2016年11月26日

年金減法案強行へ 安倍政権の国会審議こそプロレス・茶番

年金減法案強行へ
安倍政権の国会審議こそ
プロレス・茶番
2016年11月25日 日刊ゲンダイ

 物価が上がって賃金が下がっても年金が減額される――。
高齢者イジメの“年金カット法案”が25日、衆院厚生労働委員会で「強行採決」される。
しかし、これほどヒドイ法案を強行採決するとはとんでもない話だ。

 NHKの世論調査によると、この法案に「反対」するのが49%なのに対し、「賛成」はたった10%。
国会での審議時間も短い。
2004年に成立した年金抑制策「マクロ経済スライド」を導入する関連法は約33時間だったのに、今回はたった15時間程度だ。

 民進党の試算では、法成立で国民年金は年間約4万円、厚生年金は同14万円も減額するという。
苦しい生活を送る高齢者にとっては死活問題だ。

 しかも、最近の安倍自民党は、年金法案に限らず、強行採決を事前に“予告”する始末だ。
 山本有二農相の「強行採決発言」だけでなく、“年金カット法案”の所管大臣である塩崎恭久厚労相も佐藤勉衆院議運委員長のパーティーで、「強行採決だなんて、野党はいろいろと“演出”してくる」と放言。
さらに、萩生田光一官房副長官は23日の会合で、TPP関連法案の採決に反対した野党の対応を「田舎のプロレス、茶番だ」と言い放った。

 圧倒的多数の国民が反対する重要法案の審議を「プロレス」「茶番」「演出」とは――あまりにも国民をなめている。
政治ジャーナリストの鈴木哲夫氏はこう言う。
「与党は『最後は数の力で押し切れる』と考えているから、緊張感がなくなっているのです。
野党を軽んじるような発言も、全て本音でしょう。
気が緩んでいるから、口が軽くなる。

メディアも厳しい報道を控えがちなので、内閣支持率が下落することはないとタカをくくっているのでしょう。
緊張感なき国会が、政治の劣化を招いています」
 野党は“乱闘”してでも抗戦すべきだ。

<小だぬき>
野党の抵抗が「質疑・採決で反対しました。与党の多数派の暴挙です」で 悪法や改悪案が可決されていく。本気で阻止する気持ちがあるのか疑わしい抗議で 国民生活が破壊されていく。
社会党委員長 土井孝子氏の「ダメなものはだめ」という徹底抗戦の姿勢が 各野党になくなり形式的「議会」民主主義と国民・マスコミ批判を恐れて 中途半端な闘いで敗北戦を闘っているようにしか思えない。
1970年までは、委員長室封鎖・議場封鎖・牛歩・反対討論の時間制限無視など 国会内でできることは全てやった「社会党」
社会党を支持する総評(労働組合ナショナルセンター)も 社会党と連携して各組合のスト権投票でスト権を確立して 法案の廃案を目指し 国会の状況を見て 大規模ストライキや集会・デモを繰り広げた。
今、そのような野党の姿勢が皆無です。
安全法制の民主党反対討論も2時間弱で牛歩は 山本太郎氏ただ一人。
共産党は 論戦のみで それを大衆運動・市民運動・労働運動にできない影響力のなさ。
革命を忘れた革命?政党、議会主義・構造改革路線。
お隣の国 韓国では 百万人規模の反政府デモが 学生を含め毎週のように開かれる「行動力」と意思表示。この点だけは 韓国国民に連帯したいものです。
年金切り捨て法案の本会議での抵抗、参議院の審議を せめて韓国国民のように怒りを組織して
廃案を目指して欲しいです。
posted by 小だぬき at 17:34 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

土方歳三はなぜ、戦い続けたのか

土方歳三はなぜ、戦い続けたのか
PHP Online 衆知(歴史街道) 11/25(金) 19:10配信
歴史街道編集部

明治2年5月11日(1869年6月20日)、箱館戦争において、土方歳三が戦死しました。
榎本武揚が総裁の箱館政権の陸軍奉行並であり、何より新選組副長として知られます。

土方は新選組局長近藤勇が新政府軍に捕らわれ、板橋で処刑された後も、宇都宮、会津、仙台、箱館と転戦し、戦い続けました。
なぜ土方は戦い続けたのか、その理由を探ってみます。

土方歳三について、「滅びの美学」と評する人もいます。
また、幕臣として、前将軍徳川慶喜のために戦い続けたと語る人もいますが、果たしてそうなのでしょうか。

土方だけでなく、新選組をして「滅びの美学」と評する人もいます。
滅んでいくものに対し、ある種の美しさを見出す日本人の感性を指すもので、これは土方当人の問題ではなく、土方や新選組を日本人がどう見るのかという問題でしょう。
従って土方に「滅びの美学」を感じるか否かは、見る人次第ということになりますが、私が感じるのは、「滅びの美学」というレッテルを一度貼ってしまうと、多くの人はそれでわかった気になって、彼らが何を思い、何をなそうとしていたかを直視しなくなりがちだということです。
それでは、土方がなぜ戦い続けたのかは、よくわからないでしょう。

一方、土方が前将軍徳川慶喜のために戦い続けた、というのはどうでしょうか。
確かに近藤、土方以下、新選組隊士は幕臣にとりたてられていますから、主君は徳川将軍となります。
しかし、自ら政権を手放し、鳥羽・伏見の戦いでは家臣らを置いて自分だけ江戸に逃げ帰り、さっさと恭順した慶喜のために、さして縁もない土方が戦い続けるでしょうか。
そうした「建て前」に、人は命を賭けられないのではと思います。
また、慶喜が恭順しているのならば、家臣も恭順するのがむしろ主君のためです。
しかし、土方は戦い続けました。

なぜ、恭順を潔しとしなかったのか。
一つに、王政復古の大号令、小御所会議、そして鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が朝敵とされるまでの流れが、薩長の謀略によって行なわれた事実です。
政治的寝技で「賊軍」のレッテルを貼られたことに、幕府側の人間が憤激し、納得できないのは当然でした。

そしてもう一つ、土方が戦い続けた理由の最大のものと私が考えるのは、近藤勇の捕縛と処刑です。
甲州での敗北の後、下総流山で一隊を組織し、再起を図ろうとしていた近藤・土方は新政府軍に包囲され、近藤は自ら新政府軍本営に出頭、その間に土方以下を脱出させました。
新政府軍に包囲された時、切腹しようとする近藤に土方は、
「今死ぬのは犬死であり、幕府歩兵頭・大久保大和が、諸方の歩兵をとりまとめるため出張していると言えば申し開きはできる」と説得、近藤も承知し、本営に出向くという土方を制して、自ら出向いたのです。
しかし、新政府軍本営で、大久保大和は新選組局長近藤勇であることが露見。
土方は江戸に潜入して勝海舟や大久保一翁に近藤救出を嘆願しますが叶わず、近藤は慶応4年(1868)4月25日、板橋宿の馬捨場で、切腹することも許されず、罪人として斬首されました。

土方は宇都宮の戦いを経て会津に入り、閏4月、会津若松の天寧寺に近藤の墓碑を建立しました。墓碑に刻まれた法名は「貫天院殿純忠誠義居士」。
会津藩主・松平容保〈かたもり〉が授けたものといわれます。
自ら建てた近藤の墓碑の前で、土方は何を思っていたでしょうか。
流山で近藤を本営に赴かせていなければ、そして近藤の望む通り、切腹させてやっていれば、せめて縄目の恥辱を受けずに済んだのではなかったか…という悔恨とともに、激しい憤りがあったはずです。

近藤を新選組局長と知りながら、武士としての切腹ではなく、罪人として斬首したということは、新政府軍は新選組を武士として遇さず、その誇りを泥足で踏みにじったに等しい。
これは幕末に命がけで任務に当たった新選組を根底から否定するものであり、新選組副長として断じて許せるものではない。

もし自分が敵に降伏するようなことがあれば、それは新選組の否定を自ら認めることになる。
それでは新選組を信じ、あるいは厳しい隊規に則って命を落としてきた多くの隊士たちにも顔向けができない。
近藤と新選組のためにも、自分が降伏することはあり得ない。
土方がそう考えても、不思議ではないと思うのです。

そしてそうであれば、斎藤一が恩義のある会津と最後まで一緒に戦うというのに対し、土方はそれを認めつつも、自分はさらに北を目指したのは、会津とともに降伏するわけにはいかないという思いがあったからではなかったか。

明治2年5月11日。新政府軍による箱館総攻撃が始まります。
五稜郭の旧幕府軍側もそれを予期しており、土方は額兵隊二小隊を率いて、一本木関門に向かいました。
そして伝習士官隊と合流すると、反撃を命じます。
土方は蝦夷地ではただ一人負け知らずの常勝将軍でした。
やがて浮き砲台となって箱館湾で戦っていた幕府軍艦回天が陸上の敵から攻撃を受けると、土方は乗組員の五稜郭への脱出を援護、その後、一本木付近で銃弾を受け、土方は戦死しました。
享年35。

榎本武揚ら五稜郭の首脳陣が降伏するのは、それから一週間後のことです。
幹部の中で土方は一人、ついに降伏をせず、自らの身をもって新選組の誇りを守ったといえるでしょう。


<小だぬき>
*私が新撰組にシンパシーを感じるようになったのは、司馬遼太郎さん原作の「燃えよ剣」のテレビドラマでした。確か栗塚旭さんが 土方歳三役でした。
当時、中一だった私は「組織と個人」の葛藤と最後まで「自らの義」を貫いた新撰組隊士と土方歳三に憧れました。
「お前は妥協や空気を読むことをしない」民間企業では生き抜いていけない、ある程度身分保障される公務員でなければ勤まらないと 小学校免許習得の1年間をサポートしてくれた父に感謝しています。日教組・全教・共産党・選挙事務局などでの組織の建前と本音に翻弄された32年間の教員生活。
原則原理を守り 中央からストライキ準備指示が出た時、執行委員として「ストライキの意義や政治ストライキの批判には 国民の生活を守ると対峙する」と各分会に訴えたら、スト前日にストライキ中止指示を出した党員執行部は 私に「トロッキスト、過激派」のレッテルを貼ってくれました。
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posted by 小だぬき at 00:00 | Comment(5) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする