寓話・北風と太陽には
「北風勝利」編もある
2018年01月29日 東洋経済
戸田 智弘 : キャリアカウンセラー
寓話という言葉を『第六版 新明解国語辞典』(三省堂)で引くと、「登場させた動物の対話・行動などに例を借り、深刻な内容を持つ処世訓を印象深く大衆に訴える目的の話」と書かれている。
イソップ寓話や仏教寓話、荘子の寓話などが代表的なものである。
寓話の目的は教訓や真理を伝えることであり、お話そのものはそれらを届けてくれる“運搬手段”である。
別の言い方をすると、寓話においては教訓や真理こそがその核であり、お話はそれらを包みこむ“外皮”である。
なぜそのような二重構造をとるのか。
教訓は苦く、真理は激しいので、そのままでは食べられない。
ならば、楽しいお話で教訓や真理を包んで読者に届けようというわけだ。
本稿では、拙著『ものの見方が変わる 座右の寓話』から抜粋し、寓話を「学校の授業」や「会社の朝礼」で使える話材として紹介する。
長い寓話は2分程度で話せるような内容に要約してある。
本稿が寓話の面白さを知るとともに、自分の仕事や人生、地域・国・世界の進むべき道について考える一つの手がかりになれば、幸いに思う。
北風と太陽
北風と太陽が彼らの力について言い争っていた。
議論ばかりしていても仕方がないので、勝負をしようという話になった。
最初の勝負は、旅人の帽子をとることだ。
はじめに、太陽が旅人を照りつけると、旅人は日差しを避けようと帽子を深くかぶり、けっして脱ごうとはしなかった。
今度は、北風が思いっきり強く、ビューと吹いた。
すると、旅人の帽子は簡単に吹き飛んでしまった。
次の勝負は、旅人の上着を脱がすことだ。
はじめに、北風がありったけの力で、ビューッと吹きつけた。
しかし、旅人はふるえあがって、着ものをしっかり両手で押さえるばかりだった。
今度は、太陽が旅人を照らした。
すると、旅人は上着を脱いで、気持ち良さそうにのびをした。
解説:状況に適した手段を選ぶ
この話の教訓は、何事においてもそのつど適切な手段を選ぶことが肝要であるということだ。
旅人の帽子をとるには北風が適していた、上着を脱がせるには太陽が適していたということだ。要するに臨機応変の大切さを説いている。
一般的に、年をとればとるほど素直さは消えていく。
逆に、頑固さは増すばかりである。
「人の意見は40まで」(40歳をすぎた人に意見をしても効き目がないこと)ということわざがあるくらいだ。
臨機応変であるためには頑固であってはならない。
社会で成功している人や組織ほど、自信を持っているという意味で頑固である。
しかし、過去にうまくいったからといって、これからもずっとうまくいくとは限らない。
成功は人を頑固にする。
成功の記憶はときに耳栓になる。
まわりの環境が変わってしまっているのに、過去の勝ちパターンにしがみつくことはよくあることだ。
時が変われば、選ぶべき手段が違って当然である。
熟慮のうえ、適切な手段を選ばなければならない。
水槽の中のカマス
水槽の真ん中に透明なガラスの仕切りをつくり、一方に数匹のカマスを入れ、もう一方にカマスの餌になる小魚を入れた。
カマスは餌を食べようとして突進するものの、ガラスの仕切りにぶつかってはね返される。
何度も何度も繰り返すうちに、とうとう諦めてしまった。
その後、透明なガラスの仕切りを取り除いても、カマスはけっして小魚のいる方へは行こうとしなかった。
しばらくしてから、新入りのカマスを水槽に入れた。
すると、何も知らない新入りは、一直線に餌に向かって突進した。
それを見ていた古株のカマスたちは「あの餌は食べられるんだ」ということに気づき、先を争って餌に向かって突進した。
解説:
組織の殻を破るのは、異質な人材
カマスは再三にわたり餌の小魚に向かって突進した。
しかし、透明なガラスの仕切りに何度も阻まれるうちにだんだんやる気をなくし、ついには、餌を追わなくなってしまった。
「学習性無力感」(米国の心理学者マーティン・セリグマンが発表した理論)と呼ばれる状態に陥ったのである。
これは、努力を重ねても望む結果が得られない経験や状況が続くと、「何をしても無意味」だと思うに至り、努力を放棄してしまう現象である。
こういう無気力状態に陥っている組織は少なくない。無気力は個人の中で学習されて、蓄積されていく。
それだけでなく、失敗したことがない人間にまで疑似体験として伝染していき、組織全体に広がる。
無気力感が蔓延している組織に活を入れるには、その組織に異質な人材を入れることだ。
転職者や新入社員が異質な人材の典型である。
彼ら彼女らは、無知ゆえの強さ、経験がないがゆえの強さ、非常識ゆえの強さを持っている。
半分の煎餅
お腹をすかせたある男が、お菓子屋さんで七枚の煎餅を買った。
さっそく男は家に戻って、煎餅を食べはじめた。
1枚食べ終わったが、お腹はふくれない。
2枚目を食べるが、まだお腹がふくれない。
3枚目、4枚目、5枚目、6枚目と男は次々と煎餅を食べた。
それでも、空腹がおさまらない。
残った煎餅は1枚だ。
あと1枚しかないので、残った煎餅を2つに割って食べることにした。
すると、今度はお腹が一杯になった。
その男は残った半分の煎餅を手に持ちながら、悔しそうに言った。
「俺はなんて馬鹿なんだ。半分の煎餅でお腹が一杯になるんだったら、前の6枚は食べなくてもよかった」
解説:
わずかな変化を
ばかにしてはいけない
馬鹿みたいな話である。
六枚の煎餅を食べたことを忘れ、半分の煎餅だけで腹がふくれたと勘違いした男は、「日々の積み重ねが大きな成果を生む」ことを分かっていない。
「〈1.01〉と〈0.99〉の法則」を紹介しよう。
1.01は1よりわずかに大きい。0.99は1よりもわずかに小さい。
両者の差はたった0.02。
しかしながら、このわずかな差が積み重なると、大きな違いが生まれてくる。
実際にこの2つを365回かけるとどうなるか。1.01の365乗は37.78 、0.99の365乗は0.026になる。こんなにも大きな差が生まれることに誰もが驚くだろう。
言うまでもなく365という数字は一年間を意味する。
日々1%だけ余分に努力を続けた人と、日々1%だけ手を抜いた人とでは、一年間でここまで差がつくのだ。
人生は小さな選択の積み重ねである。
その選択が、一年後のあなたの人生を決める。
あなたは、1.01を選ぶ?
それとも0.99を選ぶ?
目をなくしたカバ
1頭のカバが川を渡っているときに自分の片方の目をなくした。
カバは必死になって目を探した。
前を見たり、後ろを見たり、右側を見たり、左側を見たり、体の下を見たりしたが、目は見つからない。
川岸にいる鳥や動物たちは「少し休んだほうがいい」と助言した。
しかし、永遠に目を失ってしまうのではないかと恐れたカバは、休むことなく、一心不乱に目を探し続けた。
それでも、やはり目は見つからず、とうとうカバは疲れはてて、その場に座りこんでしまった。
カバが動きまわるのをやめると、川は静寂をとり戻した。
すると、カバがかき回して濁らせていた水は、泥が沈み、底まで透きとおって見えるようになった。
こうして、カバはなくしてしまった自分の目を見つけることができた。
解説:
「止まる」ことは「正しい」こと
コップの中の泥水をしばらく放置しておくと、やがては泥が沈み、水と泥に分かれる。
この現象はしばしば座禅にたとえられる。
座禅の禅とは何か?
もともとはインドの「ジャーナ」という古い言葉からきているという。
「ジャーナ」とは心を静かに保つということだ。
茶色の泥水の状態は忙しさの中でもがいている日常である。
心を静かに保つことで、心の中の舞い上がった泥を沈めてみよう。
座禅を組むところまではいかなくても、私たちは毎日の生活の中に「心を静かに保つ時間」、つまり「ぼんやりする時間」をいくつも見つけることができる。
朝の駅のホームで電車を待つ時間、食堂で定食が運ばれてくるのを待つ時間、交差点で赤信号が青信号に変わるのを待つ時間、エレベーターで目的の階に向かう時間――。
つい先頃まではそういうひとときは「ぼんやりできる時間」だった。
ところが、今や私たちはスマートフォンをいじって、そういう時間をつぶしている。
何も考えずにぼんやりしているときにこそ、ひらめきが降りてくるという話はよく聞く。
机に座って髪の毛をかきむしっているとき、パソコンに向かって身もだえするとき、ひらめきは降りてきてくれない。
ひらめきという訪問者は、忙しい人を嫌い、ぼんやりしている人を好む。
禅語の中に「七走一坐」と「一日一止」という言葉がある(『心配事の9割は起こらない』枡野俊明著/三笠書房)。
「七走一坐」とは、七回走ったら一度は坐れという意味だ。
ずっと走り続けていないと仲間から後れをとってしまう──ついつい私たちはそんなふうに考えてしまう。
しかし、長い目で見れば、ずっと走り続けることは良いことではない。
しばらく走ったら休息をとり、自分の走りを見直すのが賢明である。
「一日一止」とは、一日に一回は立ち止まりなさいという意味だ。
ずっと歩き続けるのではなく、一日に一回くらいは自分の歩き方を見つめ直す。
そうすることで、正しい歩みをつくっていくことができる。
「一止」という字を見てみよう。「止」の上に「一」を乗っけてみると「正」という字になる。一日に一回、止まって自分を省みることは正しいのだ。
2人の商人
昔、江州の商人と他国の商人が、2人で一緒に碓氷の峠道を登っていた。
焼けつくような暑さの中、重い商品を山ほど背負って険しい坂を登っていくのは、本当に苦しいことだった。
途中、木陰に荷物を下ろして休んでいると、他国の商人が汗を拭きながら嘆いた。
「本当にこの山がもう少し低いといいんですがね。
世渡りの稼業に楽なことはございません。
だけど、こうも険しい坂を登るんでは、いっそ行商をやめて、帰ってしまいたくなりますよ」 これを聞いた江州の商人はにっこりと笑って、こう言った。
「同じ坂を、同じぐらいの荷物を背負って登るんです。
あなたがつらいのも、私がつらいのも同じことです。
このとおり、息もはずめば、汗も流れます。
だけど、私はこの碓氷の山が、もっともっと、いや十倍も高くなってくれれば有難いと思います。
そうすれば、たいていの商人はみな、中途で帰るでしょう。
そのときこそ私は1人で山の彼方へ行って、思うさま商売をしてみたいと思います。
碓氷の山がまだまだ高くないのが、私には残念ですよ」
解説:
「めんどくさい」が仕事のやりがい
どんな仕事にも、その仕事特有の苦労がある。
2人の商人の苦労は、普通の人ならば体一つで登るだけでも大変な山道を、重い荷物を担いで運ぶことである。
誰でもできる仕事ではあるまい。
筋力や体力はもちろんのこと、忍耐力も必要だろう。
仕事特有の苦労は、ある種の参入障壁になる。
つまり、その仕事に新たに就きたいと思う人を思いとどまらせるのだ。
世の中には、「手間ひまがかかってめんどくさいわりにはおカネが儲からない」という仕事は多い。
確かに、それはその仕事のデメリットである。
しかし、それは同時に参入障壁にもなっている。
先日、「〈プロフェッショナル 仕事の流儀スペシャル〉宮崎駿の仕事〈風立ちぬ 1000日の記録〉」という番組の再放送を見た。
この中で、宮崎が何度も発する言葉に私は衝撃を受けた。
それは「めんどくさい」という言葉だ。
「え、宮崎駿でも、めんどくさいって思うんだ」。
私は驚いた。
私は、宮崎駿レベルのクリエーターであれば、めんどくさいとは無縁だと思っていた。
しかし、違っていた。
「めんどくさいっていう自分の気持ちとの戦いなんだよ」
「大事なものは、たいていめんどくさい」
「めんどくさくないとこで生きてると、めんどくさいのはうらやましいなと思うんです」。
めんどくさいの連発である。
私は思った。
みんな多かれ少なかれ「めんどくさい」という気持ちと戦いながら仕事をしている。
「めんどくさいが仕事のやりがいを生んでいる」と考えてはどうだろうか。
3人のレンガ職人
旅人が、建築現場で作業をしている人に「何をしているのか」と質問した。
1人目の作業員は「レンガを積んでいる」と答えた。
2人目の作業員は「壁を造っている」と答えた。
3人目の作業員は「大聖堂を造っている。神を讃えるためにね」と答えた。
解説:
目の前の仕事の目的を考えてみる
3人とも「レンガを積む」という同じ仕事をしているのに、「何をしているのか」という質問に対する答えが異なっている。
1人目の職人は「レンガを積んでいる」という行為そのものを答えただけである。
2人目の職人は「壁を造っている」というレンガを積むことの目的を答えた。
3人目の職人はまず「大聖堂を造っている」という壁を造る目的を答え、同時に「神を讃えるためにね」という大聖堂を造ることの目的を付け加えている。
人間の行為は必ず「何かのために、何かをする」という構造を持っている。
1つの行為の目的にはさらにその目的が存在する。
「目的と手段の連鎖」と呼んでもいいだろう。
寓話を例にとれば、レンガを積む→壁を造る→大聖堂を造る→神を讃えるという構造になっている。
上位の目的が下位の目的を決めてコントロールしているのだ。
私はこの寓話から2つの教訓を読みとろうと思う。
第一に、できるだけ広く「目的と手段の連鎖」をイメージして仕事をするのが有益であるということ。
1人目の職人より2人目の職人、2人目の職人よりも3人目の職人の方が有意義な仕事ができることは容易に想像できる。
ドストエフスキーは、人間にとって最も恐ろしい罰とは、「何から何まで徹底的に無益で無意味な労働」を一生科すことだと言っている。
朝からレンガを積み上げ、夕方に一日かけて積み上げたレンガを壊すという仕事を想像してみよう。
これは、まったく意味のない仕事である。
実際の仕事の場面ではこれほど無意味な仕事が与えられることはまずないだろう。
しかしながら、その仕事が持っている意味を十分にわかっていないまま仕事をしていたり、非常に狭い範囲の「手段と目的の連鎖」しか知らされずに仕事をしていることは多いのではないか。それは、囚人に与えられる拷問と五十歩百歩かもしれない。
第二の教訓は、自分の仕事は私の幸福や私たちの幸福とどうつながるのかを考えるということだ。
先に述べた「手段と目的の連鎖」はどこまでも無限に続くのかというとそうではない。
哲学者のアリストテレスによれば、「……のために」という目的の連鎖は「なぜなら幸福になりたいから」という目的にすべて帰結する。
たとえば、朝に洗面所で身だしなみを整えている大学生を考えてみよう。
「何のために顔を洗ったり、髪をとかしたりするのか」
「学校に行くためだ」
「何のために学校へ行くのか」
「良い仕事に就くためだ」
「何のために良い仕事に就きたいのだ」という問いかけの連鎖は「良い人生を送りたいためだ」となり、それは「幸福でありたいためだ」と同じことを意味する。
同様に、会社員が現在している仕事に着目し、その目的を掘り下げていけば「良い人生を送りたいためだ」となる。
そして、それは「幸福でありたいためだ」というところに行き着く。
自分がしている仕事は、私の幸福や私たちの幸福とどうつながっているのだろうか?