2014年12月08日

日米開戦:政治の未熟が招いた真珠湾 五百旗頭真さんインタビュー

日米開戦:
政治の未熟が招いた真珠湾 
五百旗頭真さんインタビュー
2014年12月08 日 毎日新聞

 真珠湾攻撃という選択肢しか、日本にはなかったのか。元防衛大学校長で、歴史家の五百旗頭真さんに聞いた。
【高橋昌紀/デジタル報道センター】

 日本が真珠湾攻撃に踏み切った1941年12月8日、それは欧州の東部戦線でドイツ軍によるモスクワ攻略の失敗が明らかになった直後でした。
近代戦の要は首都攻略です。

これにより、ソ連が早期降伏する見込みはなくなり、ドイツは対イギリスの西部戦線も抱え、第一次世界大戦と同様に「二正面作戦」に陥った。
日本はドイツ、イタリアと三国軍事同盟(1940年9月)を締結することで、米国やイギリスをけん制しようとしましたが、頼みの綱のドイツが致命的な敗北を被ったわけです。

 歴史に「もしも」はありません。
しかし、ドイツ敗退との戦況が対米開戦の決定前に伝われば、日本政府にどのような影響を与えたでしょうか。

その場合、日本は「スペイン・オプション」を歩むことになったと思います。
スペインのフランコ政権は内戦でドイツとイタリアの支援を受けたにもかかわらず、枢軸国側での参戦を見送りました。
スペインは戦禍、敗戦を免れ、フランコの死(1975年)を経て民主化へと向かいます。
もし日本が「真珠湾」を決断しなければ、この「スペイン・オプション」を選ぶことになったと思います。
参戦していない強国日本を両陣営が味方にしたいと考え、日本は有利な立場を得たことでしょう。

 戦争を回避するチャンスはぎりぎりまでありました。
1941年11月26日のハル・ノート(米国の対日文書。日本軍の中国からの撤兵などを要求した)について、日本政府は米国政府は最後通牒(つうちょう)を突きつけてきたと判断しました。
その時、親英米派の吉田茂(当時は外務省待命大使)が人を介し、東郷茂徳外相に意見具申をしました。
「あなたは薩摩の末裔(まつえい)だろう。大久保利通らが築いた国を滅ぼす気か」
「ハル・ノートは言い値だ。これをたたき台にすればむしろ、交渉を継続できる」。
そして、外相辞任も考慮すべきだと極言します。

政変となれば東条内閣は厳冬になる前に対米開戦する機会を失います。
しかもドイツの敗退を知ることになります。

 しかし、東郷はとどまりました。
広田弘毅(元首相、外相)の「後任には軍国主義者が選ばれるかもしれない。
(開戦後の)講和交渉のためにも、辞任すべきではない」との助言を重視したからです。

東郷は外相就任(1941年10月)以来、軍部を相手に非常に頑張っていたと思います。
自身の努力で日米暫定協定の成立を期待していただけに、ハル・ノートにはがっくりときてしまった。

 日米交渉を振り返れば南部仏印進駐(1941年7月)を決定したことによって、破局を招いたと思います。

決定を聞いた幣原喜重郎(当時は元外相、戦後に首相)が衝撃を受け、首相の近衛文麿に「天皇陛下にお願いして、取り消しせよとの命令を出してもらえ」と忠告しました。
それは近衛にとって「今さらできない」ことだった。

幣原の危惧したとおり、米国は石油の対日全面禁輸で応じます。
近衛は聡明な才子でしたが、政治的本能化した判断力を欠いていた。
軍の先を行くこと(「先取論」)で、主導権をとり、威信を高めようとしました。
しかし、それは結局のところお先棒を担いだだけの結果に終わりました。

 米国、イギリス、中国、オランダの「ABCD包囲陣」によって、日本は追い詰められたとの日本被害者論があります。
見当違いも甚だしい。
日本が経済制裁を受けるようになったのは、中国への軍事的侵略を繰り返していたからです。「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」などと暴言して。

ルーズベルト(米大統領)が日本を戦争に引きずり込んだとの陰謀論もあります。
仮にそうだとしたら、日本はまんまと引っかかったことになる。
自らの未熟さ、間抜けさを認めたようなものです。
国家指導者の資格はありません。

国際政治とは「力の体系」であり、「利益の体系」であり、「価値の体系」です。
甘いものではない。自身の行動が招いた結果責任を引き受ける「覚悟」が政治指導者には必要です。

 真珠湾攻撃を立案した山本五十六は若き駐米武官時代にダラスやテキサスの工業・油田地帯を視察し、米国の国力を承知していた。
海軍次官として日独伊三国軍事同盟に反対しながら、連合艦隊司令長官になると国の決定の下で、軍人として最善を尽くそうとした。

しかし、真珠湾で米国の士気をくじくことはできませんでした。
山本が期待したように緒戦で1勝したからと言って、米国は早期講和などに応じるはずもなかった。
かえって、リメンバー・パールハーバーと燃え上がった。

 唯我独尊の軍人を作り出してしまった旧軍の反省に立って、自衛隊幹部が「広い視野・科学的思考・豊かな人間性」を培うよう防大教育を展開し、また「シビリアンコントロール」(文民統制)を徹底してきました。

防衛大学校資料館内に設置した槙智雄初代学校長の記念室には「服従の誇り」という言葉が掲げられています。
それは国民と政府に対する服従を意味しています。
戦争を始めるのも、戦争を終わらせるのも、政治です。

 それを前提としたうえで、今、自衛隊は21世紀の多重化した安全保障に立ち向かおうとしています。
日本の領土をうかがう外国も脅威ですが、大災害も国民の生存にとって脅威です。
さまざまなレベルの脅威から国と国民を守るには軍と民の入り交じった努力が必要となっています。
最終的に自衛隊がしっかりと働けるよう、研究と訓練を積まねばなりません。
posted by 小だぬき at 17:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

千の証言:開戦、消えた天気予報 真珠湾攻撃の日、データ暗号化 機密扱いの恐れ、今も

千の証言:仲間売った、悔い 
「積乱雲で帰還」うそに反論 
飛行隊の元気象士官
毎日新聞 2014年12月07日 東京朝刊

 結果的に、仲間を売ってしまった。

太平洋戦争末期に気象担当だった元海軍少尉が、苦しい胸のうちを語った。
米艦船を目指し飛び立った爆撃機1機が、悪天候を理由に基地へ引き返した。
予報を誤ったと上官になじられ、悔しくて後日、データを見せて反論した。
それが図らずも、死の恐怖にとらわれた操縦士の「うそ」を証明することになったのでは……。
痛恨の思いは戦後69年間、消えずにいる。
              【川上晃弘】

 「なぜ、あんなことをしたのかなあ」。
京都在住の増田善信さん(91)は、しみじみと言った。


 戦前の「気象技術官養成所」(今の気象大学校)を経て召集され、1945年6月に島根県出雲市の海軍基地に配属。
沖縄の米艦船を目指し飛び立つ爆撃機「銀河」の操縦士に、航路の天候を伝えるのが任務だった。
 途中に積乱雲や台風があれば、出撃は即中止。積乱雲に入れば機体が空中分解しかねない。
悪天候で戻れば貴重な燃料が無駄になる。
誤りは許されなかった。
 制空権を奪われて攻撃は夜間に限られ、気象説明はいつも夕方。
黒板に張った天気図を指さし、雲の高さや風向きを伝えた。
操縦士たちは張り詰めた表情で終始無言。
「かかれ」。
上官の号令で機に乗り込む。
遺書を残して飛び立つ者もいた。
 米軍の火力は圧倒的で、攻撃は困難を極めた。宮崎・都井(とい)岬を越えると、無線が途絶え始める。
「やられたか……」。
通信途絶は大部分、撃墜を意味した。


 ある日、1機が「前方に積乱雲」と連絡を入れ、引き返した。
飛行隊を統率する中佐に怒鳴られた。
「貴様! 予報を間違ったな。なけなしの燃料だぞっ」
 そんなはずはない。数日後、機が引き返した奄美大島付近の気象データをひそかに取り寄せた。
積乱雲はなかった。
資料を持って中佐の部屋に押しかけ、「私は間違っていない」と訴えた。


 しかし、中佐は「もういい」と遮った。
そして、ぽつりと言った。
「帰ってくることもあるんだよ」

 増田さんは、自分を初めて恥じた。
「誰だって死にたくはない。
自分だってそうだ。
中佐もうすうす気づいていたんだ」。
飛行隊との接触はなく、操縦士の名前も、その後の安否も知らない。

開戦、消えた天気予報 
真珠湾攻撃の日、データ暗号化
 機密扱いの恐れ、今も

 元海軍少尉の増田善信さん(91)は戦後、気象研究に打ち込む傍ら、原爆投下直後の黒い雨の降雨分布を独自に調べた。
原爆認定訴訟では「(国側は)黒い雨の地域を狭くしようとしている」と証言するなど核問題に積極的にかかわった。
その原点には、島根の海軍基地での体験がある。
 だがもう一つ、戦争と気象を巡る忘れがたい体験があった。
今月8日で丸73年となる日米開戦だ。      
              ◇
 増田さんは、故郷の京都府宮津市の測候所で予報官人生をスタートさせた。
その最初の年、気象業務が平時から戦時体制に切り替わる瞬間を目の当たりにした。
18歳だった。

 日本時間の1941年12月8日未明(米時間では7日)。
旧海軍機動部隊がハワイの真珠湾を攻撃し、日本は米国に宣戦布告した。
その日の夕方、測候所で中央からの気象電報を待っていた。
ふだんは正午現在のデータが午後6時ごろ流れてきて、それをもとに天気図を作る。
勤務は当番制で他に職員はいない。


 電報では風向き、風速、気圧、気温、雲形などが順に数字で送られ、天気図に記入していく。ところが、この日は意味不明の数字や言葉の羅列だった。
驚き、約200メートル離れた所長の家まで走った。
報告を聞いた所長は取り乱すふうもなく、測候所の金庫から赤表紙の乱数表を取り出した。
 この時、気象情報が機密となり暗号送信に切り替わったと知る。
天気予報は消え、台風が近づいても住民に注意を促すことができない。
「ここまでやるか」。
戦争は恐ろしいと初めて思った。      
              ◇
 島根県で敗戦を迎えた増田さんは、復活したラジオの天気予報を聴いて、「やはり平和のシンボルだ」と思った。
その後、気象技術官養成所(今の気象大学校)に入り直し、気象庁に採用される。

 ところが、戦争と気象の結びつきは戦後も終わらなかった。
日米安全保障条約に基づいて52年に結ばれた日米行政協定は、日本側が国内の気象情報を米軍に提供する、と定めた。
規定はそっくり60年の日米地位協定にも引き継がれ、今に至っている。

 「これを見てください」。
そう言って1枚の地図を広げた。
2001年9月20日のアフガニスタン周辺の天気図だった。
周辺国に風速や風向きなどが記載されているが、アフガニスタンだけは真っ白で、異様な印象を受ける。
当時タリバンが実質的に支配し、同時多発テロを受けた米国などによるアフガン攻撃が始まる直前だった。
気象情報はいつでも軍事機密となり、また戦争の混乱で一般の人びとの手の届かないものとなる。
それを天気図が物語っている。

 増田さんは、「中央気象台」(現在の気象庁)が戦時中に作った「戦時気象通報規定」も見せてくれた。
内部ルールだが、天気予報など国民への気象情報提供はなくす一方で、「軍への気象通報は許す限り積極的に実施する」
「実施の可否に迷った場合にはまず実施し、その後必要な方策を講じる」などと、軍部への協力をうたう。
 増田さんは実際の天気を観察しながら、時代の「雲行き」も眺めてきた。
「日本周辺で戦争が起きれば、再び同じ状況になる」と危惧する。
           【川上晃弘】
posted by 小だぬき at 00:00 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする