2013年10月08日

暑い秋、台風ラッシュ 夏に続き…いつもと違う空模様

暑い秋、台風ラッシュ 
夏に続き…いつもと違う空模様
2013.10.8 10:12  iza産経デジタル

 10月になっても30度以上の真夏日を各地で記録し、台風も平年の年間発生数に迫る24個。
異常気象の夏が終わっても、いつもと違う秋が続く。

 気象庁が「異常気象だった」と位置づけた今夏だったが、秋になっても例年と違った空模様が続いている。

10月に入っても各地で30度以上の真夏日を記録。
台風もハイペースで発生し、このままいけば最近10年で最多となる30個に到達する可能性も。
日本の空で今、何が起きているのか。(行場竹彦)


 高知県四万十市で観測史上最高の41度を記録するなど全国的猛暑となった8月に続き、9月も平均気温が平年を上回った日本列島。

10月に入っても気温は下がらず、6日までの平均気温は関東甲信地方や近畿地方などで、10月上旬としては集計を始めた昭和36年以降で最高となっている。


 7日も各地で気温が上昇。
927ある観測点のうち24道府県の78地点で10月の観測史上最高を更新した。

 熊本県玉名市では33・2度を記録。
30度以上の真夏日は131地点で、10月としては平成22年の集計開始から最多だった。

気象庁によると、東海上には現在、8月前後にしか見られないような発達した太平洋高気圧が張り出しており、日本全体が暖かい空気に覆われている。

これは、9月以降に多数発生した台風によって起きた気流が、高気圧の発達を助けてきたためという。
台風23号や24号が、九州などに暖かい空気を送り込んだことも影響したようだ。


 さらに今年は偏西風が日本付近で北へ蛇行し、例年なら冬に近づくにつれて日本列島に向け下がってくる冷たい風が北にとどまっていることも、高温の一因となっているという。


 気象庁によると、週明けにいったん気温が平年並みに下がるところもあるが、それも一時的で、来週末ごろまで再び暑い日が続く見込みだ。

posted by 小だぬき at 13:36| Comment(2) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

“名裁判官”じゃなかった? 大岡忠相

(文化の扉 歴史編)
“名裁判官”じゃなかった? 大岡忠相
2013年10月7日 朝日デジタル

 機知に富み、人情味にあふれ、公明正大な裁きを下す町奉行として、落語やテレビドラマで描かれてきた大岡越前守忠相(ただすけ)。
しかし彼が本当に活躍したのは、むしろお白州の外だった。


■江戸改革の名官僚/庶民がヒーロー化


 忠相が江戸の市政全般を担う町奉行に任命されたのは、数えで41歳。
歴代町奉行の多くは就任年齢が50〜60代だから、格段に若い。

当時、忠相の俸禄(給与)が町奉行の基準より低かったことも考えると、理由は不明だが、新将軍・吉宗の抜擢(ばってき)人事だったと言って良さそうだ。


 1590年に家康が入府してから発展を続け、18世紀前半には人口が町人だけでも約50万人に達した江戸。

安全なまちづくりは、吉宗による享保改革の柱の一つだった。

大石学・東京学芸大教授は
「忠相はその先兵となった官僚」と位置付ける。

 過密都市につきものの悩みが火災。忠相は、町家を瓦ぶき、しっくい塗りとする予防策を、時に違反者を処罰する厳しい姿勢で進めた。
火よけ地や火の見櫓(やぐら)も整備。武士中心だった火消しに町人を積極的に使う方針を打ち出し、町人自らが自分たちの街を守る体制を築く。


 農村から流入し、貧しい暮らしを送る人々の生活安定にも力を入れた。
小石川養生所は設立から約140年間、貧窮した病人を救う施設として機能した。
幕末まで続く江戸の街は、この時代に築かれたと言える。

 このほか、その仕事は、米価や物価対策にも及んだ。
    *

 同じころ、江戸周辺の農政にも携わっている。
1722年から約25年間、専門の役人たちを率い、武蔵野新田(東京都西部・埼玉県南部)の開発・経営や、治水工事などにあたった。


 本来、関東の農財政は勘定所・代官の担当。
大石教授は、財政再建のため新田開発に力を入れる吉宗が「担当組織を活性化するカンフル剤として、忠相を起用したのでは」と考える。


 農政では忠相は人材の発掘、支援に回ったようだ。
サツマイモの栽培で有名な青木昆陽も、こうした専門家の一人だった。


 数え60歳の時、忠相は全国の寺社などを管轄する寺社奉行に任命される。
通常は1万石以上の譜代大名のポスト。
3920石の旗本の異例な昇進を、ねたまれたのか。
年若の同役から控室を使わせてもらえないという「いじめ」を受けるなど、重用ゆえの苦労もあったようだ。


 改革を共に進めてきた忠相への信頼は、吉宗の晩年まで揺るがなかった。主君の葬儀を担当した6カ月後、忠相は後を追うようにその生涯を終えた。

    *

 「大岡政談」に収められた名裁きのうち、実際に忠相が裁いたのは「白子屋お熊」ぐらい。
それも、不義をはたらいた男女を処刑した「事実」の部分は、主題にもなっていない。
あとは中国の古い裁判物語や別の奉行の担当事件が、元ネタという。


 なぜ「忠相=名裁判官」というイメージが作られたのか。


 町奉行の在職期間が約20年と長く、庶民の生活に深く関わる都市政策を手がけた。
江戸以外の地域でも名前が知られていた。組織の枠を超えて仕事をした――。
いくつかの理由が、体制の中にヒーローを求める人々の心の琴線に触れたのだろう。
死後20年もすると、名裁判官として語られるようになる。


 享保の世から約300年。そろそろ「名官僚」としての忠相を描く物語が生まれても良いのではないだろうか。

 (増田愛子)


 ■読む

 忠相の実像と虚像について書いた辻達也『大岡越前守』(中公新書)や各地の地域史料研究を反映した大石学『大岡忠相』(吉川弘文館)などがある。「名裁判官」ぶりを描く物語は『大岡政談』(東洋文庫)で読める。


 ■見る

 大岡忠相が主人公のドラマといえば、約30年間にわたりシリーズ全402話が放送された加藤剛主演の「大岡越前」。
現在はDVDで見ることができる。
NHKは今年、BSプレミアムで東山紀之主演のリメークを放送。


 ■訪ねる

 神奈川県茅ケ崎市にある大岡家の菩提寺・浄見寺には、忠相を含む一族の墓がある。
毎年4月には大岡越前祭が開かれる。
東京都文京区の東京大学大学院理学系研究科付属の小石川植物園内には、小石川養生所の井戸が残る。


 ■そのころ世界は

 忠相が活躍した18世紀前半、ヨーロッパでは列強諸国がしのぎを削る時代となった。
特にフランスと、商業の発展により実力をつけたイギリスは激しく対立。
スペイン継承戦争(1701〜14)など、ことあるごとに敵味方に分かれて戦い、植民地のある北アメリカでも争った。
また啓蒙(けいもう)思想が盛んになり、モンテスキューが「法の精神」(1748年)で主張した三権分立論は、後のフランス革命などに大きな影響を与えることとなる。
一方、中国では清朝が最盛期を迎え、チベットにまで影響力を拡大した。

posted by 小だぬき at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 教育・学習 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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