2014年02月21日

香山リカのココロの万華鏡:京のカエル、大阪のカエル 

香山リカのココロの万華鏡:
京のカエル、大阪のカエル 
毎日新聞 2014年02月18日 東京版

 自分と同じ世代、つまり50代前後の人たちで集まると、インターネットをよく使う人とそうでない人とで「触れている世界がまったく違う」と感じることがある

特にソーシャルメディアと呼ばれる対話型のツールをよく使う人は、自分と同じ分野に関心を持つ人たちと絶えず情報交換をしているせいか、「今みんなの関心があの事件に集中しているね」などと言う。


 ところが、50代ともなると「パソコンもほとんど使わない」という人も少なくない。

そうなると当然、ネットやソーシャルメディアともあまり関わらない生活なので、テレビや新聞が情報収集の中心になる。
今であれば、「やっぱり気になるのはオリンピック」ということになろうか。


 もっと下の世代になると、「情報はネットで」という人たちがぐっと増えるのかもしれないが、50代くらいではちょうど「新聞・テレビ派」と「ネット派」が半々という感じなので、集まっても話題がかみ合わないということもしばしばある。

しかもネットを多用する人たちは、一般的に「新聞やテレビは真実を報道していない」と思いがちで、誰かが「テレビで見たんだけど」と言うと「ダメよ、テレビなんかに頼っちゃ!」と否定し、場の空気が険悪になることさえある。


 ネットも好き、でもテレビも好きな私は、こういう場面に出くわすといつも昔話の「京(京都)のカエルと大阪のカエル」を思い出す。

これは、京のカエルが「大阪の町を見たい」と、大阪のカエルが「京の町を見たい」と思い、互いに見物に出かけ、旅路の途中の山の峠に出会ったので立ち上がって向こうを眺め、互いに「京も大阪も何も変わらんな」と言って戻ることにした、という話だ。

これにはウラがあり、カエルの目は頭のてっぺんについているので、立ち上がったときには背後が見え、京のカエルは今来た京を、大阪のカエルは大阪を見ていただけだったのだ。


 この物語の教訓は、「物事を確かめるにはまず自分自身をよく知らなければいけない」ということだが、「新聞・テレビか、ネットか」も同じだろう。

「そっちのメディアは正しくない」と批判の対象にしているのは、実は自分が見ていたメディアのほうでした、ということもあるかもしれない。

もちろん、一番望ましいのは「ネット、新聞、雑誌、テレビ……と、いろいろな情報源をバランスよく見ること」なのだが、それほど難しいことではないのは、あえて言うまでもないだろう。

posted by 小だぬき at 17:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あなたにも、起こるかもしれない話・・

小林多喜二の忌日
2014年2月20日  東京新聞「筆洗」


 古い怪奇映画なんかのおしまいにこんなナレーションがよく入る。
「あなたにも、起こるかもしれない話なのです」。
現実かもと警告する。これが実に怖い

▼「あの鉛色の物体がいつあなたの庭に落ちてくるかもしれないのです。
明日、目が覚めたら、まず庭をご覧ください」。
「ウルトラセブン」の「緑の恐怖」。
おびえた記憶がある。
庭を見ろ。
具体的な指示が一層怖さを強める。
そんなはずはない。でも

▼<多喜二忌や糸きりきりとハムの腕>秋元不死男(ふじお)。
二十日は『蟹(かに)工船』の作家小林多喜二の忌日である。

一九三三年二月二十日、特高警察に逮捕され拷問死した。
軍国主義に反対する危険思想の持ち主。
そんな理由で人が殺される。
わずか八十一年前のことである

▼<糸きりきりとハムの腕>。
「きりきり」という、オノマトペ(擬音語)が醸す恐怖。
小林が死んだ八年後の四一年に秋元も新興俳句弾圧の京大俳句事件で特高に検挙された。
きりきりは自分の痛みでもあろう

▼前の俳号は、東(ひがし)京三。
並べ替えると共産党。
<冬空をふりかぶり鉄を打つ男>。
鉄は資本主義。それを打つので革命だ。
いずれの特高の言い掛かりも狂気である

日本は今どっちへ向かう。
平和か。
小林や秋元の時代か。
<戦争が廊下の奥に立つてゐた>。
秋元と同じ時期に摘発された渡辺白泉(はくせん)。
明日、目が覚めたら、まず廊下をご覧ください。

posted by 小だぬき at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする