2017年10月16日

衆議院選挙が始まった 本当に「3極」の争いなのか

松尾貴史のちょっと違和感
衆議院選挙が始まった 
本当に「3極」の争いなのか
2017年10月15日 毎日新聞(松尾貴史)

 衆議院選挙が始まったが、テレビでいまだに「3極の争い」「三つどもえの戦い」と解説されている。
この「3極」という言葉に、少々違和を感じる。
「極」の意味は一つではないかもしれないが、「ごく」と読む場合を除いては、一方の端、という意味だろう。
極が三つもあるというのはどういう状況だろうか。
北極と南極、極右と極左、積極と消極、イメージは2方向への対立だろう。
3者が争うというけれど、「1等賞には乗用車をプレゼント」というような場合には使っても、3人が喧嘩(けんか)をすれば、往々にして2対1の関係になりがちだ。
政権の場合は3者がある程度の力を持てば、政権運営から考えて、それはそのうち2者が組んで、結局2対1になるのではないだろうか。

 三つどもえとは、もちろん3者が拮抗(きっこう)して鼎立(ていりつ)し争っている様を表す言葉なのだから、今回の選挙は「連携する」「協力する」と公表している団体の集団を分ければ三つどもえと言ってもいいだろうけれども、公表されていない想定を懐に持っている集団を「対立している」と短絡していいのか、すこぶる悩ましい。
公開すべき情報を明かさないで事を進めて後出しジャンケンのような行動に出る現象を、私たちは多く見過ぎた。

 しばしば「現政権」との対決は口にすれど、政権党との対決自体を明言しない勢力は、果たして対立していると解釈してもいいのだろうか。
それも、長い間政権の助け舟、補完を努めてきた別の集団と連携しているわけだから、選挙が終わればどう行動するか不確定要素が多い。
選挙が終わった途端に、いい意味ではないサプライズをするスタイルだということは、直近の地方選挙でまざまざと見せつけられた記憶が新し過ぎる。

 日本を2大政党制にしたいという人たちは多いが、それはなぜなのだろう。
わかりやすさを求めているのだろうか、それとも例えばそのスタイルが定着しているアメリカに対する憧れ、またはコンプレックスからだろうか。

有権者にとってみれば、買い物をする場所や職場や病院や金融機関など、選択肢が多いことの方がいいことだと私は思っているのだけれど、政党に限っては(特に党議拘束が横行する政治では)少ない方がいいということが理解できない。

 かつての最大野党は、一度は政権を取ったけれども、そのプロセスで党勢を拡大することばかりを優先し、考えの一致しない人たちも何でもかんでも内包し過ぎて無理がきてしまったのではないか。
今回の合流だ、排除だという騒ぎの中で、雨降って地固まるというわけではないかもしれないが、少しではあるけれども考え方の「純化」が行われたのではないか。
「排除」された人たちの中から、まとわりついていた、足を引っ張る要素がなくなったのではないかと有権者も感じたからこそ、急激に支持を伸ばしている勢力も出てきた。

 今回は特定秘密保護法、「戦争法」(安全保障関連法)、「共謀罪」法などが強引に「成立」させられ、このまま行くと国民が本当の「一丁上がり」になってしまう瀬戸際ではないかと危惧する。
もちろん、それが国民の本望、総意であれば仕方がないけれども、従来の低投票率で事が進んでしまうのであれば残念極まりない。
 毎度、国政選挙のたびに似たことを言うけれども、「俺が1票入れたところで変わらない」と言うゆがんだニヒリズムは、自分たちの首を絞めるだけだ。

「入れたい人がいないじゃない?」と言う「白馬にまたがった王子様」を待っている人には、永遠にその対象は現れない。
王子がいないから狡猾(こうかつ)で老獪(ろうかい)で尊大で醜悪な人に自分の生命や生活を預けることをよしとするのは、あまりにもばかげているではないか。

 期日前投票も手軽すぎて拍子抜けするぐらいだ。
投票日当日も、手間というほどの手間ではないので、今の気分ではなく、子どもたちの将来のためにも、意思表示をしていただきたい。
(放送タレント)
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☔ | Comment(2) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする