損なわれる行政への信頼…
麻生財務相に透ける
「たかがセクハラ」
「たかが森友」意識の“罪”
2018.04.18 Business Journal
文=江川紹子/ジャーナリスト
どんな組織にでも、とんでもない人が出てしまうことはある。
そういう人が存在したからといって、軽々しくその組織が腐敗しているとは決めつけられない。
しかし、その人が当該組織のトップとなれば、話は別である。
財務省の福田淳一事務次官によるセクハラ疑惑と、それについての麻生太郎財務相の反応には唖然とさせられた。
いったい財務省はどうなっているのだろうか。
音声記録まで暴露され、与党内からも更迭を求める声が出たが、本人は辞任を拒否し、報道を否定して争う姿勢を発表した。
セクハラに対する反応の鈍さ
福田次官が女性記者を呼び出しては悪質なセクハラをくり返している、と報じる「週刊新潮」(新潮社)が発売になったのは、4月12日。
記事では、記者と同次官の具体的なやりとりを再現しているほか、複数のメディア関係者の証言が紹介されている。
たとえば、以下のようなやり取りだ。
「“彼氏はいるの?”と聞かれたので1年ほどつきあっている人がいると応えると、“どのくらいセックスしてるのか?”と聞かれ(以下略)」(大手紙記者)
「深夜によく電話があって、ネチネチ過去の男性のこととか聞かれて、トホホです」(テレビ局記者)
「“キスしていい?”は当たり前。
“ホテル行こう”って言われた女の記者だっている(中略)
“最近、どのくらい前に(セックスを)いたしたんですか?”とか口癖で(以下略)」(別の大手紙記者)
「セクハラしまくってる」「被害者の会ができるんじゃないですか」と財務省職員が語るほどの常習犯だったようだ。
これらがすべて事実なら、相当に悪質と言わなければならない。
ところが、同誌発売当日の麻生氏は、「きちんと緊張感を持って対応するようにと、訓戒を述べたということで十分」
「十分な反省もあった」として、処分はおろか、事実についての調査も行わないとした。
その翌日、「週刊新潮」が、女性記者に「抱きしめていい?」「胸触っていい?」「手縛っていい?」などとくり返す福田次官の音声を、ネットで公開した。
すると、麻生氏はようやく「あの種の話は、今の時代、セクハラと言われる対象」
「事実であれば、セクハラという意味ではアウト」と認めながらも、こう述べた。
「本人の長い実績を踏まえてみれば、能力に欠けるという判断をしているわけではありません。
今のところ処分等を考えているわけではありません」
セクハラとしては「アウト」でも、財務官僚としての「実績」や「能力」を考えれば、次官としては「セーフ」ということらしい。
そんな発言からは、「たかがセクハラではないか」という麻生氏の本音が透けて見える気がする。
担当記者からすれば、事務次官から呼ばれれば、駆けつけないわけにはいかない。
セクハラがあっても、仕事のうえで不利益があるかもしれないと考えれば、不快感をあらわにしたり抗議したりするのもはばかられ、耐えたりかわしたりしながら取材に努める。
「週刊新潮」が伝えたのは、そういう立場を利用した、卑劣で下品極まりない人権侵害にほかならない。
このような疑惑の人が、事務次官という責任ある立場にふさわしいのか。
すみやかに事実を調査の上、それを判断するのが、任命権者たる財務大臣の役割だろう。
そして各報道機関は、自社の記者が被害を受けていないかを調べ、あった場合にはそれを報じるべきだった。
記事に「#Me Too」のハッシュタグをつけ、メディアが続々と伝えれば、他のさまざまな組織で被害に遭っている女性たちへのエールになり、セクハラの被害者が声を挙げにくい風潮を変える力にもなる。
それにもかかわらず今回、そうした動きはなかった。
このようなメディアの反応の鈍さも、「たかがセクハラ」という受け止め方をする人たちがなかなか減らない一因だろう。
問われる麻生氏の責任
ところで、「週刊新潮」が音声を公開したケースは、森友学園への国有地売却において、財務省の公文書改ざんが問題になっている最中に起きている。
記事には、具体的な日時は書かれていないが、「佐川が辞めたあと証人喚問までの間にちゃんと床屋行ってた。それが話題になっている」という福田氏の言葉が紹介されており、音声データのほうには「予算通ったら浮気するか」という言葉も入っている。
佐川宣寿前国税庁長官の証人喚問が行われたのが3月27日、平成30年度の予算が参議院本会議で可決、成立したのが28日。それを合わせ考えれば、問題のやりとりがあったのは、佐川氏が「刑事訴追の恐れ」を盾に証言拒否を連発した27日の深夜ということになろう。
これに対し財務省は、「私は女性記者との間でこのようなやりとりをしたことはない」とする福田氏のコメントを発表。
同氏は、新潮社を相手取って損害賠償訴訟を起こす意向を示した。
そのコメントの中で、福田氏は「女性記者に対して、その相手が不快に感じるようなセクシャル・ハラスメントに該当する発言をしたという認識はない」とも述べている。
だが、セクハラに該当するかどうかを判断するのは、当該発言をした側ではない。
「不快」に感じたかどうかも、それは受けた側に聞いてみなければわからない。
セクハラにしろパワハラにしろ、加害者側にはまったく相手を傷つけている認識がないまま、さまざまなハラスメントを行っているケースはよくある。
また、福田氏は音声データの声が自分のものであることは否定していない。
「女性が接客しているお店」で「言葉遊びを楽しむことはある」などとしていて、風俗営業の店での会話であることをにおわせている。
仮にそうであったとすれば、官僚による決裁文書の改ざんという、あってはならない行為について、厳しい目が注がれている最中に、官僚のトップである福田氏が、女性の接待を伴う店で、一連の問題をネタにしながら、「おっぱい触っていい?」などと女性と「言葉遊び」に興じていたことになる。
このような当事者意識に欠けた態度は、これはこれで、同省に向けられた国民の不信を真摯に受け止めていないと言わざるをえない。
つまり、これが事実なら、「週刊新潮」は女性記者へのセクハラをつくり上げる必要もなく、その通りに書くのではないか。
名誉毀損があった場合のメディアへの損害賠償が高額化しているなか、「週刊新潮」がセクハラをでっち上げ、雑誌への信頼を失墜させるようなリスクの高いことを行う動機も考えつかない。
なお、「週刊新潮」編集部は「記事はすべて事実に基づいたものです」とのコメントを発表した。
いずれにしろ、こうした時期における福田氏の行状は、本人の人格や資質の問題であるだけでなく、麻生氏も責任を免れないのではないか。
それは、単に任命責任というにとどまらない。
麻生氏は、3月29日の参院財政金融委員会で、環太平洋経済連携協定(TPP11)が署名されたことについて「日本の新聞には1行も載っていなかった」と事実に反する決めつけを行い、「日本の新聞のレベルというのはこんなもん」「森友のほうがTPP11より重大だと考えているのが、日本の新聞のレベル」などと述べた。
その発言からは、天下国家の大きな話に比べれば、「たかが森友」は小さい課題にすぎないという同氏の認識が読み取れる。
問題を起こした当該官庁の責任者でありながら、平然とこのような発言をする。
大臣がこのような態度であれば、財務省職員をたばねる事務次官の当事者意識が、かくも希薄なのも不思議ではない。
「緊張感をもって」と訓戒を垂れる麻生大臣自身こそ、「たかが森友」意識から脱却して、緊張感をもってもらいたい。
本当に「たかがモリカケ」か
もっとも、「たかが森友」という認識でいるのは、麻生氏1人に限らない。
加計学園の獣医学部新設をめぐる問題を合わせて「モリカケ」と呼び、国会やメディアは「たかがモリカケ」より「もっと大事な問題」を扱うよう求める発言は、現政権を支持する層の人たちから、しばしば発せられる。
たとえば、ジャーナリストの櫻井よしこさんは、4月2日の『深層news』(BS日テレ)で、次のように語っている。
「今の国会を見ていると、いまだに森友問題をやっているわけでしょ。
もっと大事な問題があるということを、メディアの人も野党の人も考えて、一致団結してこの難局に当たろうという構えを見せないといけない」
ネット上でも、例えば元大蔵官僚の高橋洋一・嘉悦大教授は今月14日にツイッターで、こんな発言をしている。
「モリカケ。(中略)どっちも、あの時ああ言ったぞという話で、中身はない下らんなあ。
国際情勢が動いているのに国内でこんな下らんこと議論している暇はない」
「暇はない」と言いながら、両件に関する政権擁護の原稿を書いたりしゃべったりしているのはご愛敬と言うべきなのだろうか。
確かに、この問題には長い時間を費やしすぎていると、私も思う。
しかし、長引いている責任は、事実の解明を求める側ではなく、それに不誠実な対応をしてきた政府の側にあることを忘れてはならない。
よく刑事事件を引き合いに、「安倍首相夫妻の関与は何ひとつ証明されていない」として、追及を続ける野党やメディアを批判する人がいる。
埼玉大の長谷川三千子名誉教授もその1人だ。
4月16日付毎日新聞の中で、同氏はこう述べている。
「刑事裁判でいえば物証も証言も動機も不十分なのにメディアが騒ぎ、うんざりしている」
的外れのコメントとしか言いようがない。
刑事裁判では、被告人が有罪であることを合理的な疑いをさしはさむ余地がないまでに立証する責任は、検察側にある。
一方、行政の公正性、公平性が疑われている時に、正当性を説明する責任は政府の側にあるのだ。
しかも、その説明の拠り所になるべき公文書の保存や開示が適切になされていないどころか、改ざんまでしていたことが明らかになった。
国民が、後から政策の決定や執行過程を検証するプロセスがないがしろにされ、民主主義の土台が崩された。
このことを軽視してはならない。
そのうえ、行政の信頼性が損なわれているのは、この両件だけでなく、ほかにもいくつもの案件が明るみに出ている。
厚生労働省では裁量労働制に関する不適切なデータとその調査原票が隠蔽され、さらには裁量労働制を不正に適用されていた野村不動産の社員が自殺し、労災認定されていたことを隠していた。
自衛隊ではイラク派遣部隊の日報が隠され、大臣にも報告されていなかった。
与党政治家におもねる官僚の対応、事実の隠蔽、公文書の改ざん……。
公平性、公正性、適法性について曲がりなりにも国民が寄せていた行政への信頼は地に落ち、日本の民主主義はまさに底が抜けた状態に陥っている。
次々に明るみに出ている行政の不祥事は、それぞれ別のものであるが、同じ時期に多発したのは「たまたま」ではなく、そこに通底する問題があるのではないか。
それぞれの真相を解明する過程で、それを見つけ出さなければならない。
確かに、北朝鮮の核・ミサイル・拉致の3課題やトランプ米大統領が押し進めようとしている保護貿易主義、さらにはシリア内戦やイランを巡る問題など、海外情勢はどれをとっても深刻だ。
国内では、少子高齢化に伴うさまざまな症状が現れている。
「この難局」にあって、官僚は人事権を握る政権の顔色を窺い、あるいは組織のために、国民に嘘をつき、事実を隠し、物事の決定過程を記録した文書を改ざんする。
そうかと思えば、大臣に対しても事実を報告しない。
公正性や公平性は信頼できず、国会に出された文書や答弁も、どこまで信じていいかわからない。
果たしてこれで、「この難局」を乗り切れるのか。
地盤がグズグズになっている状況では、人は足を踏ん張ることができない。
それを考えれば、「この難局」を憂慮し、危機感を覚える人ならなおのこと、「たかが森友」「モリカケごとき」問題を速やかに終わらせるためにも、もっと誠実な対応をとるよう、政府・与党に働きかけるべきだろう。
メディアに文句を言っている場合ではない。
森友問題については、財務省の内部で調査が行われているというが、組織的な不正を行った疑いがある案件を、当該組織に調査させて、いったいどれだけ信頼に値するか、大いに疑問だ。
検察の捜査に期待していた向きもあるようだが、検察OBには当初から刑事事件としての立件については疑問視する声が多く、最近では「立件見送り」の報道も出ている。
以前にも書いたように、こうした問題は、捜査機関をあてにするのではなく、
国会に特別委員会を作り、公文書の改ざんなどは第三者委員会で事実を調査したうえで、必要な関係者を証人喚問するというかたちで、一つひとつ地道に事実を解明していくべきだ。
今回、検証とそれに基づいた対応をする機会を逸し、おざなりの「再発防止策」で終わりにすれば、問題の根は残ったままになる。
緩みきった地盤の表層をコンクリートで固めてみても、いずれは崩れ落ちて、大惨事となろう。
その弊害を、考えてもらいたい。
●江川紹子(えがわ・しょうこ)
東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。
著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。
江川紹子ジャーナル
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