マスコミは言論の自由をはき違えている
跋扈する「陰弁慶」ジャーナリズム
2018/12/13 東洋経済(半藤 一利)
近ごろ、言論の自由を笠に着て、まるで品位もなく言いたい放題の「蔭弁慶」的なジャーナリズムが日本中を席巻しているようではないか――。
ヘイト言論に揺れるメディアの現状に、昭和史の大家はそう警告する。
言論の自由は、ヘイトスピーチを止められないのか。
そうではない、とかつて喝破したのは元慶應義塾塾長の小泉信三氏であった。
時代が変わっても、変わらず私たちが大切にすべき言論の自由と品位の関係、そして「ジャーナリズムの根本」とはなにか。半藤一利著『語り継ぐこの国のかたち』から考えてみたい。
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言論界は何かおかしくなりつつあった
今から半世紀以上前になりますか、『文藝春秋』の巻頭で「座談おぼえ書き」という連載を書かれていた小泉信三先生という方がおりました。
私は一介の編集者として先生の謦咳に接するというよりは、むしろいつもばか話をいたしまして、笑われたり呆れられたりしながら、たくさんのことを教えていただきました。
小泉先生は1966(昭和41)年5月にお亡くなりになりましたが、その直前まで「座談おぼえ書き」をお書きになっていました。
その晩年のころの先生が、いちばん力を込めたといいますか、関心をお持ちになってお書きになっていたのは、つまり昭和40年から41年にかけてお書きになっていたのが、言論の問題ではなかったかと思います。
あるいはときを同じくしまして、産経新聞に、題はちょっと忘れてしまいましたが、短いコラムをお書きになっています。
そこでも言論の自由ということに対してお書きになっている。
ということは、昭和40年ぐらいから言論界というのが何かおかしくなりつつあるということを、独特の勘をもってお感じになっていたのではないでしょうか。
ちょうど中央公論社が深沢七郎氏の小説『風流夢譚』で攻撃を受けたりしている事件があった直後のことでした。
「半藤君、君は中央公論の問題をどう考えるかね。
君ならばあれを載せたかね」と先生にきかれたので、「いや、わたくしならたぶん載せないと思います」というようなお話をしたことがあります。
そのときに小泉先生は、「言論の自由というそのことは非常に大事である、大事ではあるがその言論の自由ということを表に立てることにおいて、人に対していかなる非難攻撃を加えるのも自由であるというわけにはいかないのじゃないかと思う。
批評というのは自由だし、批評そのものは大いにやらなければならないことであるが、ただ、それは当の本人、当の相手に面と向かっていいうること、あるいは、ごまかしなくその人に向かって、お前の考えはこのようにおかしいというふうにいえること、それを限度とすべきである。
直接その人に向かっていえないこと、あるいは陰に向かってコソコソといわなければならないような非難攻撃を発表するということは、非常にいけないことじゃないかと思うよ」といって、福沢諭吉先生の文章をわたくしに示してくれたことがありました。
福沢諭吉先生がいった「老余の半生」と題するものです。
私の持論に、執筆者は勇(ゆう)を鼓(こ)して自由自在に書く可(べ)し、但し他人の事を論じ他人の身を評するには、自分と其(その)人と両々相対(あいたい)して直接に語られるやうな事に限りて、其以外に逸(いっ)す可(べか)らず、
如何なる劇論、如何なる大言壮語も苦しからねど、新聞紙に之を記すのみにて、扨(さて)その相手の人に面会したとき、自分の良心に愧(は)ぢて率直に陳(の)べることの叶はぬ事を書いて居ながら、遠方から知らぬ風をして、恰(あたか)も逃げて廻(ま)はるやうなものは、之(これ)を名づけて蔭(かげ)弁慶(べんけい)の筆と云ふ、
其蔭弁慶こそ無責任の空論と為り罵詈(ばり)讒謗(ざんぼう)の毒筆と為る、君子の愧づ可き所なりと常に警(いま)しめて居ます。
これは福沢先生が創設した『時事新報』の編集上の主義について書かれた文章だそうですが、小泉先生はこれをわたくしに示されましていわれました。
「君のところの社長、あるいは編集長でもいい、その人間を誹謗(ひぼう)する記事を、君たちは載せないだろう。
ジャーナリズムというものはそのようなとき必ず載せないものである。
つまり同じことなんだと、人に対して面と向かっていえないことを、言論の自由の美名の下に書いてはいけないのだ」ということを先生は力をこめておっしゃいました。
書きどく、売れどくのジャーナリズムがはびこっている
このことはわたくしも肝に銘じまして、ジャーナリズムの根本のことだなというふうに思いまして、よく若い編集者たちに言ってきたわけでございます。
しかしながら、昨今のマスコミ界を見ますと、何か先生の予言が当たっているような、いわゆる「蔭弁慶」的なジャーナリズムが日本中を席巻しているようでございまして、書きどく、売れどくの風潮がはびこっています。
何かもう、そのころから先生は今日を見通していたのかなというような気がするわけでございます。
1952(昭和27)年に小泉先生が、1月号だと思いますが「平和論」という有名な論文を『文藝春秋』にご寄稿になりました。
簡単に申し上げますと、全面講和か、あるいは少数講和かというような問題 で、論壇が真っ二つに割れてたというよりも、むしろ論壇はもう全面講和論一色で塗りつぶされているような時代でした。
そこへ、全面講和論がいかに現実的ではないかということから、小泉先生はお一人といってもいいと思いますが、反対の立場を表明されたわけであります。
しかも、この問題は将来の日本のために大事であるから、『文藝春秋』という多くの読者に読まれている雑誌を選びたいという先生ご自身のご意思もあったようです。
こうして『文藝春秋』にこの「平和論」が載りました。
結果はいわゆる平和論論争という、論壇をあげての大論争が起きるわけです。
「それは違う」と言い続ける人がいなくなっている
のちに小泉先生は、その平和論論争時代のことを想いだしながら、こんなことをわたくしに語ってくれました。
「知識人というのは敏感で、動きやすい人々が多いんだな。
全面講和とだれか上に立つ人がいうと、一斉に動く。
大義名分はそれ以外にないと我も我もとね。
これを”晴天の友”という。
全部がそうだといったら、これは暴言だが、あのときによく考えてもみないで賛成の手を挙げた”晴天の友”がなんと多かったことかね。
全面講和に固執することは、とりも直さず、米ソ両陣営の間に中立することを主張すること、それゆえに米軍の占領下にいつまでもとどまることを願うということになる。
そんな愚かなことはないじゃないか。
それを”晴天の友”は思ってもみなかった。
君も、これからの人生で”晴天の友”にだけはなるなよ」
先生は皮肉な笑みを顔いっぱいに浮かべておられた。
それをよく覚えています。
昨今のように、先生がおっしゃるように、日本全体の状態、言論とかマスコミだけではございません、日本人全体の気持ちが、雪崩現象とわたくしたちマスコミの人間はいいますが、一斉にダーッと一つの方向に流れて走っていってしまう。
先生のいうところの”晴天の友”ばかりがまわりにいる。
そのような状況下にありまして、それは違うぞと、間違ってるぞということをいい続ける人はいなくなった。
それが今日の状態ではないか、と思います。
船が左右にゆれると、足もとの怪しいわれわれは左舷あるいは右舷に転げ寄って、船の動揺を大きくして、あるいは転覆させてしまうかもしれない。
そんなとき大事なのは、小泉先生のように「ノー、違う」とはっきりいえる人、足もとの確かな、よろけない乗員のあることであります。
あのでっかい体で、そして悠々と一言、一言、噛みしめるようにいう小泉先生の言葉が、まだいたかのように残っております。
大へんに懐かしい人であると、心から思います。