2018年03月04日

「うつ病の意外な兆候にも気づいてほしい」

丸岡いずみ、
うつ病体験をさらけだす
「うつ病の意外な兆候にも気づいてほしい」
2018/3/3 週刊女性2018年3月13日号

 丸岡いずみさんが自らのうつ病体験を役立てたい! と執筆した『休むことも生きること 頑張る人ほど気をつけたい12の『うつフラグ』』(幻冬舎)が話題だ。

 キャスターとして忙しい日々を送りながらも、周りのスタッフからは「タフで病気知らず」として知られていた丸岡さん。
2011年の東日本大震災の取材後、湿疹が出る、眠れない、下痢が続くといった症状が出ても、「ちょっと疲れているだけだろう」と考え、相変わらず仕事に邁進(まいしん)する毎日を続けていた。

心の病ではなく、うつは脳の病気
「私は落ち込むといった精神症状はまったくなく、身体にいろんな症状が出るタイプだったので、まさか自分がうつ病だとは思いもよりませんでした。
うつ病は身体に現れることもあるんです。
また、うつ病は心が弱い人がなるという誤解をされている人もいますが、脳の病気なので、明るく元気な人でもかかります。
私自身もうつ病について誤解をしていて、重症化させてしまったので、今回、自分の体験をさらけだして書くことで、うつ病の意外な兆候にも気づいてほしいと思いました」

 丸岡さんが、うつ病を悪化させた要因のひとつが薬を拒絶したことだった。
「精神安定薬や抗うつ薬を飲むと、人格まで変わってしまうのではという思い込みがありました。
そして医師には処方された薬を飲んでいないのに“飲みました”とウソをつき、どんどん病状を悪化させてしまいました。
私が薬嫌いになったのは、薬の話は医学書にしか書いてなくて、難しく、副作用が恐ろしいイメージがあったからです。

そのため、この本では、うつ病体験者であり、カウンセラーでもある視点から、薬についてもわかりやすく解説しています」

 本のタイトル「休むことも生きること」は、昨年3月に亡くなったお父様が丸岡さんにかけてくれた言葉だという。
「仕事一筋で止まることなく走り続けてきた私は、父から言われたこの言葉にはっとさせられました。
うつ病になって、“仕事もできないし、私にはもう価値がない”と自信をなくしていましたが、仕事だけが人生ではないことに初めて気づくことができたんです

うつ病の人への対応もアドバイス  
本の中では、うつ病の人への声がけについても触れられている。

「“うつ病の人に頑張ってと言ってはいけない”というような話がありますが、私自身は“頑張って”と言われてイヤな気分になったことはありませんでした。
頑張ってという言葉の中に、“あなたが本当によくなるまで待っている” “応援している”という意味が含まれているのがわかれば、素直にありがたいと受け取れます。

“うつ病の人だからこういう言葉をかけないといけない”と深く考えるのではなく、“大変だよね”“お大事にね”と寄り添う言葉をかければ十分だと思います」

 丸岡さんがうつ病で苦しんでいるとき、夫で映画評論家の有村昆さんの対応にも救われたという。
「当時はまだお付き合いはしておらず友人という関係だったのですが、うつ病だと伝えると、“誰でもなるもんだよね”と、こっちが拍子抜けするくらいさらっとした対応だったんです。大げさに騒がれるのが辛かったので、彼の言葉に気持ちがラクになりました。
また彼の家に行くと、うつ病の本がたくさんあって、私の病気を理解しようと勉強してくれていたことがわかり、ありがたかったです」

 うつ病の人に「死にたい」と言われたら、周囲はおろおろしてしまいがちだが、そのときの対応にもポイントがある。
うつ病で自殺願望がわくのは普通のこと。風邪でせき、鼻水が出るのと同じなんです。
自殺という行動をとらせないようにすることは大切なのですが、“死にたいなんてとんでもない考え方だ”とうつ病の人を否定すると、“わかってもらえない”という気持ちが強くなってつらくなります。
“死にたいくらいつらいんだね”と共感し、“死にたいと思うのは、うつ病だから大丈夫”と言ってもらえると安心します。

本の中には、こういった、うつ病の方への対応に悩んでいる家族の方にも役立つことも盛り込みました」

現在は、仕事一辺倒にならないよう、夫との家庭生活をベースにマイペースに過ごしている丸岡さん。
「いま思い返すと、昔は高速道路を爆走しているような仕事中心の生活でした。
今はプライベートな時間が持てるようになり、バランスがとれて、自分らしく生きられていると思います」

『休むことも生きること』丸岡いずみ=著(税込み1188円/幻冬舎)

 もう薬は飲んでいないが、うつ病が再発しないよう、自分が好きなことをする時間を多くもつことも大切だ。
「幸せホルモンと呼ばれるセロトニンが不足すると、うつ病にかかりやすくなることがわかっています。
自分が楽しいと思える趣味をたくさん持っているほうが、うつ病からの回復が早いともいわれています。
私は温泉や土いじりが大好きなので、こういった趣味に没頭する時間を大切にして、セロトニンを分泌することを意識しています」

 うつ病経験を話す機会が増えるうちに、体験談だけではなく、医学的根拠に基づいた説得力のある話をしたいと思い、執筆したという今回の本。

うつ病予防のためにも多くの人に読んでもらいたい一冊だ。

ライターは見た! 著者の素顔
 本が大好きだという丸岡さんですが、ふだんはどういう本を読んでいるのでしょうか?

「昔は仕事で役立つ実用書ばかり読んでいましたが、今はただただ楽しめる本を読むのが幸せです。
最近のおすすめは『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』(神田桂一・ 菊池良=著・宝島社)。
村上春樹、太宰治、三島由紀夫、夏目漱石、星野源、小沢健二など100人の文体を模倣して、カップ焼きそばの作り方が書かれており、かなり笑えます」

<プロフィール>
まるおか・いずみ
◎1971年、徳島県生まれ。
元日本テレビ記者兼キャスター。
2011年の東日本大震災の取材後、重度のうつ病を発症。
回復後、2014年にメンタルヘルスカウンセラーの資格を取得。
うつ病に関する講演も行う。
著書に『仕事休んでうつ地獄に行ってきた』など。
今年1月、代理母による出産で長男が誕生。
(取材・文/紀和静)
posted by 小だぬき at 18:00| 神奈川 | Comment(2) | うつ病について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

国民に刷り込まれる「単純な言葉」の数々

五輪実況と「戦時中の標語」には共通点がある
国民に刷り込まれる
   「単純な言葉」の数々
2018年03月02日 東洋経済

中島 義道 : 哲学者

冬季オリンピックも終わりました。
私は、全然熱心な観戦者ではないのですが、いろいろ考えさせられることもあります。
第一に、なぜ人はこれほど「戦いたい」のか、ということ、
そして第二に、なぜこれほど「勝ちたい」のかということです。

よく考えてみれば、生活の基本にほとんど必要のないこと(メダル)を目指して、それこそ命を懸けるのか、ということ。
これは、芸術にしても学問にしても同じかもしれませんが。

4回転ジャンプに
失敗しても死にはしない
本当の戦争なら、わからないこともない。
それこそ勝ち負けは生死を決することだからですが、4回転ジャンプができなくても、スキーのジャンプで長い距離を飛べなくても、明日から生きられないわけではない、殺されるわけではない。

しかし、なぜか人はそういう状況に置かれると、それが人生の絶対的な価値となってしまう。
その理由は、私にもわからず、たぶん本人に聞いてもわからないと思いますが、哲学者らしく(?)ここ30年間考えていることです(参考:拙著『人生を〈半分〉降りる』ちくま文庫)。

私は、どうも勝つことは醜いと思っており、勝つと自責の念に打ちひしがれ、といって負けたくもなく、いつも勝って「かつ」負けたいと思っている。
そのせいか、私の人生はまさに勝ちつつ負け、負けつつ勝ってきた感があります。

さて、すべての選手が血のにじむような努力を重ね、その結果、勝った者は、その勝利がかなりの度合い「運」によっていることを知っているからこそ、とても謙虚になる。
これは、感動的なことです。

勝者に許され
敗者に許されないこと
しかし、視点を変えれば、敗者もこのすべてを知っているのですが、(勝者は「運がよかったんです」と言っていいけれど)敗者は、「運が悪かったんです」と言ってはいけないことも知っている。

しかも、「運がよかった」と語る勝者は、さらに賞賛され、もし敗者が「運が悪かった」と語れば、さらに蔑まれる、私はテレビ画面を見ながら、いつもこの残酷さをかみしめています。

テレビに出て語ることが要求されるのは、勝者のみであり、敗者は徹底的に言葉を奪われる

この連載では、このところ「言葉」をめぐって問題を提起していますが、以上の問題を、もう少し言葉につなげてみましょう。

オリンピックはどう考えても、国家間の一種の戦争であり、だからこそ、これほど「盛り上がる」のだと思いますが、本当の戦争同様、言葉が粗雑になっていくことが気になる。
戦争に突入した国家では、反戦運動は鎮圧され、反戦的言論も弾圧されるのが普通です。
そして、「欲しがりません、勝つまでは」とか「一億玉砕」という単純なスローガンが刷り込まれる。

戦争は、人命を殺すのみならず、言葉を殺す。
言語の繊細なはたらき、その繊細な感受性を殺すのです。

五輪実況で飛び交う粗雑な言葉
同様に、オリンピックの報道では、リポーターの大ざっぱな(不正確な)言論が飛び交う。

たとえば、スキーの女子ジャンプで銅メダルを獲得した高梨選手の快挙を報道したあるリポーターは「日本中のすべての人に勇気を与えてくれました」と絶叫していましたが、私は彼女が銅メダルをとっても「勇気をもらった」おぼえはありません。

フィギュアスケートで羽生選手が金メダルを取ったときも、「日本中が喜びに浸っている」と報道されましたが、端的に誤りです(少なくとも、私はそうではありませんでしたから)。

そして、こういう「あたりまえ」のことを言うだけで、ひどく偏屈に思われてしまうというのもヘンなこと。
私はただそれほど関心がないだけであり、先に述べたように勝者に対して一定の「思想」がありますので、「勇気をもらう」こともなく、「喜びに浸る」わけでもないだけです。

哲学は「言葉」だけが武器ですし、それを錆びないように絶えず研ぎ澄ましていなければならない。
そして、私がこの言い方も気に入らない、あの言い方も気に入らないと訴えると、「そんなに目くじら立てずに、さらっと聞き流せば」と助言してくれる人が多いのですが、そうはできない。

「みんな」と同じ言葉遣いを受け入れてしまうこと、それこそ哲学の「安楽死」だと確信しています。
もちろん、ただちに気に入らない言葉遣いの主に向かって攻撃を開始するわけではない。
しかし、四六時中、念入りにチェックすることだけは怠らないのです。

私は、20年前に人生を<半分>降り、10年前に「哲学塾」を開き、翌年大学を辞めたのですが、その最も大きな理由は、この「言葉」の問題と言っていいでしょう。

組織では、定型的な言葉を使わなくてはならず、結婚式や葬式をはじめ、ひんしゅくを買う言葉を使うことは禁じられているし、沈黙さえ許されない。
そこで、大げさに言えば、哲学を続けるか否かの瀬戸際まで追いつめられ、「世間語」の蔓延する社会(世間)から脱退することにし、本当に思っていることしか語らなくていい場としての「哲学塾」を作ったのです。

言葉だけでなく
「音」にも鈍感な日本人
ここで、何回かこの連載でテーマに取り上げた日本中に流れる機械(テープ)音、すなわち、「エスカレータにお乗りの際は……」などの注意、依頼、警告、宣伝「音」の問題に触れてみます。
これが身震いするほど嫌いなことは、なかなかわかってもらえないし、最近ではもうわかってもらえることさえ期待しなくなった。

と、こうしているうちに、最近、最寄りのスーパ−にセルフ・レジという機械が導入された。
人間ではなく機械が精算するのですが、そしてそれは一向にかまわないのですが精算のたびごとに「精算方法をお選びください、現金をお取りください、お釣りとレシートをお取りください」という機械音が流れる。
しかも10レーン以上あるレジから同じ音が響き合いまじり合い、生きた心地がしなかった……のですが、みんな平然としている。

私は本社に「スーパーはリピーターが多いので、1度操作すればわかることだから、ある期間が過ぎたら音を止めてほしい」と要望する長い手紙を書きましたが、丁寧な拒絶の返事がきました。
いいでしょうか? 
私が問題にしているのは「騒音」ではないのです。
わかっていることを、しかも定型的な音と同じ文句で繰り返し言われたくないのです。

これは、銀行のATMでも、他のところでも同じ、なんでほとんどの同胞が「いらっしゃいませ、毎度ありがとうございます、現金をお取りください、ありがとうございました」と言われて何ともないのか、わかりません。

認められない
「知りたくない権利」もある
生命倫理に「知りたくない権利、あるいは知らずにいる権利(the right not to know)」という概念があります。
自分のDNA構造が将来解明され、そこから自分が致命的な病にかかる確率が高いこと、しかも防ぎようがないこと、すなわちかなりの確率で短命なことがわかるかもしれない。
しかし、それを強制的に知らされたくはない、そうかもしれないが、知らずにいたい、という、合理的な権利です。

最近は、これを、日本中に流れる「音」の問題にも適用できないものかと考えている。
私の自宅から仕事場(哲学塾)までは私鉄で6駅ありますが、「駆け込み乗車はおやめ下さい」という「音」が各駅で2回ずつ、よって往復24回聞かねばならない。
でも、私は注意されたくない、「知らされたくない」のです。

しかし、ここで「知りたくない権利」は認められそうもない。
というのも、ほとんどの人はこれが「なんともない」のですから。
つまり、ほとんどの「なんともない人」に支えられた電鉄会社に、私の苦痛を訴えても勝つ見込みはないのです。

しかし、私が知るかぎり、欧米にはこういう「音」は皆無です。
とすると、この点で、日本人の感受性と彼らの感受性とのあいだには、じつは考えられないほどの隔たりがあるに違いない、こう考えて、30年研究しているわけですが、いくつかヒントは探り当てました。

その1つとして、日本人は、言葉から意味の伝達をあまり期待しないということがある。
床の間に意味が解らない(読めない)掛け軸を掛けていても平然としているし、まったく意味の解らないお経を延々と聞かされても異議を唱えない。

源氏物語絵巻を西洋人に見せると、そこに書かれている文字の背後に絵が描かれているわけですが、文字を読みたいのでその絵が邪魔だという苦情が少なくないと聞いたことがある。
彼らは、文字が書かれているからには、その意味を知りたいのですが、わが同胞は文字の意味などどうでもよく、流れるような仮名が流麗な絵に溶け込むさまを鑑賞するだけで満足するようです。

こうして、言葉の意味を問うことがないからこそ、街中の「〜〜〜に注意しましょう! 〜〜するのはやめましょう!」という人をバカにしたような注意放送が何度鼓膜をたたいても「気にならない」。
大部分の日本人は音を「のみ込んでしまう」高度な技術を体得しているのでしょうか?
 不思議でなりません。
posted by 小だぬき at 00:00| 神奈川 ☁| Comment(0) | 教育・学習 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする