2018年10月30日

安田純平バッシングの背景 不気味に甦る教育勅語と戦陣訓

安田純平バッシングの背景
不気味に甦る
教育勅語と戦陣訓
2018/10/29 日刊ゲンダイ

 心ある国民はウンザリしているはずだ。
また、不当な「自己責任論」が噴出しているからだ。
 シリアで武装勢力に拘束されていたフリージャーナリストの安田純平さん(44)に対し、凄まじいバッシングが起きている。
 解放が伝えられた先週23日夜から、安田さんのツイッターのアカウントには、非難、批判、悪口が次々に書き込まれている。
「どれだけ国に迷惑をかけたのか」
「日本政府の言うこと聞けないなら外国に行かないでくれ」
「国民に謝れ。土下座でわびろ」
 待ち構えていたようにバッシングしているが、一体どういうつもりで悪口を書き連ねているのだろうか。

 安田さんは、いつ命を奪われてもおかしくない過酷な生活を3年4カ月も強いられ、命からがら帰国したのだ。
しかも、夫人を通じて「大変お騒がせとご心配をおかけしました。
おかげさまで無事帰国することができました。
可能な限りの説明をする責任があると思っています」とメッセージも発している。

もちろん、物見遊山で戦地に行ったわけではない。
ジャーナリストとして現地の状況を伝えるためにシリアに入国したのだ。
なのに、執拗にバッシングする必要があるのか。

 有名人まで尻馬に乗って批判しているようだが、ジャーナリズムの役割を分かっていないのではないか。
法大名誉教授の須藤春夫氏(メディア論)はこう言う。 
「かつてベトナム戦争が終結したのは、現地の悲惨な状況と、若いアメリカ兵が次々に亡くなっていることが伝わり、反戦運動が起こったからです。
米国政府は追い詰められ、ベトナムから撤退した。
もし、ジャーナリストが現地の状況を伝えていなかったら戦争は続いていたでしょう。
戦地取材では、多くのジャーナリストが命を落としています。
 でも、誰かが伝えなければ、誰も戦争の実相を知ることができない。
なぜ、安田さんが批判されるのか分かりません」

 ちょうど48年前の10月28日は、報道写真家の沢田教一さんがカンボジアで取材中に銃撃され、34歳でなくなった日だ。
ピュリツァー賞を受賞した、戦火から逃げる母子を撮った「安全への逃避」は、世界中が戦争について考えさせられた一枚だった。

■解放されたスペインの
ジャーナリストは敬礼で迎えられている
 そもそも、取材のために戦地に行ったジャーナリストが批判されるのは、世界中で日本くらいのものだ。
 安田さんが拘束されていたのと同じ時期、スペイン人ジャーナリスト3人も拘束され、その後、解放されて帰国しているが、バッシングされるどころか、スペインの軍関係者は敬礼して3人を迎えている。
 2015年にフリージャーナリストの後藤健二さんが殺害された時も、日本では「自己責任論」が沸き上がったが、オバマ大統領は「勇敢にシリア国民の苦境を世界に伝えようとした」と称賛した。
 日本人は世界のスタンダードから大きくズレている。

前出の須藤春夫氏がこう言う。
「驚くのは、安田さんを批判する書き込みの多くが、<日本政府の言うこと聞けないなら外国に行かないでくれ>などと、なぜ政府のルールに従わないのかと訴えていることです。
本来、ジャーナリズムは、権力を監視するものですよ。
サウジアラビアのカショギ記者が殺害されたのも、権力と対立したからでしょう。

取材の可否を国家の裁量に委ねたら、情報統制につながってしまいます。
戦前、大本営発表しか報道できなかったことを考えれば分かるはず。
なのに、また<自己責任論>が噴出している。
政府が渡航を止めたのにシリアに行った安田さんは、何があっても自己責任だと批判している。
しかし、政府のルールに従えとなったら、官製報道ばかりなってしまいますよ」

「教育勅語」と「軍人勅諭」を
       否定しない異常  
安田純平さんへのバッシングでよく分かったのは、「全体主義」が猛烈な勢いで進んでいるということだ。
「どれだけ国に迷惑をかけたのか」
「日本政府の言うこと聞けないなら外国に行かないでくれ」
「国民に謝れ」――と、全体のルールを守らないやつは許すなという風潮が急速に強まっている。
 どうやら、この国では、国民は国に尽くすべき存在であって、迷惑をかけてはいけないらしい。

「自己責任という単語は、権力者にとって、非常に都合のいいフレーズです。
貧困や病気など、本来、政府が面倒を見るべき問題も、自己責任論が強まれば、政府は手当てをしないで済みますからね。
と同時に広がっているのが、政府が決めたルールに従わない者は、自己責任でやってくれというムードです。
それもこれも、生活が苦しく、将来が見えず、社会が不寛容になっているからでしょう」(立正大教授・金子勝氏=憲法)

見逃せないのは、安倍政権は、意図的に「全体主義」を強化しているフシがあることだ。
それは、2人の大臣を見れば明らかだ。
 教育行政のトップである柴山昌彦文科大臣は、「教育勅語」を道徳の授業で使えると明言したのだから信じられない。
 さらに、なぜか大手メディアは報じないが、岩屋毅防衛大臣は、戦前の「軍人勅諭」について、記者会見で何度問われても、最後まで是非を明らかにしなかった。
「教育勅語」と「軍人勅諭」は戦前、国民を国家のために死ぬように洗脳したシロモノである。
国民をラクに支配するために考えられたのが「勅語」と「勅諭」だ。
その2つが甦ろうとしているのだから、異常だ。

■個人の独立性より集団の一員が大事
 もう、この国は相当ヤバイところまで来ているのではないか。
 何しろ、文科大臣と防衛大臣が戦前の「教育勅語」と「軍人勅諭」を否定しないのだから、恐ろしい話だ。

教育勅語」は、親孝行しろなどともっともらしいことを教えながら、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と命じている。
危急の際は皇室を助けろということだ。
軍人勅諭も、日本に生まれた者は軍人に限らず国に報いる心を持てと教えている。
 いずれも、国民に自己犠牲の精神を植えつけ、国家に殉じる国民をつくるための道具だった。

 以前、前川喜平元文科次官が、
<カルト集団の教義みたいなものが「教育勅語」だったり「戦陣訓」だったりしたわけで。
そういうカルトの教義みたいものを今から復活させるというのは非常に問題があると思うんです>と危惧した通りに進んでいる。
 前川喜平氏は、安倍政権が進める道徳教育について、サンデー毎日でこう語っている。
問題は、個人の独立性よりも集団の一員であることを重視している点だ。
個人の尊厳とか精神の自由を貴ぶのではなくて家族の一員、集団の一員、国家の一員など、大きい集団の中の一部であると自分自身を位置づけている

 前出の金子勝氏がこう言う。
「やはり安倍首相は、この国をアメリカと一緒に戦争がやれる国にしたいのだと思う。
戦争をするためには、自衛官は黙って国のために命を捧げ、国民は一つになる必要がある。
心配なのは、国民の方が、安田純平さんを『自己責任だ』とバッシングするなど、自ら政府との一体化を進めているように見えることです」

 明治維新を礼賛する安倍政権下で戦前思想の毒が不気味に広がっている。
そろそろ国民は目を覚まさないと大変なことになる。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☀ | Comment(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする