2018年06月19日

明治維新150年でふり返る近代日本(5)

保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(5)
弱者の側に立つ
「帝国主義的道義国家」(その1)
2018/6/16 J-CASTニュース

近代日本が選択すべき国家像は、現実の帝国主義国家(後発)のほかにも幾つかの道があったというのが、このシリーズの立脚点である。
ほかにどういう道があったか、この問いに私は三つの像が考えられると書いた(第1回)。
それらの像のほかにも考えられるだろうが、私はあえて三つに絞って、近代日本のもうひとつの側面を考えていきたいのだ。

三つの国の姿をそれぞれエッセイ風に書いていくが、そのひとつが、
「植民地解放、被圧迫民族の側に立った帝国主義的道義国家」である。

辛亥革命に協力した
         志士たちの実像
この系譜に列なる思想家や政治家などを具体的に捉えてみることで、道義国家確立の方向性を考えてみたい。
もともとこの色彩は、大正時代の国家主義運動に濃くあらわれるのだが、明治期でいえば国権派に転じていく徳富蘇峰のほか陸羯南、三宅雪嶺などの思想を細部にわたってみていくと、そのような傾向が窺えてくる。
しかし、私はあえて孫文の辛亥革命に協力した志士たちの姿にその色合の濃さを見るのである。
辛亥革命に協力した日本人には、さまざまなタイプがいる。
頭山満の玄洋社関係の人びと、宮崎民蔵、寅蔵(滔天)兄弟、山田良政、純三郎兄弟のほか政治家、実業家、軍人、それに言論人など挙げていけば次々に名がある。

私は山田良政に関心をもって調べたことがあるのだが、山田は幼少期から陸羯南と親しく、かなり影響を受けている。
明治31年に中国にわたり、中国内部の情報を探る役を担ったりする。
南京同文書院での教員という職を得て中国に赴き、孫文の革命運動を支援する役を引き受けている。
山田は孫文の革命思想(三民主義、五権憲法)に魅かれると同時に、清朝帝制が先進帝国主義の餌食になっている状態を怒り、孫文がその打破を目ざす革命家であることで支援の姿勢を崩さない。

孫文とその同志の蜂起は、1900年の恵州起義を第1回とし、それから10回の蜂起をくり返す。
そして辛亥革命は1911年にやっと成功するのである。
山田はその第1回の起義のとき、孫文の密命を帯びて恵州の蜂起グループとの連絡役を務めている。
その折りに政府軍につかまり、殺害されている。
政府軍の将校は、「お前日本人ではないか。それを認めるなら解放する」と言っているのに、「いや自分は中国人である」と革命グループの一員であることを主張しつづけ、死を選んだ。
このとき山田は32歳であった。

立脚点は「反西欧帝国主義」
山田良政の弟純三郎も東亜同文書院を卒業してからは、満鉄に職を得るのだが、孫文を支援して、辛亥革命を助けている。
1910年代終わりには孫文の秘書となり、晩年の孫文を常に補佐している。
1915年に、上海の山田純三郎宅を、袁世凱政府では革命の純潔性が保てないと孫文の右腕である陳果夫らの第二次革命派の打ち合わせ場所として提供していた。

そこに袁政府の刺客が襲い、陳果夫は暗殺されている。
純三郎の娘(3歳)は頭から床に落ち、生涯障害者であった。
こうした山田兄弟の思想、そして書き残した記録を見ていくと、いわゆる抑圧されている人びとをたすけるための運動は、帝国主義という枠内にありながら、それを越えていく強さをもっていることがわかる。
山田のような例は、宮崎滔天とその兄の民蔵を見ても植民地解放運動のために財産をつかい、自らの知識と行動力を提供し、そしてその政治思想を現実にするために命さえもささげたといっていいだろう。

とくに宮崎滔天は、その著(『三十三年の夢』)を見てもわかるとおり、孫文の革命思想をベトナムやインドシナに広げるべく動いてもいる。

帝国主義的道義国家というのは、とくに定義するまでもないが、基本的には先進帝国主義と同質の国家体制をもちながら、その政策の立脚点は反西欧帝国主義という旗を掲げることである。
日本国内に山田兄弟や宮崎兄弟のような思想と行動を原点とする政治勢力が存在したならば、現実には後発の帝国主義国家像と一線を引けたはずである。
それを牽引する政治家(原敬や犬養毅などがそのタイプになりえたのだが)は、テロにあっているということは逆説的に帝国主義の硬軟の道筋がある地点で分岐点になってしまう運命だったといえるのかもしれない。(第6回に続く)
posted by 小だぬき at 11:29 | 神奈川 ☁ | Comment(2) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

帝国主義的「国家像」と「国民像」(その2)

保阪正康の「不可視の視点」 
明治維新150年でふり返る近代日本(4) 
帝国主義的「国家像」と「国民像」(その2)
2018/6/10 11:45 J-CASTニュース

もともとの日本人の国民的性格とはどのようなものだったか。
その性格が、明治150年の出発の地点でどのように変わるよう新政府によって要求されたのか。
そのことを今回は見つめていきたい。

明治150年論を多様な視点で、とくに歴史年譜のうえでは不可視の部分では、どのような姿や形が問われていたのか。
そのことを見ていくために、日本人の国民的性格を確かめていくのは欠かせない。

幕末〜維新の外国人の日本人論は
「きわめてまっとう」
幕末から維新にかけて、そして明治に入ってからも、日本には外交官、事業家、宣教師、それに各教育関連機関の教師としてのお雇い外国人が次々にやってきた。
総体的に知識人であったから、彼らののこした日本人論はきわめてまっとうであり、その分析もかなり当たっているように思う。
私は彼らの見方に一定の信頼を置くのだが、それを江戸期に培われてきた日本人の国民的性格とみてまちがいないように思うのである。

16世紀に日本を訪れた宣教師のフランシスコ・ザビエルは、
日本人の特性として「名誉心が強い。道理に従う。知識を求める。礼儀正しい。善良である。貧は恥ではない。和歌を作る。上下の序列、武士の高位」(『「日本人論」の中の日本人』、築島謙三)を挙げている。

幕末、維新時に日本を訪れた外国人たちもこのザビエルと同じような印象を書きのこしている。
ということは3世紀近くを経ても日本人の国民的性格はそれほど大きな変化をとげていないことになる。
17世紀に日本を訪れ、徳川家康の外交顧問といった形になるウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)は、「礼儀正しく、性質温良、勇敢、法は厳しく守られ、上長者には従順である」と書いている。

全体に日本人は、子供はめったにぶたないし、よくかわいがると言い、子供の側は親に対して、従順であり、家族という形態の秩序がよりバランスよく保たれている、と理解していたようである。

対外戦争ない3世紀は
「武に対して『冷めた目』」
開国した日本にやってきたイギリスのベテラン外交官オールコックは冷静に日本人の性格を見つめている。

彼は日本語を学び、そして日本人の生活を理解する。
そこには「政府の政策により国民は疑い深い。
侍役人はウソをつき、ほかの侍および庶民は礼儀正しく善良である。
低階層の人にも奴隷感情はない。
固苦しいまでの形式主義。したがって人への気遣いが強く、敬語の使用が厄介である。
国民・国家への誇りが強い。
子供は<自然の子>といってよいほど奔放に遊ばせる。
日本は子供の楽園である」といったことが書いている。

こうしてみてくると、この16世紀から19世紀まで、日本人の性格は、道理に従い、名誉心を重んじ、礼儀正しく、好奇心も強い、しかし上下の身分差があり、集団主義的であるといった性格を持ち続けていたことになるのではないか。とくにこの3世紀は、対外戦争を体験していないために、武に対しては冷めた目を持ち、武術にむかう精神とエネルギーを人格陶冶の手段に変えていく理性や知性を持っていたといえるのではないか。

帝国主義国家には
「良質の国民性」が邪魔になる
このような日本人の性格には、むろん近代という視点(つまり明治維新後の国家像という枠組みのもとでは)から見れば、プラスとマイナスを抱えこんでいるといっていいであろう。
16世紀からの世界史では、先進帝国主義国により弱小国は、収奪・抑圧・暴力などの対象となった。
日本はその埒外にいることによって、このような加害国・被害国の図式とは一線を引く国家であった。
そこで生まれた日本人の性格は、人類史の上ではきわめて先見性をもっていたことになることがわかってくる。

ところが後発の帝国主義国家として、国際社会に出ていくことになった日本は、こうした良質の国民性(道理に従う、礼儀正しい、名誉心を尊ぶなど)は、むしろ邪魔になる。
逆に上下の身分差を容認し、個人より集団主義を尊ぶといった性格は、帝国主義国民像としてもっとも強調され、美徳となったのではないか。

この歪みを私たちは今、冷静に見ていくことで明治維新150年という尺度の功罪を論じられるのではないかと思う。
私はこの国民的性格をもとに、他の三つの国家像を考えていくべきだと思う。
そこには歴史を舞台にしての知的想像力を試すという意味も含まれる。
(この項終わり。第5回に続く)
posted by 小だぬき at 08:00 | 神奈川 ☔ | Comment(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

帝国主義的「国家像」と「国民像」

保阪正康の「不可視の視点」 
明治維新150年でふり返る近代日本(3) 
帝国主義的「国家像」と「国民像」(その1)
2018/6/ 9 J-CASTニュース

幕末、維新、そして明治新政府のもとで、日本が選択すべき国家像として四つの国の形があった。

そのうちの第一の道、つまり後発の帝国主義国としての道を日本は選択することになった、というのがこれまで記してきた内容である。
この道は独自の国民像を必要とする。

今回はこの国民像は、もともとの日本人の国民的性格と合致していたのか否か、を検証してみたい。
「富国強兵」「脱亜入欧」「殖産興業」で求められる国民性とは 帝国主義国としての道を選ぶまでの明治期の日本は、20年近くの時間を要している。
明治初年代は各地の不平士族の反乱や西南戦争に象徴されるように、国家像のありようをめぐって内乱まがいの蜂起が起こっている。

明治10年代には、板垣退助らによる自由民権運動の波が全国に及んでいる。
つまり帝国主義国家としての政治体制は、このような反乱や反政府運動をとにかく弾圧し終えてから、伊藤博文らによる新しい憲法制定の動きが軌道に乗っていくことでやっと形をつくっていく。

このときまでの20年間近くの間に、四つの国家像のいずれかを選択することが可能だったというのが私の説になるわけだが、後発の帝国主義像を具体化するために「富国強兵」「脱亜入欧」「殖産興業」などの方向を新政府は目ざしていくことになる。
こうした方向で求められる国民像とはどんなものだったか。
つまり国民の価値観にはどのようなものが要求されることになるのか。
これはすぐに推測できる。

急速に西欧帝国主義に追いつくには、次のような徳目が必要とされるはずである。
第一は立身出世主義。学歴などにより個人の能力を測り、そこに序列を持ちこむ。
第二に文化的な価値観や知識より軍事を尊ぶ。良き日本人は武にすぐれた人びととする。
第三に個を抹殺し、エリートに指導される集団の一員としての自覚。
第四に勤労を尊び、とにかく真面目に働き続けて共同体の範になる。
第五は君主制に対しての絶対的服従。天皇を家長とする家庭的共同体の枠組みに常にとどまる。

教育、暴力、監視の「三つの枠組」
こうした五つの国民的性格は、帝国主義の後発国としてもっとも望ましいとされることになった。
しかし幕末に至るまでの農民一揆、蘭学者たちの国際的視野、そして明治に入っての民権の発想と行動は、こうした国民像とは相入れない。
そこで新政府は、
教育(国家主義的教育内容)と
暴力(反政府分子を取り締まる治安立法など)、
そして監視(国民相互を監視させる。町内会、青年会などがそうであろう)の三つの枠組をつくって、帝国主義的国家の国民像をつくりあげていくことになった。

これは明治20年代から強まっていくことになるのだが、明治13年に太政官布告としてだされた集会条例のように暴力としての弾圧装置は早い時期から実施されている。
逆に明治37年の第一次国定教科書により、教育などは大日本帝国の憲法発布からしばらく時間を置いて行われたケースもある。
しかし明治維新150年をふり返るとき、この帝国主義的国家の人間像は、しだいに軍事に利用されていき、そして昭和のファナティックなファシズムの折には、社会的病理的現象まで生むことになった。

昭和10年代の太平洋戦争時の兵士たちへの死の強制や一切の「近代」を拒否しての呪術的戦争プロパガンダは、帝国主義的国家の国民像の辿りついた地点であった。

特攻作戦の背景に見え隠れしている陸海軍指導部の戦争観は、帝国主義戦争の悪しき思想の実践として強要された。
むろん個々の特攻隊員に対して、私はこの国の国民的性格の忠実な実践者としての側面があるから、指導部への批判とは別の見方をしているので、軽々な責め方はしない。
帝国主義的国家の選択、そこで理想とされる国民像(前述の五条件を指すわけだが)、これは本来の日本人の国民的性格とはまったくかけはなれていた――それを私は、明治150年のいま、明確にしてゆかなければならないと思う。(第4回に続く)
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☔ | Comment(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする