歳までフルマラソンを走れればいいなと思う。
〈子供のころの読書について〉
小3まで本を読まず、小4から急に読み出した。
父と母が国文学をやっていたので、僕はそれから逃げたくて、外国の文学ばかり読んだ。
大学に入ってから日本文学も読んだ。漱石、谷崎(潤一郎)…。文章のうまい人が好き。
〈翻訳について〉
翻訳しやすい小説と、難しい小説がある。
物語が強いと翻訳しやすい。
濃密な描写があると難しい。
〈最後に〉
本当にうれしいのは、待って買ってくれる読者がいること。
「今回はつまらない、がっかりした。次も買います」みたいな人が大好きです。
つまらないと思ってもらってもけっこう。
僕自身は一生懸命書いているが、好みに合わないことはもちろんある。
ただ、理解してほしいのは、本当に手抜きなしに書いている。
もし今回の小説が合わないとしても、村上は一生懸命やっていると考えてもらえるとすごくうれしい。
香山リカのココロの万華鏡:「待ち疲れ」ならぬように
毎日新聞 2013年05月06日 東京地方版
旅行会社が大型連休前に発表したところでは、この休みの期間中の旅行者は過去最高なのだとか。
理由は「安倍政権の経済政策『アベノミクス』で景況感が改善しているから」と分析されていた。
ここでポイントになるのは、実際に景気が良くなり現実にお金がたくさんあるのではなく、あくまで景気の状態に対する印象の「景況感」が改善しているだけ、ということだろう。
一方、週刊誌のコラムなどには、「もうかるのは一部のお金持ちだけ。
大半の人たちは恩恵を受ける前にバブルがはじけ、生活がより苦しくなる危険も」とも。
もしそうなら、「株価が上がったから、そのうち私の給料も上がるはず」などと浮かれてもいられない。
診察室で会う人からは、まだ「アベノミクスで大もうけです」といった言葉は聞こえてこない。
相変わらず
「このバイト代では生活できない」
「パートの仕事を打ち切られた」
「ローンが払えないので家を手放す」など“景気の悪い話”ばかりだ。
誰もが「大手企業の業績が好転」というニュースを横目に「その効果は私まで回ってくるのか」と期待半分、不安半分で待っているというところだろう。
もちろん、不安一色よりはいいのかもしれないが、それでも「ただ待つ」のには限界がある。
歌謡曲「岸壁の母」の母親は、戦地から帰らぬ息子を待ち続け10年間、港に通い続けるという設定だが、これは特殊なケースだろう。
一般的にどれくらい待てばよいのか。
期間も示されずにただ待つということ自体、私たちには大きなストレスになる。
しかも、待ったあげく「あなたへの恩恵はありませんでした」と、外れる場合もあるとなれば、ストレスはさらに倍増。
「株価がどんどん上がっている。
私は株を持っていないが、今にきっとバイト代も上がるはず」と、楽しみに待っている人も
「あれ? まだ生活が苦しいままだぞ」と疑問を抱くようになり、「いつまで待てばいいのか」と、次第に待つストレスから気持ちが不安定になっていく。
そのうち、「待ってもダメみたい」とあきらめが生じる頃には社会全体がパニックになるかもしれない。
アベノミクスへの期待が膨らむ一方の今だからこそ、政権には一般の人たちにも、「いつ頃まで待てば給料や生活にこういう改善があります。
それまでにこんな努力をしてくださいね」というロードマップを示してほしいと思う。
そのうち診察室に「待ち疲れうつ」の人があふれることだけは避けたいものだ。