ニッポンへの発言
キーワード 空気と「ほど」=中森明夫
毎日新聞2016年7月19日 東京夕刊
「まあ、見てなよ、この国を盛大にひっくり返してやるから。
そのうち憲法改正だって、徴兵制だって、核武装だって、なんだってできるようになる。
(略)憲法改正なんて論理的必然じゃないか。
自衛隊は軍隊だよ、誰が見たって。論理じゃない、生理なんだ、今、それを拒んでるのは。
つまり戦争の恐ろしさを肌で知ってる世代の生理が憲法改正に抵抗している。
だけど、あと十年もしてみろ。
そんな戦争体験世代もほとんど死んじゃってるよ。
日本人の生理が変わるんだ。そしたら、チャンスだ」
これは2010年4月に発表した私の小説『アナーキー・イン・ザ・JP』の一節である。
大正時代のアナーキスト大杉栄の魂が現代の17歳の少年の脳内に甦(よみがえ)るという物語だ。
主人公の兄の若手論客は、自民党議員の参謀として(日本会議ならぬ)日本政治文化会議を立ち上げ、憲法改正をもくろむ(当時は民主党の鳩山政権下だったが)。
参院選の結果、改憲勢力が3分の2を超した今、6年前の自分の小説を読み返すと、なんとも感慨深い。
予言の的中を誇ろうというのではない。
所詮はナンセンスな物語だ。
とはいえ、政治にも憲法にも疎いサブカル中年の自分が、この小説を書いていた時の気持ちを思い出した。
当時は1年間、大学講師を務め、30歳も下の学生らと毎週、対話していた。
彼らの未来はどうなるんだろう?
ある日、ふとそう思ったのだ。
子供のいない私が、自分が死んだ後の若い世代と日本の行く末に思いをはせた。
憲法改正は不可避に思える。
ことに戦力放棄の第9条は根本的に改変されるだろう。
問題は、それがいつになるかだ。
その時、若い世代の大半は抵抗せず、受け入れるのではないか?
学生との対話で印象に残ったことがある。
「学食で1人で食事ができるか」という話になった。
「いや〜、できないっすよ、絶対。ボッチだと思われるし」。
ボッチとは、独りぼっちのことだ。
「1人なら、もう何も食べないですよ」とも。唖然(あぜん)とした。
そこまで周りの目を意識しているのか!?
一般には若い世代のワガママ無神経ぶりが批判される。
実情はまったく逆だ。
彼らは実に細やかに空気を読んでいる。
いや、読みすぎて(、、、)いるのだ。
空気とは同調圧力を意味するが、そんなに悪いものとばかりは思わない。
この国がこれほど治安がいいのは、みんなが空気を読みあっているからだろう。
ただ……。空気と対になる言葉に「ほど」があるのではないか?
空気を読むのも「ほどほど」にする、といった同調圧力の調整機能だ。
近年では、この「ほど」が失われているように思う。
イジメは昔からあった。が、イジメられっ子が死んでしまうまで止(や)めないとは「ほど」がない。
子供だけではない。
舛添要一前都知事の国民総袋叩(だた)きの時にも痛感した。
一度、叩いていい空気が広がると「ほど」なく、もう誰も止められない。正直ゾッとした。
10年前、第1次安倍内閣の時には「KY総理」と批判された。
KY(空気が読めない)は流行語となり、たった1年で退陣した。
5年後、復権した現在の安倍内閣は、実によく空気を読んでいる。
マスコミという空気発生装置をうまくコントロールしてもいる。
逆に野党・民進党がKYとなった(この場合のKYは「景気が読めない」か?)。
18歳選挙権の導入で、若い世代の多くが野党に投票すると思っていた人がいるようだ。
そんなことはない。
「ほど」なく空気を読む若者らは当然、現政権を支持する。
憲法改正も大半が抵抗なく受け入れるだろう。
「ほど」を失ったのは若者たちの責任ではない。
我々年長世代のせいだ。
「ほど」は言葉で伝えるのが難しく、一度失うともうなかなか元へは戻らない。
今回の参院選の結果の「ほど」のなさに危惧を覚える。
空気の暴走の果ての憲法改正は受け入れ難い。
いや、憲法や選挙だけじゃない。
ずっとフリーランスというボッチだった私は、今後も空気ではなく「ほど」に一票を投ずることになるだろう。