記者の目
戦争の記憶−特攻の町で
毎日新聞2017年9月7日 山衛守剛(中部報道センター)
「負の過去」に向き合う
太平洋戦争末期に旧陸軍の特攻基地があった鹿児島県南九州市の知覧町で、特攻隊の精神が、士気を高める会社の研修や自己啓発に使われている。
私は8月に連載した「忘れゆく国で−戦後72年」の取材で研修に参加し、強い違和感を抱いた。
特攻隊は生きて帰ることが許されない存在だった。
しかし、「国や家族を守ろうと出撃した」という側面が強調され、作戦の非人道性はほとんど語られなかった。
戦争の記憶が変容する現場を目の当たりにし、語り継ぐことの難しさを改めて感じた。
林えいだいさん
訪ね、本質知る
特攻隊の本質を確かめたいと思い、8月末、記録作家の林えいだいさん(当時83歳)を福岡県内の病院に訪ねた。
林さんは9歳の時、戦争に反対した父親を特高警察に拷問されて亡くした。
その経験を原動力に戦争当事者に徹底的に取材し、朝鮮人強制連行やBC級戦犯などの真実を記録してきた。
福岡市には戦時中、航空機の故障や不時着で生還した特攻隊員を収容する陸軍施設「振武(しんぶ)寮」があった。
世間に隠された振武寮の実態も、陸軍の元幹部や元隊員への聞き取りを重ねて詳細を明らかにした。
林さんによると、振武寮に隔離された隊員は、陸軍の特攻を主導した第6航空軍の参謀で寮を任された倉沢清忠少佐(故人)から「お前たちはなぜ死んでこなかったのか」「帰還兵は卑怯(ひきょう)者だ」と徹底的に批判され、暴力を受けた。
反省文を書かされ、一日中、「死は鴻毛(こうもう)(おおとりの羽毛)よりも軽しと覚悟せよ」などと軍人の心得を説いた「軍人勅諭」を正座で書き写すことを強制されたという。
林さんは戦後、半世紀以上たって倉沢氏を何度も取材し、「死んでいるはずの人間が途中で帰ってきたとうわさが立つと軍神に傷が付く。
それを第6航空軍は最も恐れた。
とにかく人目につかないところに彼らを置かなくてはならなかった」との証言を引き出した。
これが当時の陸軍の本音だろう。
国民の士気高揚のためにも、特攻隊員には死んで「軍神」になってもらわなければならなかった。
末期がんと闘い、手術で気管を切開してほとんど声が出せなくなった林さんは、取材に筆談で応じ、紙に刻みつけるようにペンで思いを書き付けた。
「人間が戦争のために生きながら敵艦に突入し、生命を投げ出す。
これほどむなしい戦法はない。
日本軍はこれを戦法としてとった。
遺族としては無念だっただろう」。
最後に私にこの言葉を残し、2日後に亡くなった。
知覧での研修や合宿を企画したり、それに参加したりする会社や団体はインターネットで検索するといくつも見つかる。
知覧の特攻隊をテーマにした自己啓発本も複数出版され、いずれも「知覧へ行くと人生が変わる」と説く。
私が7月に参加した広島市の人材育成会社が主催する研修も「生きることの大切さ、感謝を学び、感性を磨く」とホームページでうたう。
講話では特攻隊員に自らを重ね、「使命」や「任務」を考えるよう促された。
参加者は「最後までやり遂げる思いの強さや家族や恋人を守ろうとした愛を感じすてきだと思った」
「覚悟を学んだ」と語った。
先人たちが語り継いできた特攻の記憶は、負の側面がそぎ落とされ、都合のいい物語に変えられていた。
私は、硬い岩をうがつように戦争を記録してきた林さんの言葉の重みをかみしめた。
慰霊の思い薄れ
観光へと変容
知覧が特攻の地として有名になった原点は、慰霊にある。
終戦から10年たった1955年、旧陸軍少年飛行兵の戦友会「少飛会」が尽力して始まった特攻基地の戦没者慰霊祭がきっかけだった。
7月初旬、慰霊祭の発起人の一人で、出撃直前に終戦を迎えた元特攻隊員、地頭薗(じとうぞの)盛雄さん(91)に鹿児島市の病院で話を聞いた。
戦後、仲間たちが飛び立つ姿を毎晩、夢で見て「慰霊のために生きる」と決意したという。
当初は周囲に慰霊を呼びかけても「特攻は軍国主義の象徴だ」と批判されて賛同を得られなかったが、諦めなかった。
全国から慰霊祭に参列する遺族が町に遺品を寄贈するようになり、75年に展示施設が開設されると、観光客は右肩上がりに増えた。
12年後に特攻平和会館が新設され、2001年に高倉健が元特攻隊員を演じる映画「ホタル」がヒットしたことで、観光客は翌年122万人に達した。
しかし、この年をピークに減少傾向が続き、昨年度には半分以下に落ち込んだ。
一方で特攻隊を活用した研修が広がり、南九州市は11年、研修を主催する人材育成会社の社長を観光大使に迎えた。
市の担当者は「研修で来た方々が、また仲間を連れてきてくれるのを期待している」と話した。慰霊への思いはかすみ、観光資源の乏しい地方の悲哀がにじんで見えた。
戦争を知る人たちが次々と亡くなり、社会としての記憶が薄れ、本質がゆがめられていく。
しかし、忘れてはいけない事実がある。
見たくない過去から目を背けず、彼らが語り継いできた戦争の記憶と向き合い続ける。
それが今を生きる私たちの責任なのだと思う。