2014年02月26日

解決難しい「社会的孤立」

香山リカのココロの万華鏡:
  解決難しい「社会的孤立」 
毎日新聞 2014年02月25日 東京地方版


 記録的な豪雪で、関東甲信越地方を中心とした多くの集落が「孤立」という状況に陥った。

災害に関連した行政機関のサイトで調べてみると、「孤立」とは「道路交通や海上交通による外部からのアクセスが途絶し、人の移動、物資の流通が困難もしくは不可能となる状態」を指すのだそうだ。


 いくら電話やネットは世界とつながっていても、道路が雪で埋もれモノが届かなければ生活は成り立たない。

3年前の東日本大震災の際にガソリン、食料不足に苦しんだ被災地の友人は「つい、『食べ物がないならネットでピザの宅配を頼めばいいじゃないか』とパソコンに向かい、『何をやってるんだ。無理に決まってるじゃないか』と気づく。

でもまた時間がたつと『ネットで水を頼もうか』なんて思ってしまう。
つくづく便利な生活が身に染み付いていたと感じる」と話していた。


 久しぶりに道路が開通し、移動販売の車とともにテレビカメラが入った集落では、隣近所同士で助け合って、孤立していた期間を乗り切ったようだった。

高齢者が多い中で少しでも体力のある人が除雪をし、食べ物の備えがあった人は近所でそれを分け合う。
孤立は1週間近くに及んだのに、人々の表情は意外に明るかった。
「え、この人が87歳?」と驚くほど若々しい高齢者もいた。


 診察室に来る人々の中にも、「孤立」に陥っている人がいる。
その人たちは物資がないわけではなく、家族や友人、近所の人々との交流が途絶えている、いわゆる「社会的孤立」と呼ばれる状態にあるのだ。
高齢者が多いが若い人でも、気づいたら孤立していたという人は少なくない。


 この人たちはコンビニにも自由に行けるしネットで好きなモノを手に入れることもできる。
しかし、日々の暮らしの中で面と向かって誰かと会話することもなければ、生活の中で困ったことが起きても気軽に誰かに相談することもできない。

診察室で「今週、誰かと話したのは今日が初めて」と言う人もいる。
その表情は当然ながら暗く、年齢よりもずっと老けて見える人もいる。


 雪害によって生じた集落の「孤立」と、都会の中での「社会的孤立」。

それを比べて、どちらがマシ、などと言うべきではないだろう。
ただ、雪による道路の通行止めは除雪が進めば解除になるが、誰とも交流がない人たちへの解決策は、より難しい。
うれしくないことではあるが、「孤立」が時代のキーワードになっている。

posted by 小だぬき at 11:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2・26事件 陸軍青年将校がクーデター、戒厳令下の4日間

2・26事件 
陸軍青年将校がクーデター、
戒厳令下の4日間
2012年12月11日  毎日新聞

  第一次大戦後の激変する世界情勢の下、陸軍は国力を高めるために、軍と国家の近代化を図ろうとしていた。

しかしその方法について、軍部の統制を強化することで国力の増強を図る統制派と、天皇親政に戻すことで国力を回復させようと図る皇道派に分かれ、陸軍内部で抗争が続いてきた。


 1935(昭和10)年8月、皇道派であった真崎甚三郎教育総監が更迭されたことで、皇道派は陸軍の主要ポストから締め出された。

このことについて相沢三郎中佐が永田鉄山軍務局長を日本刀で惨殺する事件が起きる。
これは「永田が皇道派弾圧の中心である」と相沢が信じたために起こった事件であった。


 この事件は青年将校の心を大きく動かし、1936(昭和11)年2月26日未明、東京駐屯の歩兵第1、第3連隊を主軸とする陸軍の青年将校らが尊皇と討奸(とうかん=天皇の側近である重臣・統制派軍人・財閥・官僚などを討伐すること)を掲げクーデターを起こした。

彼らは首相官邸などを襲撃し、斎藤実内相や高橋是清蔵相などを殺害。岡田啓介首相は女中部屋に隠れて助かったが、身代わりに秘書の松尾伝蔵予備役陸軍大佐が殺害された。


 また反乱軍は永田町一帯を封鎖し、警視庁・陸軍省・参謀本部・陸相官邸などを占拠した。
これを受け27日早朝、九段軍人会館(現在の九段会館)に戒厳司令部を設置。
政府は都心に戒厳令を発表した。

当時の紙面では「宵・盛り場の灯は消え、劇場や映画館は早仕舞い」とある。
いつもはネオンが輝く銀座も、この時は静かな宵闇に包まれた。


 29日早朝に戒厳司令部より「反乱軍を鎮圧する」との発表があり、一部の地域の住民には避難勧告が出されたので、都心で戦闘が行われるのではないかとの臆測を呼んだ。

一方で陸軍は反乱軍に対し投降を促すビラをまいたりラジオ放送を流すなど相打ちを避けるように努めた。

その結果反乱軍の投降が相次ぎ29日にクーデターは鎮圧。
皇道派は完全に敗北し、後に、首謀者となった青年将校は、軍法会議で銃殺刑に処せられた。


 この事件以降、統制派を中心とした軍部の政治に対する発言力が増し、やがて日中戦争・太平洋戦争へと進んでいくことになる。

※参考文献:決定版昭和史7(毎日新聞社刊)
posted by 小だぬき at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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