2017年06月25日

「2分の1成人式」で感謝の手紙を読まれたら、私は親として嬉しがるのだろうか

「2分の1成人式」で
感謝の手紙を読まれたら、
私は親として
嬉しがるのだろうか
2017.06.24 messy (中崎亜衣)

「2分の1成人式」という小学校行事がある。
「10歳」の節目をお祝いして、4年生の3学期にやることが多いらしい。
文部科学省の学習指導要領では特に定められておらず、だから2分の1成人式をやる・やらないは各校の裁量で決められ、その内容も各校で異なる。
行事内容として代表的なのは、2分の1成人式証書授与、合唱、作文(将来の夢、10歳の決意など)、未来の自分への手紙、生い立ちの振り返り(小さい頃の写真、誕生時の様子、名前の由来など、年表作ったり)、子どもから親への(感謝の)手紙、親から子どもへの手紙……といったものだ。
そして、近年は「やる」学校が増えてきているという。

問題は、2分の1成人式で何をやるか、だ。
2分の1成人式が盛んになると同時に、その在り方によっては児童や保護者に本来与えるべきでない負担や苦痛を与えかねないとして疑問視する声が強まっている。
証書授与や合唱は、他の行事でもやっていることで、将来の夢や10歳の決意を書いて発表するのも「本音を言わなければ怒られるワケではない」と気付きさえすればスルーできるだろう。
ただやはり、生い立ちの振り返りや、親への手紙、子どもへの手紙といった保護者の協力・参加が前提のセレモニーを盛り込むことの是非は、各校の慎重な審議が必要だ。

その理由は主に、
(1)児童の家庭環境を配慮していない 
(2)プライバシー侵害となりかねない 
(3)「親に感謝する」という価値観を強制している

 といったもので、結果的に児童や保護者に苦痛を与えかねないからである。

この行事は、温かな家庭で両親に愛されて育くまれた子供たちが、親への感謝とささやかな自立心を抱くためのイベントだと思う。
それはとっても幸福なことだろう。
感激して涙を流す親たちもいるそうで、教員も胸がいっぱいになるという。
しかし子供が安らぎや温かさを感じられない家庭、虐待家庭、まだ馴染んでいないステップファミリー、祖父母や親戚、里親が養育している家庭、児童養護施設の子供などなど、“例外”の児童たちが複雑な感情を抱く機会になるだろうことは、想像に難くない。
ただ、逆にまだ学校側には見えていなかったが現在進行形で何かしらの家庭内トラブルを抱えている子(クラスに1人もいないとは考えにくい)がSOSを発する機会として利用することが出来れば、メリット0とも言えないが……それも学校側、教員側にそれを受け止める土壌があれば、だ。

プライバシー保護の観点で言えば、私が小学生だった頃、転入生が自ら公表するより先に、担任教師が“うっかり”、その子が両親の離婚によって転校してきたことを暴露してしまうということがあった。
父の日、先生はクラス全員に緑色の模造紙を配り、父親への感謝の手紙を書くことを指示した。そのとき先生は、大声ではなかったけど、クラス全員に届く程度の大きさの声で「あ、○○さんは、お母さんに書けばいいから」と、転入してきて間もないクラスメイトに言った。
瞬間、その子は父親と暮らしてない、転校してきた理由もそれ(親の離婚に伴う引っ越し)なのかな、と察したけれど、それって先生が勝手に暴露していいことなのか疑問に思った。
その子がどんな表情をしていたのかは見えなかったし、その時どう思ったのかはわからない。
何とも思っていなかったかもしれない。
先生に悪気はなかったのかもしれない。
けど、自分がみんなの前でこんなふうに、家族の情報を何か言われたら絶対イヤだと私は思い、その先生に嫌悪感や警戒心を抱き、修了式まで信頼できなかった。
あくまでも、私がそう感じたということに過ぎず、ほかのみんながどう感じていたのかは、わからないが。
でも家族や生い立ちのエピソードは、みんなの前で発表して共有するようなことなんだろうか。秘密にしておきたい子や親だっているんじゃないか。
今もそう思う。

親に感謝できなくてもいい

そしてこの行事で一番止めて欲しいのは、「親への感謝」を強制することだ。
親への手紙は、2分の1成人式で定番なのだが、手紙の趣旨は「親への感謝」が前提となっており、学校でこれを書かせるということは、親への感謝を強制していることになる
それはつまり児童に対して「親には感謝すべき」という価値観を植え付けているともいえる。
学校によっては、児童の書いた手紙を教員がチェック・添削の上で清書するというナンセンスな行為がなされ、「感謝の気持ちが足りない」と指導が入ることさえあるというから異常ではないか。
親への手紙は、複雑な家庭の子に対する配慮が足りない、虐待のSOSを見逃すのでは、という懸念もある。
それももっともだ。

ただ、いかなる家庭で育っていようが、親や家族に感謝するもしないもその子の自由だと私は考える。
たとえ10歳の子どもであっても、親や家族にいかなる気持ちを抱くか(内心の自由)は本人次第で、学校が「感謝すべき(それがあるべき姿)」と、さも正しい答えであるかのように提示するのはおかしい。
その子が自分で考えたり悩んだりすればいいし、10歳の時は感謝して親孝行を決意していても2年後には親を軽蔑していることだって、あるだろう。
親は聖人ではないのだし。

ベネッセの調査によると2分の1成人式で感動した!という親は大勢いるらしく、インスタグラムで子どもに貰った手紙を投稿している親も多い。
我が子の学校で実施されている行事に出向き、感動するのだってその人(子どもの親だから、ではなく、その人個人という意味)の自由だ。
けれど、そもそも学校や学校行事は保護者を感動させるためにあるわけじゃないし、子どもは親を感動させるために生きているわけでもないのだ。

「親への感謝」は、大人になっても強制されることがある。
新入社員に「親への感謝の手紙」を書かせ、歓迎会の際にみんなの前で読み上げ、後日総務の人が親元に郵送する……という新人研修をおこなっている企業もあるという。
元来、仕事とは“個人の問題”であり、仕事と親とは無関係、にもかかわらずだ。
社員が親孝行を意識することで仕事意欲にもつながる……という考えに基づいてのことで、管理職や上司が新入社員に対して「お前、親に感謝してるか?」と尋ねるケースもあるらしく、実際にそれが意欲向上につながった社員もいるのかもしれないが、逆に親の過保護・過干渉から離れたかったり、虐待を受けた過去があったり、そういう“例外”の社員にとっては迷惑な質問だし、上司の想像力の欠如を残念に感じるかもしれない。
子どもの給料にたかってくる親だって現実にはいるのだ。
(例外の社員がいないことを確認してからおこなう企業もあるのかもしれないが)

 やっと親とは関係なしに自分の実力を試せる!と決意して入社してくる社員の意欲を奪うことにはならないのか?
 厚労省だって、採用面接で家族に関する質問はNGとしている。
学校同様、会社でだって「親への感謝」は強制するのは、けっこう危険であろう。
そういう私にも2歳の娘がいる。
彼女もゆくゆくは2分の1成人式という行事に遭遇し、「親への感謝の手紙」を読むことになるかもしれない。
正直、現在の娘を見ていても、彼女が10歳の頃どんな子になっているのか、まったく予想ができないし、その頃私がどんな親になっているのかも、これまたまったく予想ができない。

その上で考えてみた。
私自身は小学生の頃に2分の1成人式を経験しておらず、他の学校行事でも親へ手紙を読むことはなかったのだが、そもそも親子参加系の学校行事に生理的嫌悪感を抱く小学生だったので(親を人に見られるのがたまらなくイヤ! だと思っていた)、もし“2分の1成人式で親への手紙を読む”なんて機会があったとしたら非常に憂鬱だっただろうし、手紙には当たり障りのない“書かされている感アリアリ”のことしか書かなかったに違いない。

少なくとも今現在の私は、かつて嫌いな行事(授業参観とか)にイヤイヤ参加したことが自分自身の成長につながっている気はまるでしていない(1ミリもない)。
もちろん私と娘は別人なので、娘が私のような考えの10歳児になるとは言えないが、たとえば、私と娘の関係がそのとき良好なものと言えない状態で、娘が学校で「親への感謝の手紙」を書くことになって、親に感謝すべきという指導が入ったら、娘が「親に感謝できない自分はダメなんだ」とか「感謝できるような親を持っていない自分は不幸」と思ってしまわないとは限らない。

それにしても10歳にもなった娘から、『ママありがとう♡♡♡』な手紙を読まれても白々しいというか、自分はいささか懐疑的に受け止めてしまいそうな予感がしているが。
学校の指導とは関係なく娘の本心=感謝であるならばそれはそれで嬉しいのかもしれないが、強制で書かされても複雑な心境だ。
親に子が自然と感謝や尊敬の念を抱く親子関係が望ましいとしても、それはあくまでも「望ましいもの」だから、みんなが到達する境地ではない。
ともすれば、2分の1成人式は親として子どもから感謝や尊敬される人格者になるべく気を引き締めろ、という親へのプレッシャーとしても機能するのかもしれない。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☁ | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育・学習 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする