2017年12月03日

横綱の品格とは何か 「美しい国」の国技の正体と偽善

横綱の品格とは何か
「美しい国」の
国技の正体と偽善
2017年12月2日 日刊ゲンダイ

マスコミ報道はリンチだ。
政治家に古典道徳の正直や清潔などという徳目を求めるのは、八百屋で魚をくれと言うのに等しい」
 1983年、ロッキード事件で田中角栄元総理に有罪判決が言い渡されたのを受け、当時の秦野章法相がこう言い放ったのは有名だが、引退した横綱日馬富士の暴行事件をめぐる騒動を見ていると何か共通するものを感じてしまう。

 暴行事件発覚以来、大新聞・テレビは連日、大騒ぎ。
朝から晩まで記者が相撲部屋に張り付き、日馬富士や貴乃花親方のほか、酒席に参加していたモンゴル人力士を執拗に追い回してマイクを向け、写真や映像を撮る。

ワイドショーでは、特別国会の衆参予算委で追及されたモリカケ疑惑よりも扱いが大きい。
日本相撲協会は12月20日に臨時理事会を開き、問題を調査している危機管理委員会の最終報告を受けた後、当事者や関係者の処分を決める方針だが、あと1カ月近くもこんなバカ騒ぎが続くのかと思うと、いい加減ウンザリだ。

もちろん日馬富士の暴行は大問題だ。
モンゴル人力士が勢ぞろいした酒席は本当に純粋な親睦会だったのか、それとも最初から貴ノ岩を狙った集団リンチだったのか、あるいは別の目的があったのか、いまだに真相は不明だ。

傷害事件の被疑者となった日馬富士の引退は当然だし、相撲協会が永久追放を決断しても不思議じゃない。
とはいえ、一連の大新聞・テレビの報道に違和感を覚える国民は少なくないだろう。
とりわけ首をヒネりたくなるのは、「横綱の品格」を声高に説いたり、「国技を守れ」「相撲道に精進しろ」と訴えたりするステレオタイプの論調が目立つことだ。

■プロレスと同じ「興行」の
相撲に品格を求めてどうするのか
 日本相撲協会がホームページに掲載している〈相撲の起源〉によると、
〈我が国の相撲の起源としては、古事記(712年)や日本書紀(720年)の中にある力くらべの神話や、宿禰・蹶速の天覧勝負の伝説があげられる〉
〈その年の農作物の収穫を占う祭りの儀式〉だったという。

おそらく、ここら辺の神話や伝説、儀式が、相撲がヘンに神事扱いされている理由のひとつになっているのだろうが、注目は〈歌舞伎と並んで一般庶民の娯楽として大きな要素をなすようになった〉という部分だ。
つまり、伝統芸能だ文化だと叫んだところで、相撲は庶民の娯楽。
現代では年6回開かれる「興行」であり、プロレスなどの「格闘技」と何ら変わらないのだ。  

しかし、横綱に品格を求める大新聞・テレビがプロレスラーの品格問題を取り上げたなんて話は聞いたことがないし、今でも「元気ですかー?」と叫びながら、一般市民の頬を思い切りビンタする元プロレスラーのアントニオ猪木参院議員の品格を問題視する報道もない。
要するにプロレスラーと同じ「興行師」である力士にモラルを求めたところで意味はないのだ。  

ましてや、平均年収30万〜40万円といわれるモンゴルから一獲千金を求めて来日したモンゴル人力士は「品格うんぬんよりも番付を一枚でも上げてカネを稼ぎたい」のが本音だろう。

今回の事件だって、暴行現場に白鵬、鶴竜の両横綱が同席していたが、日馬富士の愚行を制止できなかった。
日馬富士だけじゃなく、そろって品格なんてサラサラ頭になかったのだ。
しかも、白鵬は九州場所千秋楽の優勝インタビューの際、笑顔で観客に万歳三唱を促し、日馬富士を「土俵に上げたい」とまで言い切っていた。

警察から“実行犯”の日馬富士に匹敵する7時間半もの長時間の事情聴取を受けたにもかかわらず、今も反省しているとは思えない。
 それどころか「鉄の結束」で結ばれた同郷力士を引退に追い込んだ貴乃花を許さぬ――とばかり、3日から始まる冬巡業も「貴乃花親方のもとでは参加できない」と敵意ムキ出しだ。

大新聞・テレビは「前人未到の40度目V」などと「日下開山」のごとく取り上げたが、この姿が化けの皮が剥がれた白鵬の実相。
大マスコミも相撲協会もバカの一つ覚えのように品格を唱えているが、これが現実なのだ。

スポーツライターの工藤健策氏がこう言う。
「一連の騒動ははっきり言ってお笑いです。
今は、協会も相撲部屋もカネ、カネ。
そのための手段として強い力士が欠かせず、かといって日本人を育てている時間もないから、手っ取り早く身体能力に優れたモンゴル人力士を日本に連れてきているわけです。
相撲の歴史や伝統、品格など後回し。
とにかく勝ってくれればいいわけで、そうでありながら、いざ問題が起きると『品格』と言い出すから呆れる。
カネのためにモンゴル人力士におんぶにだっこしてきた協会がよくもまあ、品格を言えたもの。偽善ですよ」

相撲界の「高潔性」や
「ガバナンス」を本気で
   信じている国民はいない
「スポーツ界の高潔性が向上するようにわれわれも動いているが、少し後退してしまった」(鈴木大地スポーツ庁長官)
「相撲協会のガバナンスがどうなのかを注視している」(梶山弘志内閣府特命担当相)
 暴行事件について閣僚から発言が相次ぎ、相撲協会は今回の問題を「運営に重大な影響を与えるリスク」と位置付けた。

そして「信用の危機に適切かつ速やかに対応できるよう、協会員すべてが結束して調査に協力することが必要」――と決議した。
ビール瓶だったのか、リモコンだったのかはともかく、凶器を使って他の部屋の力士の頭をカチ割るような横綱を推挙した横綱審議委員会の責任はどうなのか。
相撲協会のトップである八角理事長は進退問題に発展しないのか。
いい加減な相撲界の「高潔性」や「ガバナンス」を本気で信じている国民がいるのか疑問だが、そういう意味では“孤高の大横綱”と持ち上げられている貴乃花の言動もまた、うさんくささを感じざるを得ない。

■貴乃花は宗教に近い
思い込みを正義と勘違い

〈日本国体を担う相撲道の精神、相撲道の精神とは、角道と言います。
角べる道と書きます。
私どもが相撲協会教習所に入りますと、陛下が書かれた角道の精華という訓があります。
これを見て、いちばん最初に学びます。
この角道の精華に嘘つくことなく、本気で向き合って担っていける大相撲を(略)貴乃花部屋は叩かれようが、蔑まれようが、どんな時であれども、土俵に這い上がれる力士を育ててまいります〉

 九州場所千秋楽の打ち上げパーティーで、こう挨拶する姿が民放番組で報じられた貴乃花。
相撲部屋を預かる親方としての強い責任感はヒシヒシと伝わってきたが、それにしても単なる興行に「日本国体を担う相撲道の精神」なんて大袈裟過ぎるだろう。

 東工大の中島岳志教授は貴乃花のこの「国体」発言について、ツイッターで
〈貴乃花親方の一連の行動に、どうしても1930年代の青年将校のような「危うい純心」を感じてしまう。
「国体」に依拠した大相撲協会の「改造」が行動の目的なのだとしたら、危うい〉
貴乃花親方が協会内で孤立し、貴乃花部屋がカルト的結社化するようなことになれば大変だ〉と懸念を示したのもムリはない。

現役時代に整体師による洗脳騒動があった貴乃花だけに、相撲協会との対立が深まるほど、メディア取材を避けるほど、その危うさや異様さが際立ってしまうのだ。
スポーツジャーナリストの谷口源太郎氏がこう言う。
「貴乃花親方の言う『相撲道』って一体何でしょうか。
中身が全く分かりません。
宗教に近い自分勝手な思い込みや浅薄な考えを正義だと勘違いしているのではないか。
自身もモンゴル人力士をスカウトしたように、今の協会運営がどれほどモンゴル人力士に支えられているかを全く理解していないのではないか。
モンゴル人力士同士は付き合うな、なんて発想が幼稚過ぎます。
このままだと、モンゴル人力士の怒りが貴ノ岩に向かって本人が孤立しかねません」

 つい、この間まで「ちょんまげ」を結っていた力士が引退した途端、スーツにネクタイ姿で「品格」や「相撲道」を言い出す。
「ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする」ではないが、協会も大新聞・テレビも視点が時代遅れだ。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☀ | Comment(2) | 趣味・好きな事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする