2018年05月21日

麻生大臣が致命的な「問題発言」を繰り返す理由が分かった

麻生大臣が致命的な
「問題発言」を繰り返す
理由が分かった
圧倒的に欠如している2つの力
2018.5.16 現代ビジネス

原田 隆之 筑波大学教授

繰り返される問題発言
前財務次官のセクハラ問題を受けて、麻生財務大臣の発言がたびたび物議を醸している。
例えば、既に財務省がセクハラを認定した後になっても、
「(福田氏)本人が、ないと言っている以上、あるとはなかなか言えない」
「はめられた可能性は否定できない」
「セクハラ罪という罪はない」などと、平気で暴言を繰り返している。

発言の一部は、後になって撤回、謝罪したが、自民党のなかからも批判が噴出している。
また、問題発言の撤回や謝罪は、麻生大臣の「お家芸」のようなもので、これまで何度も繰り返しているのに、まったく過去の失敗から学んでいないようだ。

このような発言をするのは、当然、女性に対してのゆがんだ認識、ハラスメント行為や人権に対しての浅い認識があるからであって、そうした自分の問題を改めようという姿勢もないようだ。
事実、財務省で幹部対象に実施されたセクハラ研修にも大臣の姿はなかった。

発言内容を分析してみると… ここに挙げた問題発言を分析すると、いろいろな特徴が見えてくる。
まず、最初の2つの発言であるが、本人は福田氏を弁護するつもりで、あるいは多様な見方があることを示すつもりでの発言だったのかもしれず、本人なりにいろいろと考えてはいるのだろう。
しかし、そこに決定的に欠如しているものがある。
それは、「共感性」である。
共感性とは、他者の感情を思いやって、それを共有する能力のことをいう。
こんなことを言えば、聞いている人は何を思い、どう感じるのか、とりわけ被害者はどう感じるのか、こうしたことに思いを馳せることのできる能力のことだ。
この能力があれば、あのような暴言は出てこないだろう。

一方、これらの発言を聞いて、不快に思ったり批判をしたりしている多くの人々は、共感性が働いたからこそ、自分とは直接関係がなくても、その発言内容のあまりの酷さに唖然とするのである。
そして当人は、そのことを周囲から批判されても、まったく理解していないかのような顔つきである。
だから、同じ過ちを繰り返すのであるが、いくら言葉で伝えても、心に響いていない様子である。
まさに、右から入って左へと抜けているような有様である。

「セクハラ罪はない」発言
さらに、「セクハラ罪はない」という発言であるが、その後しぶしぶ謝罪したものの、当初は批判を受けても、本人は「事実を述べただけ」と強弁を続けていた。
ここにも共感性の欠如は如実に現れている
たしかに事実を述べただけかもしれないが、それに対して受け取った人がどう感じるかという視点がまったく抜け落ちているのである。

当たり前のことだが、事実であれば何を言ってもいいわけではない。
そこには、共感性欠如に加えて、未熟な幼児性とも言える問題が指摘できる。
子どもは、平気で相手の身体的欠陥をあげつらって笑いものにしたり、「言っていいこと」と「悪いこと」の区別がつかず、人前で口にすべきでない言葉を大声で述べて、親をハラハラさせたりする。

例えば、小学生が「ウンコ」などと言って大笑いしている姿は、いつの時代にも見られる幼稚な言動である。
しかし、成長につれて、親のしつけが内面化され社会化が進み、周りの反応などを敏感に察知する能力も身につけて、こうした発言がなくなっていく。
これが、大人が身につける分別であり、良識というものだ。
大人が人前で「ウンコ」と言ってみろと言われたら、不安や羞恥心を抱くだろう。

現に、この原稿を書いている私もそのような気持ちを感じながら書いている。
「事実を述べただけ」と開き直って強弁する姿には、「嘘じゃないもん。だって本当なんだもん」などと言って、親の言うことをきかない未熟な子どもの姿を重ねてしまう。
ハラハラして不快になっているのは周囲のみで、本人はそれを感じていないのだ。

共感性とは何か
では、共感性について詳しくみていきたい。
先に簡単に定義したように、一言で言えば他者の心情を思いやる力のことを共感性という。
しかし、共感性には2種類あり、この区別は重要だ。

1つは、「認知的共感性」である。
これは、相手の気持ちを頭で理解することのできる能力を言う。
よく国語の問題などで、「この主人公はどのように感じていたでしょうか」などと問われることがあるが、これは認知的共感性を育むための教育である。
つまりこれは、言葉、表情、しぐさなどから、相手の気持ちを推論する能力である。
心理学では「こころの理論」とも呼ばれており、自閉症児などではこの能力に問題があるケースがあるが、教育や治療によって育てることが可能である。
いわゆる「忖度」もこのタイプの共感性である。

もう1つは、「情緒的共感性」である。
これは、相手の心情を頭で理解するだけではなく、それを追体験し、同じように感じ取る能力のことである。
ドラマを観て、登場人物に自分を重ねて感動したり、事件事故の被害者に思いを馳せて涙を流したりするのも、情緒的共感性ゆえのことである。
情緒的共感性の働きは、社会生活や対人関係においてきわめて重要である。
この能力があるからこそ、いたずらに他人を傷つけることなく、円滑な関係を発展、維持することができる。
また、誰かが困っているときには心の支えになったり、話を聞いて共に悩んだり、喜んだりすることもできる。

麻生大臣のこれまでの発言や、批判に対する対応などを見るとき、これらの双方が欠如していると言わざるを得ない。

 なぜ共感性が欠如しているのか
さて、ここからは一般論であるが、共感性の欠如はなぜ生じるのだろうか。
まず、認知的共感性であるが、これは成長とともに、親のしつけや教育、友人関係などのなかで「学習」していくものだ。
これが、「理性的な関所」となって、自分の発言をチェックするように働く。
しかし、イスラエルの心理学者でノーベル賞受賞者のダニエル・カーネマンが言うように、その働きは、咄嗟のときや、疲労、アルコールなどの影響下では減退しやすい。
こうしたときに、失言が出やすくなる。

また、そもそもこのようなしつけや教育がなされていないケースもある。
親が放任していた場合や、無神経な発言をしてもそれが許される環境で育ったような場合も、認知的共感性は育たないだろう。
そのような人は、自分本位の一方的な物の見方しかできず、常に強者の立場で、強者の論理に立った言動を取りがちである。

「理性的な関所」、すなわち認知的共感性は、脳の中の前頭前野と呼ばれる部位にその座があり、ここに障害や機能不全であったりする場合、十分に作用しないことが考えられる。

そして、もう1つの情緒的共感性であるが、これに関連する部位は、前頭前野の下部に位置する眼窩部と呼ばれる皮質である。
ここは「温かい脳」とも呼ばれ、良心や感情に関連した働きをする。
さらに、脳のもっと奥にある大脳辺縁系と呼ばれる部位に位置する扁桃体という小さな構造物も、情動の調節をする機能がある。
これらの部位に何らかの異常や機能不全があったとき、温かい人間的な感情の発露が見られなくなる。
言葉は理解しても、心に響かないというのは、こうした異常を反映している。

共感性が育つしくみ
子どもが誰かを傷つける言動をした場合、親や教師から叱責を受ける。
また、友達仲間から非難されたり、相手に泣かれたりすることもある。
こうした場合、本人は少なからず動揺する。
また、強く叱責されると、心臓の鼓動が高まり、大きな恐怖や不安を抱く。
このように、自分の言動によって、ネガティブな結果が伴うと、以後、その言動を慎むようになる。
これが、基本的な人間行動の原理であり、「学習」と呼ばれるプロセスである。

つまり、失敗から学んで思慮分別のある大人になっていく。
このプロセスで重要なことは、不適切な言動は、心拍の増加や不安感情などとペアになって学習されるということである。
たがって、そのあと、同様の言動が頭に浮かんだとき、心拍が増加し、不安を抱くので、それが行動のブレーキとなる。
つまり、それが「感情的な関所」として働くようになる。

われわれが、他人を傷つける言動を慎むのは、頭で「いけない」とわかっているからという理由(理性的な関所)もあるが、そのような言動をすることに対する不快感や不安のような感情が作動するから(情緒的な関所)でもある。
かつて、われわれの正しい判断には、理性的で冷静な脳の働きが重要で、感情はそれらの邪魔をするものだととらえられていた。
しかし、ポルトガルの神経科学者アントニオ・ダマシオは、人間の行動には、「感情に基づく判断」も重要な役割を果たすと考え、これを「ソマティック・マーカー(生理的信号)仮説」と呼んだ。
われわれが、他人を傷つけるような言動に出ようとしたとき、不安や心拍亢進のような生理的信号が生起し、それがブレーキとなる。
しかし、前述の眼窩部や扁桃体、あるいは心拍などを調節する自律神経系の機能異常がある場合は、これらが適切に働かない。
すると、何のためらいもなく、無配慮で相手を平然と傷つける言動を繰り返すことになる。
これは、うっかりによる「失言」とは質が違う。
そして、そのことで失敗をしたり、周りから誹りを受けたりしても、感情的な動きが伴わないので、学習できずに、同じことを懲りもせずに繰り返してしまう。
つまり、このタイプは失敗から学べないので、治らない。

ハラスメントに対抗するために
これからの「正義」について
プラトンにしても、アリストテレスにしても、正義を理性の問題としてとらえていた。
しかし、繰り返される不正義のなかには、感情の不全による問題が大きいことがわかってきた。
あらためて、正義とは、単に理性の問題ではなく、感情の問題でもある。

ハーバード大学の政治哲学者マイケル・サンデルは、その著『これからの「正義」の話をしよう』の中で、
「民主的な社会での暮らしのなかには、善と悪、正義と不正義をめぐる意見の対立が満ち満ちている」と述べ、
「では、正義と不正義、平等と不平等、個人の権利と公共の利益が対立する領域で、進むべき道を見つけ出すにはどうすればいいのだろうか」と問いかける。

そしてその解決として、まず自らの正義に関する見解を批判的に検討すべきであることを提唱する。
さらに、従来の理性的な正義感ではなく、「美徳」を涵養することと「共通善」について判断すること重要性を説く。
これは、私なりに解釈すると、正義に対する感情を育てること、個々の相違や不一致を受け入れることのできる共感性を育むことと言い換えることができる。

しかし、既に述べたように、理性的な共感性や正義感を育むことには、教育はある程度の成功を収めてきたが、情緒的共感性や「感情的正義感」については、まだ議論が始まったばかりである。
さらに、現時点の神経科学による見通しは、悲観的である。

とはいえ、繰り返されるハラスメントや無神経発言に対抗するために、これからの「正義」の話をするとき、感情的正義感」という概念は、間違いなく重要なキーワードになってくるだろう。
さて、麻生大臣であるが、5月14日には国会でセクハラ問題に関して、初めて被害女性に陳謝した。
続いて、15日には閣議後の記者会見で「大臣としてセクハラを認定した」旨発言した。

これが世論の反発を受けての、しぶしぶの発言なのか、それとも情緒的共感性や感情的正義感に基づく真摯な発言なのか、今後の言動に注目していきたいものである。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☁ | Comment(2) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする