東京大空襲73年 記憶受け継ぐ
墨田で法要式典
2018年3月10日 東京新聞
約十万人の命が一夜で奪われた東京大空襲から七十三年となった十日午前、遺骨が眠る東京都慰霊堂(墨田区)で春季慰霊大法要が営まれた。
秋篠宮ご夫妻が参列され、遺族ら約六百人が犠牲者を追悼。
小池百合子知事は「戦災の恐ろしさを風化させないよう語り継ぎ、平和で安全な世界を守る責任がある」と誓った。
現在の江東区で空襲に遭った吉田征一郎さん(78)=群馬県高崎市=は「火の粉の中を一家で逃げて防空壕(ごう)に入ったが、妊娠中だった母と三歳の妹が人に押しつぶされて窒息死した。
自宅も焼け、たくさん苦労した」と振り返った。
孫で高校三年の圭吾さん(18)=同市=は今年初めて参列。
「最初は場違いかと思ったが、若い世代こそ知っておくべきだと感じました」と話した。
東京大空襲は、太平洋戦争末期の一九四五(昭和二十)年三月十日未明、米軍が現在の墨田区、江東区、台東区などに大量の焼夷(しょうい)弾を無差別に投下した。
◆戦後世代語りべ「親・祖父母と話を」
戦争を知らない「語りべ」が、戦災を次世代へ伝える動きが広まりつつある。
親の体験を子どもが聞き取って証言集に投稿したり、自治体が語りべ養成事業を始めたり。
戦争体験者が高齢化し、年々難しくなる伝承活動を、戦後世代で受け継ぐためだ。 (小野沢健太)
一九八八年から毎夏、戦争体験の証言集「孫たちへの証言」を発行してきた新風書房(大阪市)は二〇一六年、体験者から聞いた話を載せる「伝承編」を証言集に新設した。
体験者から投稿される証言は減少傾向で、一三年からの二年間で半減してしまったためだ。
昨年の伝承編に掲載された千葉県船橋市の石川滋郎さん(63)は、一三年に八十九歳で亡くなった母幸子(ゆきこ)さんの話を書いた。
幸子さんは、戦争体験をあまり話さなかった。
「母がどんな人生を歩んだのか知りたくて、晩年は訪ねたときに昔話を聞いた。
やっと話せるようになったんだろう。詳しく明かしてくれた」と振り返る。
日本橋浜町の自宅で東京大空襲に遭遇。
一緒に逃げた家族とは途中ではぐれてしまった。
火の海で熱風が吹き荒れる中、女性におぶわれた赤ちゃんに火が付き、道端に多くの人が倒れていた。
逃げまどった末に自宅近くの浜町公園に避難し、翌朝に家族と再会できたという。
兄が終戦直後、戦地で自殺したことなど、初めて聞く話も。
それでも、言葉を濁した記憶がある。
石川さんが「ちょうちん行列に加わって応援したの」と聞いたとき、「皆、行ったよ」とポツリ。その先は口ごもってしまった。
「戦争はひどいけど、自分たちも加担してしまったという後ろめたさを抱えているようでした」。
その後ろめたさこそが長年、戦争を語れない理由だったのではないか。
でも、家族だから、いつか話せる時が来る。
石川さんは「まずは戦争を知る自分の親や祖父母に、話を聞いてみて」と語る。
戦後世代の「語りべ」を養成する取り組みは、原爆被害に遭った広島市が一二年度に始めた。
厚生労働省も昨年度から、戦争の記録を展示紹介する昭和館(東京都千代田区)など三施設で語りべの養成に乗り出し、計六十一人が受講し、研修を受けている。
こうした動きはまだ少なく、都内の区市では唯一、国立市が一四年度から養成に取り組んでいる。
一年三カ月をかけて市内在住の原爆被災者の体験を学び、現在は十五人が市内外で講話などの活動をしている。
今年三月に修了予定の二期生は、東京大空襲の被災者からも学び、東京の戦災も語り継ぐ予定だ。