2017年12月21日

「左利きの矯正」を当然とする社会圧の代償

「左利きの矯正」を当然とする
社会圧の代償
それは「自分らしく生きる」ことの否定だ
2017年12月19日 東洋経済

親野 智可等 : 教育評論家

あなたの利き手は右手ですか?
それとも左手ですか? 
お子さんはどうですか?

割合でいえば、人間の9割が右利きで、左利きは1割だそうです。
ですから、21世紀の今現在でも、社会全体は何かにつけ右利き仕様にできています。
たとえば次のようなことです。

・文字はもともと右手で書くようにできているので、右手のほうが書きやすい
・自動改札機、自動販売機、はさみ、急須など、右利き用にできているものが多い
・宴席などで、箸は右手で持ちやすいように、箸先が左に置かれる

もしお子さんが左利きだったら、どうしますか? 
これはけっこう迷うところだと思います。
私は長年教師として仕事をする中でいろいろな事例を見てきましたが、「わが子が左利きらしい」と気づいたときの、親の反応はだいたい次の3つに分けられます。
あなたはどれに近いでしょうか?

1. 子どものうちなら右利きに直せるはずだ。この子のためにも直してあげよう
2. 右利きに変えないまでも、できたら右手でもできるようにしてあげよう。両手利きは何かと便利だろう
3. 生まれつき左利きなら、それを活かして育てたほうがこの子らしく生きられるだろう

この問題を考えるうえで、以前私が聞いた40代前半のグラフィックデザイナー渡辺さん(仮名)の話が参考になります。

「左手はダメ。右手で書きなさい」
渡辺さんはもともと左利きで、小学1年生までは親からも先生からも右利きに直すように言われたことはありませんでした。
それどころか、幼稚園で絵を描いていたとき、先生に「左手で描けるなんてすごいね」と褒められたこともあったくらいです。
ところが、小学2年生のとき、突然、つらい毎日が始まりました。
新しく担任になった先生が、「左利きはダメ。特に、鉛筆とお箸だけは右手で使えるようにしなければ」という考えの人だったからです。

渡辺さんが授業中に左手で書いていると、すぐに「左手はダメ。右手で書きなさい」としかられました。
慌てて右手に持ちかえて書くのですが、力が入らないのでミミズが這ったような字しか書けません。
給食のときも、左手で箸を持っていると「ダメでしょ。お箸は右手。お椀は左手」としかられました。
でも、箸を右手に持ちかえて食べようとすると、手がわなわな震えてうまく食べられません。
楽しいはずの給食が苦痛な時間になりました。

渡辺さんは、授業でも給食でも先生が見ていないときは左手を使おうとしました。
ところが、「先生、渡辺君が左手を使ってる」と告げ口する子がいて、これもできなくなりました。
休み時間のドッジボールで、左手で投げていると、「左手はダメだよ」と注意してくる子もいました。

3年生になってすぐの始業式で担任発表があり、また同じ先生に受け持たれることになりました。
このときの絶望的な気持ちは忘れられないそうです。
その後、右手の使い方はだんだんうまくなっていきましたが、それでも、もともと右利きの友達のようにはいきませんでした。
「自分は何をやってもダメ」という気がしてきて、勉強はもとより遊びも楽しめない状態が続きました。

親は特に何も言わなかったので、家では何でも左手でやっていました。
また、絵が好きで水彩画教室に通っていたのですが、そこでは左手で絵筆を持って思う存分描いて楽しんでいました。
ストレス発散にもなり、渡辺さんにとってはこれが救いでした。

渡辺さんは、「家や水彩画教室でも『左手はダメ』と言われていたらどうなっていたかわかりません」と言っています。
4年生になって先生が代わったら、左手のことは何も言われなくなりました。
それで、鉛筆も箸も左手で持つようになりました。
このときの解放感もいまだに忘れられないそうです。
でも、しばらくしてあることに気づきました。
それは、「鉛筆と箸は左手でも友達よりうまく使えない」ということです。
これは渡辺さんにとってショックでした。

2年にわたる無理な矯正によって、利き手であるはずの左手もうまく使えなくなってしまったのです。
40代になった今でも、字を書くのは苦手です。
さらに気になるのが、箸の使い方がちょっとぎこちないということです。
食事中に特に困るという程ではないのですが、やはり普通の大人より下手だそうです。

利き手の矯正には、
いろいろな弊害がある
渡辺さんの例にもあるように、利き手を矯正することにはいろいろな弊害があります。

まず1つ目として、利き手を変えようとしても簡単にはいかないので、子どもは自分の能力や努力不足のせいと思い込んでしまいます。
その結果、「自分はダメな子だ」と感じて、自己否定感にとらわれるようになります。

2つ目として、子どもはしかられるのが嫌なので、「親や先生がいるところでは右手。
いないところでは左手」と使い分けるようになります。
それで、「自分はずるをしている。自分はずるい子だ」と感じるようになり、これがまた自己否定感につながります。

3つ目として、しかり続ける親や先生に対する不信感が生まれ、ときに「自分は嫌われているんじゃないか?」と思うようになります。
渡辺さんのように友達に告げ口されたりすると、友達への不信感も出てきます。
子どもの頃に、親、先生、友達への不信感を持ち続けると、他者一般が信じられない人間不信の状態につながる可能性があります。

4つ目として、たとえ右手で多くのことができるようになっても、もともと右利きの人のようにはうまくできない状態になる可能性があります。
下手をすると、渡辺さんのように、利き手すらうまく使えない状態になる可能性もあります。

こういったいろいろな弊害は、過小評価されるべきではありません。
たとえ左利きを右利きに変えることができても、その過程で植え付けられた自己否定感や人間不信をずっと引きずってしまうことになったら、あまりにも弊害が大きいと言わざるをえません。

ところで、以前は、この渡辺さんのように無理に矯正させられることがよくありましたが、最近はそういった無理な矯正は少なくなっています。
その理由としては次のようなことが考えられます。

・無理に利き手を変えることには上記のような弊害があることがわかってきた
・価値観の多様化で、左利きも個性の1つとみなされるようになってきた
・無理な矯正は人権侵害だという認識が広がってきた
・スポーツで左利きの選手が活躍し、左利きのイメージがよくなった
・アインシュタイン、エジソン、ベートーベン、ピカソなど歴史上の偉人にも左利きの人がたくさんいることが知られるようになって、イメージがよくなった
・左利き用の道具が普及し、生活への支障が以前より少なくなった

でも、無理な矯正がまったくなくなったわけではありません。
祖父母や親戚の人に言われて悩む若い親はけっこういます。
そして、「無理な矯正はよくないけど、両手利きにするのはいいのでは?」という考え方もあります。
親がそう考えることもありますし、先生、祖父母、親戚などにすすめられることもあります。

でも、これは一見問題ないように見えますが、実は注意が必要です。
親は「できたら両手利きに」と思っても、子ども自身がその必要性を実感することはまずありませんし、子ども自らが「是が非でも両手利きになりたい」という強いモチベーションを持つことなどありえないからです。

ですから、両手利きにさせようと思ったら、結局、毎日親が「できたら右手でもやってごらん」「ときどき右手でもやってみよう」などと言い続けなければならないのです。
言われる子どもにとっては大きな苦痛です。
たとえ「ときどき」でも、うまく動かない手でやるのは苦痛です。
それに、そもそも、なぜ、左利きの子だけが両手利きにならなければならないのでしょうか? 右利きの子を両手利きにさせようとする親はいないのに……。

そこには、やはり、左利きのままではいけないという価値観があるのです。
それは、もって生まれたありのままの自分らしく生きてはいけないという価値観です。
つまり、人々に一定の基準や枠を押しつけ、そこからはみ出してはいけないという価値観であり、多様性の否定です。

髪の毛は黒の直毛でなければいけない、性は男か女のどちらかでなければいけない、多数派が正しく少数派は間違っている、こういう差別的な価値観と通底するものです。

多様性を大事にすることが必要
これからの時代、人々が幸せに生きられる社会にしていくためには多様性を大事にすることが必要です。
すべての人がありのままの自分らしく生きられる社会、人と違う生き方が肯定される社会、自分の長所を最大限に活かせる社会です。
右利きで生まれたらそれを最大限に活かして生きていく、左利きで生まれたらそれを最大限に活かして生きていく、それが当たり前の社会にしていく必要があるのです。

文字数が尽きましたが最後に1つ。
自動販売機のおカネを入れるところは右側にありますが、真ん中にすることくらいすぐできるはずです。
自動改札機のカード読み取り部や切符を入れるところも、当たり前のように右側にあり、左利きには使いにくいです。こういうところにも多数派の無神経さが表れています。
なんとかならないものでしょうか?
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☀ | Comment(4) | 教育・学習 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする