2013年12月13日

おごれる者は久しからず

【私説・論説室から】
おごれる者は久しからず
2013年12月11日 東京新聞

 過酷事故の後始末もできないのに「原発再稼働」を目指す。
公約違反の「TPP交渉参加」を決める。
バラマキもやめないで「消費税増税」する。
民主主義を壊しかねない「特定秘密保護法」を強引につくる…。


 「民意」の多くに反する重大事案をさも平然と決めていく。

安倍政権は国政選挙さえ勝てば「やりたい放題」の免罪符を得ると勘違いしているのではないか。


 もっとも、「民意」と政権との大きなズレは選挙結果で分かっていたことだ。

一年前の総選挙で自民党は大勝したが、それは低投票率や小選挙区制の特性のおかげだった。
全有権者でみれば自民の得票率は小選挙区で24%、比例代表はわずか15%。
四分の一以下の「民意」しか得ていない。


 「ナチスの手口を学んだらどうか」「デモはテロ」という政権である。

以前、この欄で触れた寓話(ぐうわ)『茶色の朝』の世界に、いよいよ近づいたと感じる。
ファシズムの怖さを原体験に持つ作者パブロフ氏は言った。


 「民主主義は壊れやすい花瓶と同じ。小さなひびを放っておくと、いつの間にか割れてしまう」。
氏は多くの人に伝えたいと印税を放棄し、寓話の原書は一ユーロ(約百四十円)で販売された。
フランスでは学校教材としても広く読まれた。


 道徳を教科化するというなら、この国も教材に採用してはどうか。
いや、「不都合な真実」を「秘密」にしておきたい政権には望むべくもないか。 (久原穏)

posted by 小だぬき at 14:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

石井苗子の健康術 小中学生が作文に書く人権問題

石井苗子の健康術
小中学生が作文に書く人権問題
2013年12月10日  yomiDr.

(「ゆとり世代」を批判する大人たち)


 毎回コメントをいただきありがとうございます。
実は最近になってやっとコメントをしっかり読めるようになりました。
以前は辛口コメントを読むと、しばらく立ち直れないことが続き困っていましたが、今は冷静に読むことができるまで成長しました。
忠臣蔵のブログに賛成というご意見もあってほっとしているところです。ありがとうございました。


 コメントは本当に大切な宝物です。
実は、「人権週間」で岐阜県に講演に行く機会があり、小学6年生と中学3年生が書いた人権についての作文をじっくり読んでいきました。

作文をコメントとは呼べませんが、与えられた課題について幼いなりに意見を述べた文章でした。
多くの中から選ばれた優秀作品の中のほとんどが「いじめについて」のテーマだったのには驚きました。


 私には子どもたちが「いじめ」問題について、悲鳴を上げているのではないかとさえ感じました。

いじめられるとか、いじめるといった事実の紹介ではなくて、世間の大人たちがこの問題について多くの議論を交わしているにもかかわらず、ちっともよくなっていないことについて、学校の「いじめ」の現場にいるのは私たちなのだという叫びのように思えました。

「人権」は、身近なでき事に関心を持つことから感じるもの

 テーマは「人権について思うこと」なので、歴史を勉強したり、インターネットで人権を検索したのか日本国憲法の条文を文面に書いて、そこから感じる何かを身の回りに起こっている何かと結び付けてみて、気が付いたのが「いじめ」だったのではないでしょうか。


 これが小学校6年生の文章かと思うほど、考えが整理されてある作文に驚きました。
中のひとつに、いじめの原因の一つとして「いじめと家庭環境」に注目したいと文頭にあり、家庭環境の関係には2つのパターンが観察される。

一つは親が子に「人の平等とは何か」という教育ができないこと、もう一つは親が子に無理な期待をするため、子どもに負担やストレスが蓄積していること。

 これには脱帽です。まるで大学の論文です。


 家庭環境といえば、私も常々反省している点があります。
それは、少し前の、「ゆとり世代教育」で育った子どもたちが社会人になって、離職率が高いとか「がまんが足りない」「自分勝手だ」などと批判することです。

彼らより年上の世代が、自分たちはこう育ったから「ゆとり世代は理解しようとしてもくたびれるだけ」と思っているふしもあります。
一種のあきらめ現象でしょう。

あきらめほど責任負担が軽くなることはありませんから、親が 子どもをあきらめるように、学校にいじめの責任を転嫁していると、先の作文は言いたいのかもしれません。

人の平等を教えるなんて、ものすごい勉強と努力と時間がいるものです。そんな難しいことはできないとあきらめるほうが、親にしてみれば簡単です。


 先の作文には「いじめている側もきっと心の底ではつらい思いをしていると思います。
彼らのサポートも必要です。
ストレスや負担をわかってほしいのだと思います」とあり、この辺が悲鳴のように私には読めました。


 人権を考えるとき、「思いやり」という言葉が頻繁に登場します。

思いやりは、柔らかい響きで分かりやすい言葉に聞こえますが、こんな難しくて勇気のいる行動を表現した言葉もありません。

思いやりは誰でも自分の中にあってほしいと願うのですが、どこかにあるだろうとは感じられても、具体的な行動にすることは難しいものです。

「思いやりを持って人に接しましょう」は、「人権を考えて行動しましょう」よりはるかに言いやすい言葉ですが、「思いやりの実行」には勇気がいります。


 分かっていても、行動を起こした後でなんていわれるか怖いからやらないとか、何もしないでいることを「空気を読む」といって、周囲の「和」を保つためにと正当性の言い訳に使われることもあります。


 身体の障害をからかわれていた子の障害のある方の手を握って登校していた同級生が、その子と一緒に石を投げられていた。

あれがもし自分だったら、そんなことまで耐えて同じ行動ができただろうか、そこまで勇気が持てただろうかと書かれてある作文を読んで私は、私自身が「子どもの何に向き合って話をしているのだろうか」と悲しくなってしまいました。

そういう話題を真剣に話せるのは、「人権週間」に限られているわけではないのですが、日頃から勇気や行動の是非について、何の自信をもって年下の人々に語ることができるだろうかと。


 子どものいじめは大人の物の考え方にも責任があるのかもしれないと、考えさせられました。

「何かする」に対して「偽善者ぶって」という目でみる態度は、大人になればなるほど口にするようになります。
全員とまではいいませんが、子どもたちは今の自分の年で感じる素直な感情を、どこでむき出しにするのかを遠慮していたり、くたびれているのではないかと思いました。

家庭環境に問題があるという言葉は大きく響きました。

posted by 小だぬき at 00:00| Comment(3) | TrackBack(0) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
モッピー!お金がたまるポイントサイト