2018年12月20日

日本人はなぜ「集団の考え」に 染まりやすいのか?

日本人はなぜ「集団の考え」に 染まりやすいのか?
2018年12月19日 ダイヤモンドオンライン

日本では、どのムラに所属するかによって、「物の見方」や善悪の基準が大きく変わる。
これは「いじめ」を引き起こしやすい構造であり、日本社会を歪める元凶ではないだろうか。
なぜ日本人は集団の物の見方に感染してしまうのか。
なぜ個人の見方は、いつの間にか乗っ取られてしまうのか。

15万部のベストセラー『「超」入門 失敗の本質』の著者・鈴木博毅氏が、40年読み継がれる日本人論の決定版、山本七平氏の『「空気」の研究』をわかりやすく読み解く新刊『「超」入門 空気の研究』から、内容の一部を特別公開する。
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■日本人はどのムラに所属するかで倫理観が変わる
 日本はムラ社会であり、ムラには独自の善悪の基準があります。
産業や共同体ごとに独自の論理があり、それぞれに「独自の物の見方」があるのです。

 政治家の善と国民の善は同じではないかもしれません。
特定の利権産業団体の善が、市民にとって悪であることもあります。

 山本七平氏は、日本人はどのムラに所属するかで善悪の基準がコロコロ変わる「情況倫理」に陥ると指摘しています。
 一方、その対比として、山本氏は西欧の「固定倫理」も紹介しています。

 メートル法のように、規範を非人間的な基準においてこれを絶対に動かさない場合は、その規範で平等に各人を律すればよい。
この場合の不正は、人間がこの規範をまげることである。

 固定倫理をイメージするために、次のような解説もしています。
 餓死寸前に一片のパンを盗もうと、飽食の余興に一片のパンを盗もうと、「盗み」は「盗み」として同じように処罰される。
 しかし日本社会の情況倫理では、「餓死寸前で一片のパンを盗む行為は、同情の余地がある」という“物の見方”がある場合、罪は軽くなります。
逆に、「裕福な者が余興のために一片のパンを盗むのはけしからん」と見るならば、罪は重くなるのです。

 日本の犯罪報道を聞くと、殺意があったか否かが罪の計量に影響を与えることがわかります。
被害者の悲惨な結果はまったく同じであるにもかかわらずです。
情況倫理が働く日本社会では、集団の物の見方で行為への評価が違ってしまうのです。

■情況に流された人間は、有罪か無罪か?
 情況倫理について、山本氏の指摘を見てみましょう。
「あの情況ではああするのが正しいが、この情況ではこうするのが正しい」(中略)、当時の情況ではああせざるを得なかった。
従って非難さるべきは、ああせざるを得ない情況をつくり出した者だ
 これは、「特定の物の見方」に支配された集団に放り込まれたことで、自分も倫理の基準を変えざるを得なかったのだ、という釈明、言い訳と捉えることができます。
 山本氏は、これを一種の自己無謬性、責任が自分にはないという主張だとしています。

 情況の創出には自己もまた参加したのだという最小限の意識さえ完全に欠如している状態なのである(中略)、この考え方をする者は、同じ情況に置かれても、それへの対応は個人個人でみな違う、その違いは、各個人の自らの意志に基づく決断であることを、絶対に認めようとせず
 なぜ情況が生まれたことに、全員が加担したと言えるのでしょうか。
 共同体の物の見方の形成は、参加者たちがその考え方を放置して、反論や批判をしなかったことが原因の一端だからです。

誰かの言葉にあなたが反対せず、別の視点を投じなかったことが、集団の情況(物の見方)の支配を加速させたのです。
 さらに言えば、集団の情況にのみ込まれるかどうかは人によって異なり、当然、共同体の物の見方に流されない人もいます。
集団の情況にのみ込まれるか否かは、実は100%個人の決断であり、悪いほうに倫理基準を変えた自己の責任を情況のせいにしているだけなのです。

いじめの加害者がたった1本の献花を恐れる理由
 いじめに関する著作を複数持つ、社会学者の内藤朝雄氏の『いじめの構造』には、
加害者側の生徒が、クラスの空気を読みながらいじめを始める様子が描かれています。
 そして、加害者の生徒たちは、亡くなったA君がいなくても何も変わらないと強弁します。
しかし、あるクラスメートがA君の机に花を飾ろうとしたとき、加害者の生徒たちは反応します。
 ある生徒は、教室でA君の机に花を飾ろうとしたクラスメートを「おまえは関係ないやん」と追い返した。

 A君を自殺に追いやったいじめの加害生徒たちは、なぜ1本の献花を嫌がったのでしょうか。
A君の机に花が置かれることで、A君が二度と戻らないこと、重大な犯罪が行われてしまったこと、A君が亡くなった悲しみがクラスに広がるからです。

 改めて、情況倫理について整理してみましょう。

「情況」=特定の物の見方
「情況倫理」=物の見方に影響を受ける倫理  

献花でA君が亡くなったことが意識され、クラスが悲しみに包まれると、生徒たちの「物の見方」が変化します。
すると、加害生徒の犯罪の重大さが認識されるのです。

 加害者たちは、A君の自殺を知らされた後でも、「死んでせいせいした」「別にあいつがおらんでも、何も変わらんもんね」「おれ、のろわれるかもしれん」などとふざけて話していた。

 クラスの情況(物の見方)が変われば、過去の空気は一瞬で崩壊します。
上の言葉は、加害者がクラスの“情況”の変化を恐れていることを暗示しています。
同時に加害生徒たちの驚くほどの狡猾さ、ずる賢さも示唆していると言えるでしょう。

では「空気」と「情況」はどう違うのか?
 これまでの議論では、「空気」と「情況」の区分を明確にしてきませんでした。
ここで両者の違いをはっきりさせるために、『「空気」の研究』の文面を見てみます。
(当時の情況ではああせざるを得なかったという言葉に対して)
 この論理は、「当時の空気では……」「あの時代の空気も知らずに……」と同じ論理だが、言っている内容はその逆で、当時の実情すなわち、対応すべき現実のことである。
 空気の拘束でなく、客観的情況乃至は、客観的情況と称する状態の拘束である。

 山本氏の文章から、「空気」と「情況」を次のように定義してみます。

空気」=ある種の前提
情況」=前提を起点にして形成された、集団の物の見方  ほとんど似た意味に思われる方もいるかもしれません。

二つの最大の違いは、「空気」は公にできない秘密の前提であることが多いことです。
 戦艦大和の沖縄特攻が「空気」によって決定されたことはすでにご説明しましたが、それは、大和が戦わずに敗戦を迎えることは許されない、という海軍上層部の“前提”が起点となっています。

 しかし「戦って撃沈されること」が特攻の目的であるなど、大和の艦長や乗組員、兵士の家族や関係者の前では口が裂けても言えません。
 したがって、空気(前提)から発生した情況「大和の特攻は不可避である」だけが外に出てきて、集団の中で連呼されて次第に支配的な考え方にさせられるのです。

“空気”そのものの、論理的正当化は不可能である。
 これは当たり前でしょう。
情況と空気の関連図.jpg 
 大きな共同体の中で、ごく特定のムラだけに都合のいい前提など、公表できるわけがありません。
特定のムラと共同体全体で、大きく乖離している前提を正当化しようとすれば、全体側から激烈な怒りが生まれるからです。  

だからこそ、空気は隠蔽され、物の見方(情況)だけが外に出てくるのです。

 山本氏は情況を、「当時の実情すなわち、対応すべき現実のことである」と述べていますが、情況は「大和の特攻は不可避である」など、会議の席などで支配的な意見として続々と表面に出てきます。
情況は空気のように隠蔽されず、対応すべき現実、圧力として目の前に迫ってくるのです。

「自分の見方」はやがて乗っ取られる
 前述した『いじめの構造』には、空気と情況倫理に酷似する指摘があります。
 学校の集団生活によって生徒にされた人たちは、

[1]自分たちが群れて付和雷同することによってできあがる、集合的な場の情報(場の空気!)によって、内的モードが別のタイプに切り替わる。
「友だち」の群れの場の情報が個をとびこえて内部にはいり、内的モードが変化した。

「何かそれ、うつっちゃうんですよ」という発言は、群れに「寄生され」て内的モードが変化させられる曖昧な感覚をあらわしている。
 これは山本氏が描写した情況倫理とほぼ同じです。

生徒たちは閉じられた共同体で、ある種の前提を共有していき、次第にその前提から発生する「物の見方」に染まっていくのです。
 すると「集団がどのような考え方をしているか」で、生徒たちの倫理基準も変わってしまう。

自分で倫理基準を保つ訓練をしていないと、集団の情況(物の見方)に感染してしまい、自己の倫理基準を乗っ取られてしまう。
『いじめの構造』で指摘された生徒の姿は、日本社会の情況倫理の学校版なのです。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする