2015年01月04日

交流し、共に生きる社会を ハシ先生のメッセージ

交流し、共に生きる社会ヲ 
      ハシ先生のメッセージ
2015年1月3日 東京新聞朝刊

◆「できるか、できないかではなく
        やるか、やらないか」

 「かなわぬ夢を夢見、勝てぬ敵と闘い…」

 昨年十二月下旬。
神奈川県鎌倉市の主婦稲田睦子(むつこ)(71)の自宅に、一枚のファクスが届いた。
文章はこう続く。
「忍びがたい悲しみに耐え、勇者もひるむ土地を馳(か)け…」

 愛と信念を貫く騎士を題材に、一九六五年に米ブロードウェーで初演されたミュージカル「ラ・マンチャの男」。
そのラストで歌われる「見果てぬ夢」を、日赤の元青少年課長の橋本祐子(さちこ)(故人)が邦訳した手書きの歌詞だった。

 「ハシ先生の気持ちそのままだ」
 稲田の脳裏に、六四年の東京パラリンピックがよみがえる。
青山学院大学四年だった二十一歳。
日赤が組織した通訳ボランティア「語学奉仕団」に参加した。

 約二百人のメンバーを率いたのが「ハシ先生」こと橋本。
当時の日本では、下半身まひの身体障害者の多くは病院などで一生を過ごし、接する機会がない。
橋本は大会前、奉仕の精神を学ばせようと、障害児施設などにメンバーを連れ出した。

 「子どもを抱っこしてあげたら?」。
しかし、戸惑い、顔色をうかがう者が多かった。

橋本はこう導いた。
「できるか、できないかじゃない。
やりたいか、やりたくないか。
やるか、やらないのか、なのよ」

 決して「やりなさい」とは言わない。
強制されたら奉仕ではないから。
代わりに数々の名言で背中を押した。

「未来は今日つくられるの」
「苦しみのない喜びは三流品よ」

 それは稲田の心にも染み渡った。
大会本番、車いすのスイス選手団を付ききりで介助した。
買い物や外食にも付き添い、翌年スイスの自宅を訪ねるほど絆が強まった。

 理想に燃える橋本の信条のようなラ・マンチャの訳詞が、元メンバー宅から見つかったのは昨年のこと。
ハシ先生の思い出を共有しようと、仲間が稲田宅にもファクスしてくれた。

 橋本は一九〇九年に中国・上海で生まれた。
四五年の終戦を北京で迎え、日本へ引き揚げる早春。
約百二十キロ離れた港町に向かう汽車は寒くてたまらなかった。
屋根もない石炭用の貨車だったからだ。

 乗り合わせた数十人が、持っていた小さな布を集めた。
縫い合わせて屋根代わりにし、身を寄せ合って風雨をしのいだ。

 赤十字との出合いは帰国の二年後。
友人に誘われ、日赤本社を訪れた時だ。
まだ占領下の配給時代。
ボランティアの準備会合で「奉仕どころではない」と本音を漏らした参加者に、三十八歳の橋本は黙っていられなかった。

 「奉仕って何ですか。余計に持っているものをあげることですか。
違うでしょ。
分け合うことではないのですか」。
引き揚げ体験を切々と訴えた。

 日赤の職員となり、パラリンピックを皮切りに、アビリンピック(全国障害者技能競技大会)やさまざまな国際イベントで若者のボランティアを指導した。
都内にある墓碑には「できるか、できないか…」の語句が刻まれている。

 教え子の稲田は、奉仕団を辞めた後も市民講座や英会話サークルのボランティアを続けた。
古希を過ぎ、二〇二〇年に再び迎える東京パラリンピック。
息子や娘、小学生の孫らにも、外国人や障害者と交流してほしいと願う気持ちが強くなってきた。

 思いついたのがホームステイの受け入れだ。子ども部屋が物置になっている。
そこを片付けよう
友達にも声を掛ければ、高齢化が進む地域の活性化になる。
 ハシ先生は半世紀前、挑戦を、と勇気付けてくれた。稲田は言う。
「やってみるって、すばらしいこと。
へたでも何でも、いいじゃないですか」 (敬称略)
posted by 小だぬき at 00:00 | Comment(3) | TrackBack(0) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする