2013年12月31日 東京新聞「社説」
「日本を取り戻そう」と安倍首相は言いますが、それよりも「日本人らしさを取り戻そう」と言いたい。
そんなことを思ったこの一年でもありました。
ことし印象深かった光景のひとつに、俳優高倉健さんの文化勲章を受けた時の会見がありました。
それを聞いてじつに新鮮な感じを受けました。
最近、聞いた覚えがなかったからです。
ご承知のように健さんは、期待のニューフェースとして映画界入りしたものの作品に恵まれず任侠(にんきょう)映画でやっと人気を博す。
少々脱線するようですが、当時の熱気あふれる映画館では、終幕に殴り込んだ健さん、その背後に敵の刃(やいば)が迫る、すかさず客席から銀幕に声が飛ぶ。
今ではおよそ考えにくい光景でしょうが、その映画館の掛け声とは、自分がそうありたい日本人に向かって思わず叫んだ声援ではなかったでしょうか。
記者会見で、健さんはこうも言いました。
日本人の倫理観を見事なほど簡潔に述べています。
勤勉を尊び、仕事は公正に評価される。
うなずきつつ聞いた人もいたでしょう。
目下、格差社会といわれます。
日本政府は、外国の企業・投資を呼び込もうとしている。
そのために企業の税金を安くする。
同じ恩恵は日本の企業も受けるが、厳しい競争のために経営効率を上げる。社員の給与を抑える。
非正規労働者を増やす。
ではそれは一体だれのための政策だろうか。
こういう中に、日本人らしさはあるでしょうか。
現実には二つの対応があるようです。
一つは、少なからぬ企業が苦しい中でも格差をできるだけ抑制しようとしていること。
経営者から日本人らしさが消えたわけではありません。
もう一つは、競争を理由に格差を進んで認めるような企業のあることです。若者を使い捨てるブラック企業が典型でしょう。
日本人らしくもないことです。
◆司馬さんの日本人論
政治の世界でも、政治参加の権利をめぐって格差に似たものが生まれつつあるのかもしれません。
政治と民意とが離れすぎた。
例えば、揺れに揺れた特定秘密保護法。
情報を独占する国家と、情報を知らされざる国民。
もう少し踏み込んで言えば、支配する者と支配される者。
歴史の教えに従うなら、国家と国民の分離はその国の未来を不安定にしかねません。
少なくとも民主国家からは遠ざかるでしょう。
日本人論と言えば、作家の司馬遼太郎さんは、こう語っていました。
一九九一年、文化功労者に選ばれた時の会見で。
「どうして日本人はこんなにばかになったんだろう。昔はちがったろう。ここから(ぼくの)小説(を書くこと)は始まった」
彼によれば武士道から来たストイシズム、禁欲主義。江戸の商人たちが到達した合理主義。
その二つが明治で合体し、よき明治人をつくり上げたとなる。
司馬さんは、明治人を書くことで、無謀な戦争の愚かさや、戦後の土地バブルのようなことは、断じて日本人らしくはない、とさとそうとしたのでした。
古い日本人をふりかざそうとは思いません。
しかしそれは私たちの先人の知恵であり、振り返る価値のあるものです。
どの国にも国民性はあります。
アメリカにはアメリカ人らしさ、中国には中国人の、日本には日本人の…。
それは変わらないようで時に変わったようにも見えます。
政治や経済が曲げることがあるからです。
◆自信喪失状態の選択は
私たちは、やはり時々自分を見つめ直さねばなりません。
私たちは経済的に豊かな日本を取り戻すのか、それとも精神的に豊かな日本人らしさを取り戻すのか。
そこが見るべき岐路です。
日本は今自信喪失状態のようです。
しかし政治にせよ、経済にせよ、日本人らしさを忘れているだけなのではないでしょうか。