真珠湾攻撃に参加した
隊員たちが
こっそり明かした「本音」
12/8(土) 現代ビジネス(神立 尚紀)
77年前の今日、12月8日(日本時間)。
ハワイ、オアフ島の真珠湾に停泊するアメリカ太平洋艦隊に、日本海軍の航空母艦を飛び立った350機の攻撃機が襲いかかった。
わずか2時間たらずの攻撃で、ハワイにあった米艦隊と航空部隊を壊滅させるという大戦果を上げ、日本の航空部隊の優秀さを世界に示した。
しかし、日本中が開戦の勝利に沸き立っていても、攻撃作戦に参加した搭乗員たちは、決して浮かれてはいなかった。
戦後50年以上を経てはじめて、
彼ら搭乗員たちが語った本音とは……?
作戦参加搭乗員765名の8割が終戦までに戦死
「真珠湾攻撃の計画を聞かされたときは、私なんか作戦の中枢にいるわけではありませんから、ああ、いよいよやるのか、ずいぶん訓練やったからな、とそれだけでした」 と、本島自柳(もとじま・じりゅう)さんは静かに語り始めた。
真珠湾攻撃60年を目前に控えた2001年初夏のことである。
本島さんは戦後、医師となり、改名して群馬県太田市で総合病院を営んでいたが、旧姓名「大淵珪三」、空母「赤城」乗組の中尉として、九九式艦上爆撃機(九九艦爆、2人乗りの急降下爆撃機)に搭乗、24歳のとき真珠湾攻撃に参加している。
「しかし、私はね、攻撃の前の晩寝るまで、『引返セ』の命令があると思っていました。
日米交渉がうまくいったら引き返すこともあり得ると聞かされていたし、こんな簡単にアメリカ相手の大いくさを始めていいんだろうか、そういう感じは持っていましたからね」
昭和16年(1941)12月8日、日本海軍機動部隊によるハワイ・真珠湾への奇襲攻撃で大東亜戦争(太平洋戦争)の火ぶたが切られて、今年、平成30年(2018)12月8日で77年になる。
あの日、日本海軍の6隻の航空母艦、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」から発艦した350機(第一次発進部隊183機、第二次発進部隊167機)の攻撃隊は、アメリカ太平洋艦隊の本拠地、ハワイ・オアフ島の真珠湾を奇襲、わずか2時間たらずの攻撃で米艦隊と航空部隊を壊滅させた。
アメリカ側は、戦艦4隻が沈没または転覆したのをはじめ19隻が大きな損害を受け、300機を超える飛行機が破壊あるいは損傷し、死者・行方不明者は2400名以上、負傷者1300名以上をかぞえた。
いっぽう、日本側の損失は飛行機29機と特殊潜航艇5隻、戦死者は64名(うち飛行機搭乗員55名)だった。
しかし、この真珠湾の「大戦果」は、日本の開戦通告が攻撃開始時刻に間に合わなかったことから、「だまし討ち」と喧伝され、かえってアメリカの世論をひとつにまとめる結果となってしまった。
「リメンバー・パールハーバー」のスローガンのもと、一丸となったアメリカ軍はその後、驚異的な立ち直りを見せて反撃に転じ、3年9ヵ月におよんだ戦いの結果は、日本の主要都市焼尽、降伏という形で終わる。
真珠湾攻撃に参加した日本側の飛行機搭乗員は765名(途中、故障で引き返した3機や機動部隊上空哨戒、および予備員の人数はふくまず)。
真珠湾で戦死した55名を含め、約8割にあたる617名がその後の激戦のなかで戦死、あるいは殉職し、生きて終戦の日を迎えたのは148名に過ぎない。
真珠湾攻撃から50年後の平成3(1991)年、生き残り搭乗員がまとめた名簿では、ちょうど半数にあたる74名の住所氏名が記されているが、60周年の平成13(2001)年にはそれが30数名になり、77年を経たいまは数名(筆者が承知しているのは2名)を数えるのみである。
私は戦後50年の平成7(1995)年以来、主に旧海軍の航空関係者数百名へインタビューを重ねるなかで、真珠湾作戦に参加した全ての機種の元飛行機搭乗員12名と、数名の元空母乗組員から生の声を聞くことができた。
冒頭の、本島自柳さんもその1人である。
さらに平成13年(この年、9月11日にニューヨーク同時多発テロがあった)12月の真珠湾攻撃60周年記念式典にも、空母「蒼龍」の元零戦搭乗員・原田要さん(当時・一等飛行兵曹)や、空母「飛龍」雷撃隊(九七式艦上攻撃機)の丸山泰輔さん(当時・二等飛行兵曹)、空母「赤城」艦爆隊(九九式艦上爆撃機)の阿部善次さん(当時・大尉)ら、元搭乗員たちと参列している。
驚いたことに、すでに歴史上の存在である「パールハーバー・アタッカー」のハワイでの人気はすさまじく、ホノルルの陸軍博物館の売店では原田さんや丸山さん、阿部さんのブロマイドが1枚6ドルで売られ、行く先々で無邪気にサインを求める人々の長い列ができた。
私たちの接した限りのアメリカ人は、日本の元軍人に対してもアメリカの退役軍人と同じように敬意を持って接し、そこにはもはや敵愾心は感じられなかった。
だがその後、作戦に参加した関係者も高齢化とともに次々と鬼籍に入り、あの世界史的にも大きな出来事を、当事者の視線から多角的に論証することはもはや不可能となった。
そこでここでは、すでに故人となった真珠湾攻撃参加搭乗員へのこれまでの取材のなかから、あまり表に出ることのなかった搭乗員の「本音」の言葉を拾い集めてみたい。
「全面戦争になれば勝てるはずがない」
真珠湾攻撃と言えば、猛訓練で鍛え上げられた搭乗員たちがまなじりを決して飛び立ったようなイメージが強いが、実際には、飛行練習生を終えて1年未満の新人が4分の1近くを占めていて、本島さんのように、アメリカとの開戦に懐疑的な人も少なくなかった。
空母「翔鶴」零戦隊の一員として、真珠湾攻撃当日は機動部隊上空哨戒にあたった佐々木原正夫さん(当時・二等飛行兵曹)も、出撃前の11月23日、艦長・城島高次大佐より真珠湾攻撃の作戦計画が伝えられたときのことを、 「飛行甲板で、若い戦闘機分隊士の飯塚雅夫中尉にききました。
『開戦をどう思いますか。勝つんですか、負けるんですか』と。『私にもわからない。作戦は理解できたが、勝つか負けるかまでは皆目見当がつかない』というのが、飯塚中尉の答えでした。
私は、勝算があって始めるんならいいが、士官にもわからないような戦争をどうして始めるんだろう、と疑問に感じたのを憶えています」 と、回想している。
指揮官クラスのなかにも、第二次発進部隊制空隊指揮官として零戦35機を率いて参加した進藤三郎さん(当時・大尉)のように、 「昭和8(1933)年、少尉候補生として、遠洋航海でアメリカへ行ったときのことを思い出しました。
西海岸だけを見ても、国土は広いし、街は立派だし、あらゆるものが進んでいる。
ロサンゼルスに上陸したとき、移民として向こうに渡った同級生が、自動車で迎えに来てくれたのにも驚きましたが、現地の日系人が自家用飛行機に乗せてくれたのにはもっと驚いた。
日本では、自家用車でさえ限られた一部の人のものだった時代ですからね。
恐るべき国力。
こんな国と戦争しても、局地戦ですむならともかく、全面戦争になれば勝てるはずがない、というのが率直な気持ちでした」 と、アメリカを知ればこそ、先行きを危惧していた人もいる。
これは、戦前、遠洋航海を通して世界を見る機会のあった海軍士官として、ごく常識的なものの見方でもあった。
真珠湾攻撃の一年以上前に、すでに将来の敗戦を予言するかのような言葉を残した指揮官もいる。
空母「蒼龍」戦闘機分隊長として、第二次発進部隊のうち零戦9機を率いた飯田房太大尉である。
日本と中華民国との戦争が泥沼化していた昭和15(1940)年10月、飯田大尉は、中国大陸の漢口基地を拠点に、第十二航空隊の零戦隊を率いて成都を空襲、中国軍機を圧倒し、部隊は感状を授与された。
だが、部下だった零戦搭乗員・角田和男さんによると、祝勝ムードのなか、飯田大尉は一人浮かぬ顔で、
「こんなことでは困るんだ。
奥地空襲で全弾命中、なんて言っているが、重慶、成都に60キロ爆弾1発を落とすのに、諸経費を計算すると約1000円かかる。
相手は飛行場の穴を埋めるのに、苦力(クーリー)の労賃は50銭ですむ。
実に2000対1の消耗戦なんだ。
こんな馬鹿な戦争を続けていたら、いまに大変なことになる。感状などで喜んでいる場合ではないのだ」 と、周囲にこぼしていたという。
攻撃隊員のなかにさえ、無謀な開戦に疑問を抱き、出撃直前まで、外交交渉での戦争回避に望みをつなぐ者がいたことは記憶されていい。
しかしそんな個々の思いを呑み込んだまま矢は放たれ、日本は世界を相手に戦う道を選んだ。
気味悪く感じるほど、
反撃の立ち上がりは早かった
「朝日をバックに、堂々の大編隊を見た感激は忘れられません。
男の本懐、これに過ぐるものはないな、と」
そう語るのは、空母「加賀」第一次発進部隊零戦隊指揮官として9機を率いた志賀淑雄さん(当時・大尉)である。
「静かな日曜の朝でした。東から太陽を背にして入ったんですが、真珠湾には、ライトグレーに塗られた米戦艦が2列にズラッと並んでいました。
大艦隊が朝日に映えて、本当に美しかった。
これに火をつけていいのかな、とふと思ったぐらいです」
ちょうど、オアフ島北端のカフク岬が、白く映えた断雲の下から絵のように見えてきたとき、総指揮官・淵田美津雄中佐が信号銃1発を発射した。
「奇襲成功」の合図である。
奇襲の場合は信号弾1発で、雷撃(魚雷攻撃)隊が真っ先に突っ込み、敵に発見されたり反撃をうけたりして強襲になった場合には、信号弾2発で、艦爆(急降下爆撃)隊が最初に投弾する手はずになっていた。
「ところが、信号弾が目に入らないやつがいたのか、淵田中佐はもう1発、信号銃を撃ちました。
2発は強襲の合図なんですが、状況から考えて、これは(強襲と)まちがえるほうがおかしい。
あとで淵田さんに聞いたら、やはりあの2発めはダメ押しだったと。
それなのに艦爆隊が、2発めを見て強襲と勘違いして、そのまま目標に向かっていく。
雷撃隊は、と見ると、単縦陣になって、まだ高度を下げつつ西海岸を回っている途中です。
艦爆の一番機は、フォード島の飛行場に向かってピューッと急降下すると、250キロ爆弾を落とした。
それがまた、格納庫のど真ん中に命中したんです。
『馬鹿野郎! 』と思わず叫びました。
格納庫からバッと火が出て、煙がモクモクと出てきた。
爆煙で雷撃隊が目標を見失うようなことになれば、敵艦隊の撃滅という作戦の意味がなくなりますから、気が気ではありません。
『煙の方向は? 』と見ると、幸い北風で爆煙は湾口の方へ流れてゆき、敵艦隊は姿を見せたままでした。
『ああ、よかった』と思ったら、また1発。
すると、何分もしないうちに港一帯、まるで花籠のように見えるほど、激しい対空砲火が撃ち上げられました。
あれ、アメリカはわかってて待ち構えていたのかな、と気味悪く感じるほど、反撃の立ち上がりは早かった。
雷撃隊はまだ入らない。
やがて、艦爆の攻撃がほとんど終わったと思われた頃、ようやく『赤城』の一番機が発射点につきました。
魚雷を発射すると、チャポン、と波紋が起こって、白い雷跡がツーッとのびてゆく。
命中したら大きな水柱が上がります」
艦爆隊が先に投弾したために、雷撃隊は対空砲火のなか、強襲ぎみの攻撃を余儀なくされた。
このとき、空母「加賀」雷撃隊の一員(偵察員――3人乗りの真ん中の席。偵察、航法を担当)として九七式艦上攻撃機に搭乗、攻撃に参加した吉野治男さん(当時・一等飛行兵曹)は、 「突っ込むときの気分は、訓練のときと同じです。
敵戦艦に向けてどんどん高度を下げていき、操縦員の『ヨーイ、テッ』という合図で魚雷を発射するんですが、私の目標にした左端の艦は、もうすでに魚雷を喰らって、いくらか傾いてるようでした。
あとで知ったところでは、この戦艦は「オクラホマ」で、13発もの魚雷が命中し、転覆したそうです」 と振り返る。
800キロを超える重さのある魚雷を投下した瞬間、飛行機はグン、と浮き上がる。
雷撃後の避退方向については機長の判断で決めることになっていたので、吉野さんはすかさず、操縦員に右旋回を命じた。が、 「これが得策ではなかった。戦艦群の真横を飛び抜ける形になりますから、向きを変えたとたん、横殴りの猛烈な集中射撃を受けた。
赤い光の筋が、目の前を左から右へ、束になって行く手をさえぎりました。
まるで花火のように機銃を撃ちまくられて、自分の魚雷がどうなったのかも確かめる余裕はありません。
敵弾を避けるため、とっさに上下運動を指示しましたが、操縦員が操縦桿を引いた瞬間、操縦桿にガチャンッと敵弾が命中、続いて後席にもバチンと大きな音がして、塵や埃が機内に舞い上がりました。
後席に命中した一発は、電信機の太い電纜(でんらん。コードのこと)を切断し、電信員の向う脛をむしっていきました。
操縦席の一発は、操縦員が操縦桿を引かなければちょうど手首をもぎ取られていたところで、間一髪でした。
被弾はすべて機体の胴体に計8発、当たりどころが悪ければ終わりです。
私は『加賀』雷撃隊の5機めでしたが、後に続く7機のうち5機が撃墜され、1機の電信員は敵弾で鼻をもぎ取られました。
攻撃が始まって何分もたたないのに、敵の反撃は早かった。
これはもう驚異的でしたね……」
また、空母「飛龍」雷撃隊の丸山泰輔さんは、 「水深の浅い真珠湾で、いかに魚雷を走らせるかに集中していて、対空砲火はあまり目に入らなかった。
先に入った『加賀』雷撃隊はずいぶんやられたようですが……。
私は魚雷発射後、左旋回で避退したんですが、右の方に優秀な射手がおったのかもしれません」 と語っている。
弾幕で空が真っ暗になるくらい撃ってきた
雷撃隊が、2列に並んだ戦艦の外側を攻撃すると、こんどは水平爆撃隊(雷撃と同じく九七式艦上攻撃機)が、内側の戦艦を狙う。
水平爆撃隊は、高度3000メートルから、800キロの大型爆弾を投下する。
「加賀」水平爆撃隊の小隊長だった森永隆義さん(当時・飛行兵曹長)の回想――。
「高度が低いと爆弾が戦艦のアーマー(装甲)を貫けないので高高度からの爆撃になりますが、海上の小さな目標を狙うのは容易じゃありません。
特別な訓練を受けた嚮導機(きょうどうき)をリーダーにして、一個中隊の5機なら5機が一斉に爆弾を投下し、そのうちの1発が命中すればいいという考え方でした。
最初に敵艦を見たときは、いやあ、いるいる、という感じですね。
しかし敵はすでに合戦準備を完了していたらしく、撃つこと、撃つこと。
弾幕で空が真っ黒になるぐらい撃ってきて、翼がブルンブルンと揺れるほどでした。
それで、爆撃針路に入ると、私たちの前の隊の爆撃で、一隻の戦艦の砲塔がバーンと吹っ飛んで、目の前に悪魔の火のような、赤黒い炎とものすごい爆煙が上がるのが見えました。
そりゃもうびっくりしましたよ。
あんな大きな爆発は見たことがない。
あれが『アリゾナ』だったんでしょう。
私の中隊は『メリーランド』型戦艦に2発ぐらい命中させましたが、煙で視界が遮られ、敵艦が沈むところまでは見届けられませんでした」
「加賀」戦闘機隊の志賀さんは、攻撃の成功を見届けて、ヒッカム飛行場の銃撃に入った。
「港とちがって、こちらはあまり対空砲火はなかったですね。
格納庫の前に大型爆撃機・ボーイングB-17がズラッと並んでて、それを銃撃したんですが、燃料を抜いてあるのか燃えなかった。
それで、ヒッカムの銃撃を切り上げて、煙のなかに飛び込んで、左に太平洋を見ながら超低空、高度十メートルぐらいでバーバスポイントの米海軍基地に向かいました。
きれいな景色でしたね、トウモロコシ畑が広がっていて、赤い自動車が走っていて。
バーバスポイントには小型機が並んでいました。
それで、そいつに3撃。
こんどは、気持ちよく焼かせていただきました。
ここでは1人、空に向けてピストルで応戦している米兵の姿が見えたそうですが、対空砲火はなかったと思います。
結局、敵戦闘機は見なかったですね。
しかし、私の三番機・佐野清之進二飛曹は、バーバスポイントまでは私についてきていたのに、その後、姿が見えなくなり、行方不明になりました。
佐野機はどうも敵の飛行機と空中衝突したらしい、とあとで聞かされました。
攻撃が終わって、戦果確認をしようと真珠湾上空、高度5000メートルまで上がってみましたが、上空から見たら、真珠湾は完全に一つの雲のような煙に覆われ、ときどき、そのなかで大爆発が起こっている。
地面も海面も、ほとんど見えない状態でした。
よし、完全にやっつけたな、これでよし、と思い、バーバスポイントの北、カエナ岬西方10キロ上空、高度2000メートルの集合地点に向かいました」
もはや引き返すことはできない
機動部隊の各母艦では、第一次の発艦後、すぐに第二次発進部隊の準備が始められた。
第二次発進部隊制空隊(零戦隊)指揮官の進藤三郎さんは語る。
「第一次の発進を見送ったときにはさすがに興奮しましたが、いざ自分が発進する段になると気持ちも落ち着き、平常心に戻りました。
出撃前、司令部から、この作戦で空母6隻のうち3隻、飛行機半数を失うとの見積もりを聞かされていて、死を覚悟しましたが、それほど悲壮な気分にもなりません。
真珠湾に向け飛行中、クルシー(無線帰投装置)のスイッチを入れたら、ホノルル放送が聞こえてきました。
陽気な音楽が流れていたのが突然止まって、早口の英語でワイワイ言い出したから、よくは聞き取れませんが、これは第一次の連中やってるな、と奇襲の成功を確信しました」
オアフ島北端、白波の砕けるカフク岬を望んだところで高度を6000メートルまで上げ、敵戦闘機の出現に備える。オアフ島上空には、対空砲火の弾幕があちこちに散らばっていた。
「それを遠くから見て、敵機だと勘違いして、接敵行動を起こしそうになりました。
途中で気づいて、なんだ、煙か、と苦笑いしましたが」
弾幕の煙は、遠目には1つ1つが黒い点々に見える。
同じく第二次発進部隊「赤城」艦爆隊の大淵中尉(本島自柳さん)は、それらの黒点を認めて、前席の操縦員・田中義春一飛曹に「おい田中、あれは防塞気球かな」と声をかけ、「分隊士は呑気だな、あれは敵の弾幕ですよ」といわれたことで、はじめて戦闘を実感したと回想している。
第一次に遅れること約1時間、真珠湾上空に差しかかると、湾内はすでに爆煙に覆われていた。
心配した敵戦闘機の姿も見えない。
艦爆隊は、第一次発進部隊が撃ちもらした敵艦を狙い、本島さんは急降下爆撃で敵巡洋艦に250キロ爆弾を命中させている。
零戦隊を率いる進藤さんは、各隊ごとに散開し、それぞれの目標に向かうことを命じた。
「艦攻の水平爆撃が終わるのを待って、私は『赤城』の零戦9機を率いてヒッカム飛行場に銃撃に入りました。
敵の対空砲火はものすごかったですね。飛行場は黒煙に覆われていましたが、風上に数機のB-17が確認でき、それを銃撃しました。
高度を下げると、きな臭いにおいが鼻をつき、あまりの煙に戦果の確認も困難なほどでした。
それで、銃撃を2撃で切り上げて、いったん上昇したんですが」
銃撃を続行しようにも、煙で目標が視認できず、味方同士の空中衝突の危険も懸念された。
進藤さんは、あらかじめ最終的な戦果確認を命じられていたので、高度を1000メートル以下にまで下げ、単機でふたたび真珠湾上空に戻った。
「立ちのぼる黒煙の間から、上甲板まで海中に没したり、横転して赤腹を見せている敵艦が見えますが、海が浅いので、沈没したかどうかまでは判断できないもののほうが多い。
それでも、噴き上がる炎や爆煙、次々に起こる誘爆のすさまじさを見れば、完膚なきまでにやっつけたことはまちがいなさそうだと思いました。
これはえらいことになってるなあ、と思いながら、胸がすくような喜びがふつふつと湧いてきましたね。
しかしそれと同時に、ここで枕を蹴飛ばしたのはいいが、目を覚ましたアメリカが、このまま黙って降参するわけがない、という思いも胸中をよぎります。これだけ派手に攻撃を仕掛けたら、もはや引き返すことはできまい。戦争は行くところまで行くだろう、そうなれば日本は……」
被弾し、敵飛行場に突っ込んだ
指揮官の胸中とは
第二次発進部隊には、飯田房太大尉が率いる空母「蒼龍」の零戦9機も参加している。
そのなかの1機、藤田怡與藏さん(当時・中尉。戦後、日本航空に入り、日本人初のジャンボ機機長となる)の回想。
「真珠湾に向け航海中、われわれ搭乗員は暇なので、よくミーティングと称して、分隊長・飯田房太大尉のところに集まっては、いろんな話をしていました。
あるとき、分隊長が、『もし敵地上空で燃料タンクに被弾して、帰る燃料がなくなったら貴様たちはどうする』と問われた。
みんなああでもない、こうでもないと話をしていると、分隊長は『俺なら、地上に目標を見つけて自爆する』と。
それを聞いてみんなも、そうか、じゃあ俺たちもそうなったら自爆しよう、ということになりました。
ごく自然な成り行きで、悲壮な感じはなかったですよ。
われわれ第二次が真珠湾の上空に着いたときには、すでに一次の連中が奇襲をかけたあとですから、敵は完全に反撃の態勢を整えていました。
それはもう、ものすごい対空砲火の弾幕でした。
はじめ空中には敵戦闘機の姿が見えなかったので、カネオヘ飛行場の銃撃に入りました。
目標は地上の飛行機です。
飯田大尉機を先頭に、単縦陣で九機が一直線になって突入しました。
3度ぐらい銃撃したところで、爆煙で地面が見えなくなったので、ホイラー飛行場に目標を変更して2撃。
ここでも対空砲火は激しかった。
飛んでくる弾丸の間を縫うように突っ込んでいったんですからね。
ホイラー飛行場の銃撃を終え、飯田大尉の命令により集合してみると、飯田機と二番機の厚見峻一飛曹機が、燃料タンクに被弾したらしく、サーッとガソリンの尾を曳いていました。
これはやられたな、と思って飯田機に近づくと、飯田大尉は手先信号で、被弾して帰投する燃料がなくなったから自爆する、と合図して、そのままカネオヘ飛行場に突っ込んでいったんです。
私からその表情までは見えませんでしたが、迷った様子は全然ありませんでした。
ミーティングで自ら言った通りに行動されたわけです。
煙のなかへ消えていく飯田機を見ながら、涙が出そうになりました――」
飯田機が墜ちたのは、カネオヘ海兵隊基地の、格納庫や滑走路から約1キロ離れた、隊門にほど近い道路脇である。
米側の証言記録によると、飛行場に突入してきた飯田機は、対空砲火を受け低空で火を発したが、最後の瞬間までエンジンは全開で、機銃を撃ち続けていたという。
飯田大尉の遺体は機体から引き出され、米軍によって基地内に埋葬された。
墜落地点には、真珠湾攻撃30周年にあたる昭和46(1971)年、米軍が小さな記念碑を建てた。
真珠湾で戦死した日本側将兵64名のうち、米側が埋葬場所を明らかにしているのは飯田大尉だけである。
飯田機を見送った藤田さんが、残る8機をまとめ、集合地点に向かう途中、銃撃音に振り返ると、後上方から敵戦闘機9機(米側記録では、カーチスP-36A・5機)が攻撃をかけてくるのが見えた。
「すぐに戦闘開始を下令して、空戦に入りました。
私は1機に命中弾を与えましたが、最後に1機、正面からこちらに向かってくるのがいる。
そこで、ちょうどいいや、こいつにぶつかってやれ、と腹を決めてまっすぐ突っ込んでいくと、敵機は衝突を避けようと急上昇した。
そこへ、機銃弾を存分に撃ち込んだんです。
ところが、正面から撃ち合ったもんだから、私の零戦にもかなりの被弾があったようで、エンジンがブルンッといって止まってしまった。
目の前の遮風板(前部風防)にも穴が開き、両翼は穴だらけです。
これはしようがない、私も自爆しようと思ったら、また動き出した。
それでなんとか帰ってみようと、途中ポコン、ポコンと息をつくエンジンをだましだまし、やっとの思いで母艦にたどり着きました。
油圧計はゼロを指していて、焼きつく寸前です。
着艦すると、その衝撃でエンジンの気筒が一本、ボロンと取れて飛行甲板に落ち、同時にエンジンが完全に止まってしまいました」
戦死した飯田大尉は山口県出身の28歳、兵学校時代、「お嬢さん」というニックネームで呼ばれていたという。
気性の荒い者が多い戦闘機乗りにはめずらしく、気品を感じさせるほど温和で寡黙な士官であった。
「飯田機は、帰艦できないほどの被弾ではなかったと思う。
行きは増槽(落下式燃料タンク)を使い、戦闘のときにそれを落として機内の燃料タンクを使うわけですが、やられたのは片翼のタンクだけで、胴体ともう片翼の燃料は残ってますから。
冷静に計算したら燃料はあるわけですよ。
もしかしたら還れたかもしれないのに、惜しいことでした。
いま思えば、航海中のミーティングのときから、心中に期するものがあったのかもしれません」 と、藤田さんは言う。
飯田大尉がかつて、 「こんな馬鹿な戦争を続けていたら、いまに大変なことになる」 と周囲に漏らしていたことは、先に述べた。
それをじかに聞いた角田和男さんは、開戦時一等飛行兵曹で、茨城県の筑波海軍航空隊で操縦教員を務めていたが、真珠湾攻撃から帰還した「蒼龍」の搭乗員から聞いた話として、次のように語っている。
「飯田大尉は攻撃の前日、部下の搭乗員を集め、『この戦は、どのように計算してみても万に一つの勝算もない。私は生きて祖国の滅亡を見るに忍びない。
私は明日の栄えある開戦の日に自爆するが、皆はなるべく長く生きて、国の行方を見守ってもらいたい』と訓示をしたと言うんです。
飯田大尉はその言葉の通り、自爆されましたが、このことはその日のうちに艦内の全員に緘口令が敷かれたと。
私は、飯田大尉の人となりから、その話を信じています」
これは、驚くべき証言である。
飯田大尉は、はじめから自爆する決意でいたのか――。
このことを藤田さんに質してみると、 「いや、私はそんな訓示を受けた覚えはないですな。
開戦初日に戦死する覚悟というのは、私もそうだったし、みんなそうだったんじゃないですか」 と、否定的だった。
飯田大尉が敵飛行場に向け自爆するとき、その胸中を去来するものが何であったか、出撃前日の訓示もあわせて、いまとなっては確かめようがない。
「詰めが甘い」と感じた
第三次攻撃の中止
空襲を終えた攻撃隊は、次々と母艦に帰投し、各指揮官が発着艦指揮所の前に搭乗員を集め、戦果を集計した。
進藤さんは、「赤城」艦爆隊と合流して帰還した。
機動部隊司令長官・南雲忠一中将が、わざわざ艦橋から飛行甲板上に下りてきて、「ご苦労だった」と進藤さんの手を握った。
そして、攻撃に参加した士官搭乗員のなかではもっとも若い、艦爆隊の本島さんを抱きしめ、 「よく帰ってきたなあ」 とねぎらった。
進藤さんも本島さんも、南雲中将がこのように感情を露わにするところを見たのは初めてだった。
ほどなく、最後まで真珠湾上空にとどまっていた総指揮官・淵田中佐の九七艦攻が帰艦する。
大戦果の報に、艦内は沸き立った。
しかし、日本側にとって残念なことに、敵空母は真珠湾に在泊していなかった。
もし、敵空母が近くの海上にいるのなら、こんどはこちらが攻撃されるかもしれない。
第一次、第二次の攻撃から帰還した零戦が、燃料、弾薬を補給して各空母から数機ずつ、ふたたび上空哨戒のため発艦する。
艦上では、第三次発進部隊の準備が進められている。
「蒼龍」の第二航空戦隊司令官・山口多聞少将からは、「蒼龍」「飛龍」の発艦準備が完了したとの信号が送られてきた。
この攻撃隊を出撃させれば、日本を発つまでに1機あたり150発(出撃1.5回分)しか用意できなかった零戦の20ミリ機銃弾は、概ね尽きるところであった。
しかし、南雲中将は、第三次発進部隊の発艦をとりやめ、日本への帰投針路をとることを命じた。
これは、すでに所期の戦果を挙げたと認められるいま、敵空母の所在位置がわからないまま、その場にとどまることは不利であるとの状況判断に基づいたものだと言われるが、味方空母、飛行機の半数を失う覚悟で臨んだにしては、消極的ともいえる決断だった。
「当然もう一度出撃するつもりで、戦闘配食のぼた餅を食いながら心の準備をしていましたが、中止になったと聞いて、正直なところホッとしました。
詰めが甘いな、とは思いましたが……」 と進藤さんは言う。
そもそも戦争にだまし討ちなどない
こうして真珠湾奇襲攻撃は成功し、米太平洋艦隊を壊滅させた機動部隊は意気揚々と引き揚げたが、隊員たちのまったくあずかり知らないところで、外交上の重大なミスが起きていたことが、やがて明らかになる。
日米交渉の打ち切りを伝える最後通牒を、攻撃開始の30分前に米政府に伝える手はずになっていたにもかかわらず、ワシントン日本大使館からの通告が遅れ、攻撃開始に間に合わなかったのだ。
アメリカがこの失態を見逃すはずもなく、真珠湾攻撃は「卑怯なだまし討ち」と喧伝され、かえって米国内の世論をひとつにまとめる結果となった。
最後通牒が遅れたことを、攻撃に参加した搭乗員は当時、知る由もなかったが、戦後になって聞かされた「だまし討ち」の汚名は、当事者にとって心外なものだった。
進藤さんは、 「あれは『だまし討ち』ではなく『奇襲』です。
最後通牒が間に合わなかったのは事実なんでしょうが、アメリカも1898年の米西戦争では宣戦布告なしに戦争をした前歴があります。
アメリカは11月26日、ハル・ノート(日本軍の中国および仏領インドシナからの撤兵、中国における蒋介石政権以外の政権を認めないことなどを要求、日本側は事実上の最後通牒と受け取った)を日本に突きつけた時点で開戦を覚悟し、戦争準備をしていたはず。
真珠湾の対空砲火を見れば一目瞭然ですよ。
ふつう、炸裂弾を弾薬庫から出して信管を取り付け、発射するまでには、ある程度の時間を要する。
それが、第一次の雷撃隊からも損害が出るほどの早さで反撃できたんですから、砲側に置いて臨戦準備をしていたとしか考えられない。
それなのに『だまし討ち』などというのは、日本側の実力を過小評価していたため、予想以上の被害を出してしまったことに対する責任逃れの言い訳にすぎないと思います。
そもそも戦争に『だまし討ち』などないんですから」 と、憤懣やるかたない、といった口調だったし、志賀さんも、 「だまし討ちと言うけどね、それまでにもう、戦争が始まらなければいけない状態になっていたんじゃないですか。
少なくとも私たちが攻撃したとき、だましどころか完全な防備がしてありましたよ。
でないと、あんなに素早く反撃はできません。
アメリカとしたら、『だまし討ち』ということにしないと、軍上層部の顔が立たなかったんだと思いますね。
それで世論を盛り上げた。世論の国ですからね。
もし最後通牒が完全に間に合っていたとしても、われわれは同じ戦果を挙げてみせたでしょう。
ドックなどの港湾施設や燃料タンクを攻撃しなかったのには、いまでも悔いが残りますが」 と、「現場」としての誇りをにじませる。
アメリカと無謀な戦いを始めることに対し、それぞれに感じた疑問や不安を胸に秘め、与えられた立場で最善を尽くした結果が「だまし討ち」呼ばわりというのは、「命じられる側」の当事者として、やり切れないことであったに違いない。
後世の目でその後の戦争の推移を振り返れば、真珠湾攻撃に投入された本島さんや進藤さん、飯田大尉ら、若い隊員たちが抱いた危惧は正しかった。
本島さんは、 「戦争が終わったときは、負けた悔しさよりも、なんでこんな戦争を始めたんだと、そういう気持ちが強かったですね。子供だってケンカするときは止めどきを考えてやるでしょう。それが全くなかったわけですから。それで大勢の人を死なせて……」 とも語っている。
もちろん、政府にも陸海軍にも、開戦に反対する者はいた。
にもかかわらず、負けるに決まっている戦争を止めることはできなかった。
戦後、何度も検証され、繰り返し語られてきた遠い昔の出来事だが、当事者がほとんどいなくなり、戦場を知らない世代が世の中を動かすようになったいまだからこそ、問い直す意味があるように思う。
神立 尚紀