2017年11月08日

今季の箱根は3強体制になるのか。全日本を制した(母校)神奈川大の本音は?

今季の箱根は3強体制になるのか。
全日本を制した
神奈川大の本音は?
2017/11/06  Nunber web( 生島淳)
*神奈川大は小だぬき母校

全日本大学駅伝のゴール地点、伊勢神宮内宮にある洗面所。
 隣になったのは、神奈川大学の大後栄治監督だった。
妙なところで鉢合わせしたものである。
あと数分もすれば、先頭の神奈川大のアンカー、鈴木健吾が飛び込んでくる。
歓喜の瞬間はもうすぐそこだ。

「監督、想定通りだったんじゃないですか」
 大後監督は、淡々と手を洗っている。
「想定通りというか、まあ……」
 そう言って微笑んだ。

 神奈川大にとって、20年ぶりの優勝
絶対にうれしいはずだ。
しかし、そんな素振りはおくびにも出さない。
 アンカーの鈴木が胴上げされるのを、大後監督は微笑みながら見ていた。
監督自身は、胴上げをやんわり断った。
「近くに、2位の東海さんもいましたからね」  いい光景だった。

日体大のマネージャー時代に培った方法論。
 1990年代、大後監督は天下を取った。
 1964年に生まれた大後監督は、日体大時代はマネージャーだった。
今もそうだが、日体大のマネージャーは記録会の自主運営など、驚異的な仕事量をこなす。
 当時の日体大は監督が不在だったため、学生主導で練習が行われていた。
そこで大後監督は寮にあった以前から伝わる練習計画に隅から隅まで目を通し、練習の立案をしていた。
それが「指導者・大後栄治」の基礎を作った。

 1989年に24歳の若さで神奈川大のコーチに就任すると、「日体大メソッド」を導入して3年目で箱根本戦復帰、4年目でシード権を獲得。
そして1997年に初優勝し、翌年には連覇した。
 選手たちに徹底して走り込ませ、箱根駅伝ディスタンスであるハーフマラソン仕様に仕上げ、天下を取ったのである。

「1990年代は、走りこめば
優勝までたどり着けた」
 しかし21世紀に入って、神奈川大は苦戦を強いられる。
まず、リクルーティングで後手を踏まざるを得なかった。
その頃から、明治、青山学院といったいわゆる「ブランド校」が本格的な強化に乗り出し、選手たちの流れが変わった。
神奈川大は2004年の8位を最後に、シード圏外へと転落していった。

大後監督は振り返る。
「1990年代は、まだシンプルでした。
それほど強化に乗り出している学校も多くなかったので、しっかりと走り込めば優勝までたどり着けたんです。
でも、落ちていくのはアッという間でしたし、今は這い上がってくるのが大変で」

 ついに、2010年には予選落ちした。
どん底である。
しかし、この事件があったからこそ、V字回復が可能になった。
「あそこが分岐点でした。
予選落ちした時点で、他の大学だったら、私は指導者として脇に退かざるを得なかったかもしれません。
でも、神奈川大は懐が深くて、学生長距離界がどんな競争をしているのか、耳を傾けてくれた上に、強化を根本から見直すことが出来たんです」

走りの効率を追求し、
年末はレギュラー以外帰省。
 そこから強化体制が変わった。
練習環境でいえば、クロスカントリーのコースが整備され、大後監督自身も指導方針をアップデート、いや、モデルチェンジをした。
「今は、『走りの技術』を重視するようになりました。
効率のいい走り方を追求するようになって、選手たちは明らかに変わりました」
 最近は大後監督から、「コンディショニング」という言葉を頻繁に聞くようになった。

 昨年はまだ市販されていなかった栄養補給食品「ボディメンテ」をレギュラークラスの選手たちに与え、最高のコンディションで箱根駅伝を迎えられるようにしたり、年末は箱根のメンバーから漏れた選手たちを一旦、帰省させもした。
「大学によっては、感染症の予防でレギュラー以外の選手は帰省させることがあります。
でも、私は箱根こそ部員全員で戦うものだと思っていたので、やっていなかったんです。
しかし風邪が疑われる選手が出ると、スタッフの労力も増えてしまう。
思い切って帰省させると、その選手たちにとってもいい気分転換になったようで、マネージメントとしては成功しました」

アンカーの鈴木健吾は、
高2の冬に神大入りを決めた。
 そして、忘れてならないのはリクルーティング、人材獲得競争での努力だ。
 今回ゴールテープを切った鈴木健吾は、今や東京オリンピックを狙う逸材となったが、大後監督のレーダーにかかってきたのは鈴木が無名も無名、まだ彼が宇和島東高校1年の時だった。

「『いい走りをする選手がいます』という情報をもらいましてね。
彼がブレイクしたのは高校3年のインターハイの時でしたが、ほとんどの監督さんはノーマークだったと思います。
インターハイのゴールの瞬間、『あの選手は、どこかに決まってるのか?』という声が聞こえたので、私が『ウチに決まってます』と手を挙げたんですよ(笑)」
 鈴木が神奈川大に決めたのは、高校2年の冬のことだった。
「先着」がリクルーティングのキーワードだった。
「青山学院さん、東海さん、選手たちは強い学校に惹かれて当然です。
だったら、ウチは初動を早くするしかない。
高校2年の段階で5000mを14分45秒で走れるのなら、神奈川大としてはスカラシップ(奨学金)の対象選手になります」

 鈴木が入学してきた2014年を境に、選手たちの力は向上し始めた。
箱根駅伝では2015年17位、2016年13位と上昇気流に乗り、2017年には2区で鈴木健吾がトップに立ち、往路は6位、総合では5位に入って、シード圏内に帰ってきたのである。
 そして今年の1月、合宿所に大後監督を訪れると、「来年(2018年)の箱根は、往路優勝を目指します」と、監督は宣言したのである。
「ひょっとしたら、ひょっとするかな」
 その前に、全日本の歓喜が訪れた。

指揮官は、絶対に手応えを感じていたはずなのに、レース前も、 「まあ、最低限シード獲得の6位あたりで……」 と多くを語らなかった。
しかし、8人全員が見事な走りを見せて優勝を飾ると、少しばかり本音を話してくれた。
「事前にひょっとしたら、ひょっとするかな、という思いはありました。
でも私がそんな思いを少しでも出したら、選手たちは勘違いしてしまうかもしれない。
だから、順位目標は一切口にはしませんでした」

今回の学生の走りは
何点ですか? と聞くと……。
 今回の全日本のポイントは、鈴木健吾以外の7人がどんな走りをするか、という部分にあった。 「アンカーの健吾が走るのは分かってましたから、それまでの7人がどういった形で健吾にタスキを渡せるのか、その一点が今回の全日本のポイントでした」
 ならば、今回の学生の走りは何点ですか? と聞くと、 「満点」 とひと言いうと、大後監督はそこで初めて破顔一笑した。
学生の走りが、本当にうれしかったのだろう。

 今回の全日本での優勝は、箱根駅伝に新たなストーリーラインを生んだ。
 目標は往路優勝ではない。  きっと、総合優勝だ。
 しかし、ここでも大後監督は淡々としていた。
「東海大、そして青学大の選手たちは忸怩たる思いを持っていることでしょう。
彼らは強いですから。
ウチはもう一度引き締め直して、再チャレンジです
 11月21日に53歳を迎える大後監督は、再び天下取りを目指す。

 箱根の彩りがますます豊かになってきた。  
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☀ | Comment(2) | 趣味・好きな事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする