2018年06月18日

明治維新150年でふり返る近代日本(2) 

保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(2) 
「奴隷解放宣言」で
実現できたはずの「道義国家」
2018/6/ 3 12 J-CASTニュース

開国をめざした日本に、<歴史>は四つの国家像を示していたというのが、私の見立てなのだが、その第一が、つまりは現実に史実として私たちの前にあらわれている近代日本史である。
後発の帝国主義的国家であったわけだが、この選択が正しかったか否かなどは論じたとて意味はない。
幕末から開国への道筋をみれば、指導層を形成した薩摩や長州の士族たちは、この選択しかなかったであろう。
なかんずく開国を要求する欧米の帝国主義国と武力衝突を避けて和親の方向で、国際社会に出ていこうとしていたわけだから、先進帝国主義から思想、哲学、政治制度を真似することにより一等国を目ざしたのはわからないわけではない。
富国強兵はまさにその心理から生みだされた語であった。

輸送船に乗っていた清国人奴隷を解放
明治4年11月に岩倉使節団の名のもとに、全権大使岩倉具視、副使木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら48人と留学生を交えての100名を超える一行は、アメリカやヨーロッパを見て回り、近代国家の現実社会を確認してきた。
600日を超える日程で、日本の新政府の指導者たちが理解したのは、日本が目ざす国家像はまさに欧米に負けないほどの大国になることだった。
私のいう第一の道は、まさにそれを現実化したのである。

しかしその一方で、第二の道(帝国主義的国家の選択は同じだが、植民地解放や被圧迫民族の側に立つ道義国家)の選択はありえたのだろうか。
私はありえたと思う。

一例をあげれば明治5年の「マリア・ルス号」事件をあげればわかりやすいだろう。このルス号は、ペルー船籍の輸送船で、中国人(そのころは清国人)231人を奴隷として買い、それぞれの買い主に送り届けようとしていた。
ところが台風にあい、横浜港に退避してきた。
そのうちの一人がこの船から脱出して、イギリス公使館に逃げこんだのである。
イギリス公使ハリ・B・バークスはこの脱出事件を日本政府にとりついだ。
すると外交を担っていた副島種臣は、奴隷を解放しなければ横浜から出港させないと命じる。
ペルー船の抗議にも委細かまわず、清国人奴隷は解放され、清国に帰された。
この件は国際的にも問題になり、ペルーと日本が仲裁を依頼した形で明治6年にロシアのサンペテルブルグで国際仲裁裁判が行われる。
日本の言い方は認められたが、ペルーの側に立ったイギリス人弁護士は、「日本にも人身売買はあるではないか」と発言している。
これはどのことを指すのだろうと考えたあげくに、日本政府は娼妓の前借金をさすと判断して娼妓解放令を発している。

道義国家なら
「征韓論」「征台決行」どうなった
このころの日本には、奴隷を認めないとするこのような真面目さがあった。
私がいう道義国家とは、こうした処置の折に国際社会にむけて「奴隷解放宣言」を発する度量をもつことだった。
こういう声明を発表していたら、このころ起こっていた征韓論、実際に踏み切った征台決行なども国際社会の枠組みの中で議論されることになり、開国日本の進路も異なったのではないかと思われるのだ。

第三の道(自由民権を柱にした国民国家像)では、明治6年の征韓論に敗れて下野した板垣退助、江藤新平、副島種臣、西郷隆盛らの中から板垣のように国会開設を求める民権論者が出てきて、明治10年代は自由民権運動が全国に広がっている。
当初は板垣の組織する愛国社などが中心になるが、明治13年ごろには全国の民権論者を集めて国会開設の運動が起き、自由民権運動は燎原の火のように広まっていく。

政府側で軍をにぎる山県有朋は、この運動が軍内にはいってくるのを恐れ、「軍人勅諭」(明治15年)を布告している。
軍人は政治に関与してはならないというのであった。
一方で政府側は集会条例を制定し、反政府運動に強い威圧をかけている。
明治10年代初期には、名古屋事件、大阪事件のように民権論者の起こす暴動は、一歩間違えると内乱に転化するような激しさがあった。

自由民権運動のなかでは、土佐の植木枝盛などがまとめた憲法草案は、軍事、外交に天皇の権威を認める一方で、国民の基本的権利にも言及していて、きわめて民主的な内容を伴っていた。
江戸時代のような連邦制国家になっていれば もし民権国家が完成していたら、天皇と国民の関係について大日本帝国憲法とは異なる体系をもつ国家になっていたことが想像される。
私は明治初期の自由民権運動そのものが近代日本の現実の史実にはあらわれてこないにせよ、地下水脈として続いていたのではないかと考えている。
それが大日本帝国解体後の現在の憲法の幾つかの部分に具体的に反映しているのではないかとも思う。

そして第四の道である。これは江戸時代の国家像をもとに独自の連邦制国家としての道である。明治4年7月に西郷隆盛が主導権をにぎる形で廃藩置県の勅令が発せられる。新政府は全国統一のためにこの処置はやむをえないとしても、この廃藩置県は、全国の旧藩士たちの生活を根底からくつがえすことであり、不平士族の反乱がそれこそ全国化することもありえた。それを予想したのか、新政府はまさに抜き打ちで行った。 西郷や大久保利通が主導権をとっての政策と知って、薩摩藩の最高指導者だった島津久光は、激高したともいわれている。

この廃藩置県が不平士族の反乱に結びつくわけだが、つまりは新政府の軍事力そのものが各藩の行動を抑えることにもなった。
ただここで考えておかなければならない「歴史的視点」についてである。
それは江戸時代の270年近く、日本はまったく対外戦争を行っていない。
国内にあっても内乱の類はない。
その結果どうなったか。
本来戦うべき要員の武士階級(国民の1.2%だから35万人ほどになる)は、戦うべき武術の訓練を、人格陶冶の手段に変えてしまった。
つまり武術を文化に変えたのである。きわめて抑制された民族国家をつくりあげたといってもいいだろう。

かといってそれぞれの藩は、戦(いくさ)に備えて何もしなかったわけではない。
情報戦、武器の隠匿、さらには戦術の研究を続けている。

私は、明治維新時に250藩余の藩のうち大藩である30藩ほどを軸にし連邦制国家をつくるべきだったと思う。
江戸時代自体が、連邦制国家のようなものだったからである。この点は改めて緻密に吟味しなければならない。
四つの国家像をさらに新しい視点で検証を続けていこう。
(第3回につづく)
posted by 小だぬき at 08:18| 神奈川 ☔| Comment(2) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

明治維新150年のいま、保阪正康がふり返る近代日本

明治維新150年でふり返る近代日本(1) 
「四つの国家像」、
どれを選ぶべきだったか
2018/6/ 2   J-CASTニュース

1868年の明治改元から150年を迎える2018年、この150年を捉え直そうという動きが相次いでいます。
J-CASTニュースでは、ノンフィクション作家の保阪正康さんによるネット初の連載、「不可視の視点」を始めます。

幕末から明治維新にかけて、日本には四つの国家像がありえたと説く保阪さん。
歴史にあえて「イフ(if)」を持ち込むことで、多様な角度から明治150年を読み解きます。
今年(2018年)は、明治維新から150年である。
政府関連の行事もあるようだが、私たちはいま官製の視点とはまったく異なった見方で近代日本をふり返ってみることが必要であろう。

私たちは、この150年をどのような枠組で時代区分をするか、あるいはどういう見方で全体像を俯瞰するか、多様な見方で捉え直してみるべきではないか、と思う。

単純な見方をするならば、
大日本帝国下の軍事主導体制の77年と、
太平洋戦争の敗戦による戦後民主主義体制の73年とに二分されているという解釈があるだろう。

あるいはドラマツルギーの手法を用いることになるが、
<起承転結>といった時代区分もある。

明治天皇の時代を<起>に、
大正天皇の期を<承>、
昭和天皇の波乱の時代を<転>とし、
平成の天皇は<結>の役割を果たしたとの見方である。

150年を「起承転結」で読み解く いやこの150年をアメリカを軸にしてみるならどうなるだろうか。
私の見立てでは、
明治元年から明治38年の日露戦争終結期までが、<>となるように思う。日露戦争は、アメリカが仲介役となってくれたがゆえに、日本は勝利を得ることができたのだ。
日露戦争終結から昭和15年(1940)までが、<>ではないか。
この間は、日本とアメリカの関係が次第に悪化していくのである。昭和12年の日中戦争以後、そして日本がドイツ、イタリアとの三国同盟に傾斜していくとその関係は修復困難な方向に向かって進んでいく。
そして昭和16年から、昭和27年4月28日までが、<転>ではないか。
日本は対米戦争に入り、3年8カ月の戦いによって徹底的に壊滅させられていく。
その敗戦によって、アメリカを中心とする連合国に占領支配を受け、いわゆる戦後民主主義(アメリカン・デモクラシー)の政体を示唆されることになる。
<結>というのは、講和条約によって独立を回復してから現在までとなるのだが、この時代区分を改めて見ていくと、私たちの国は、アメリカにより鎖国を解き、アメリカの助力で国威を発揚し、やがて対立し、軍事による近代化の限界を知らされ、その後はおとなしく同盟下にあるといっていいのではないか、と考えたくなる。

アメリカを軸にして、明治維新150年をふり返ったときに、
<転>の期の出来事がアメリカと日本の関係をよく示しているように思う。 ミズーリ号に持ち込まれた星条旗の意味 昭和20年(1945)9月2日、東京湾上に停泊するミズーリ号上で、日本は連合国に対して無条件降伏の文書に調印する。このとき連合軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥は、その調印式の船上にペルーリが浦賀に来て国交を開くよう要求したときの戦艦に掲げてあった星条旗の旗を額に入れて、これ見よがしに日本代表団に示した。
この旗は長年航海に用いられていたので、すでに四方形の形はなしてなく、単なる紐のようになっていたそうだ。
この額を通じて、マッカーサー、あるいはアメリカの指導者は何を言わんとしたのか。
私は次のように思う。
「日本の指導者よ。おまえたちは何を考えているのか。
270年近くの鎖国を解き、国際社会に復帰する手助けをし、ロシアとの戦争では本来勝つはずのない日本に多くの利益を与えたではないか。
それを忘れてはいまいな
。これからも忘れてはならない」

そう思えば、マッカーサーの占領政策のアメとムチの意味がわかってくる。
明治維新からの150年を、何を軸に時代区分するかは、私たちに改めて歴史の教訓を与えてくれるはずである。
この軸には、たとえば中国を用いてもいいし、民権思想という考え方を据えてもかまわない。
歴史をふり変えるときの重要な視点になりうるのではないかとの思いがする。
さてこういう時代区分について考えてみるのとは別に、もうひとつ別の発想でこの150年を捉え直す手法もある。

もとよりこれは私の考え方であり、一般的に用いられている手法ではない。
私は、歴史をアカデミズムの例に閉じ込めておくことは、私たちの先達の生きた本当の姿は捉えられないと考えている。
いわば在野の見方の側に立って近代日本史を見てみたい。

幕末から明治維新にかけて、日本は選択しうる国家像は四つの像があったのではないかと私は考える。
むろんこれは歴史の中に「イフ(if)」を持ちこむのだから、邪道だとの批判もあろう。
しかし歴史を現実に存在した史実だけで捉えるのではなく、「イフ」を持ちこむことで、私たちの国の歴史がどこで誤ったか、どこで錯覚しておかしくなったのかがわかってくる。

私が考える四つの国家像というのは、次のような姿である。
(1)後発の帝国主義国としての道(現実に選択した道である)
(2)植民地解放、被圧迫民族の側に立った帝国主義的道義国家
(3)自由民権を国の柱に据えた国民国家
(4)江戸時代の国家像を土台に独自の連邦制国家 この四つの国家像を想定して、明治維新からの150年を見ていくと、私たちの国は近代そのものを誤って捉えていたのではないかと気づいてくる。(第2回に続く)

保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。
ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。
『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』
『あの戦争は何だったのか』
『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、
「昭和史の大河を往く」シリーズなど著書多数。
2004年に菊池寛賞受賞。
posted by 小だぬき at 00:00| 神奈川 ☁| Comment(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする