拉致問題に苦しみ続ける横田夫妻41年間の戦い
被害者家族たちの高齢化も進み、猶予はない
2019/03/29 東洋経済オンライン
佐竹 正任 :
フジテレビ「前略 めぐみちゃんへ」取材班
この家族たちは、いったい、どれだけ涙を流さなければならないのか。
北朝鮮による日本人拉致が相次いでから実に40年以上が経過した。
だが、2002年に5人の拉致被害者が帰国しただけで、それから17年、またも事態は膠着したままになっている。
2月末には、2回目の米朝首脳会談が開かれ、1回目に続いてトランプ大統領が日本人拉致問題を提起したというが、「全拉致被害者の即時一括帰国」という家族たちの一致した願いに向けた具体的な道筋は見えない。
拉致問題解決に一刻の猶予も許されない
しかも、拉致被害者の親で生存しているのは、横田めぐみさんの父・滋さんと母・早紀江さん、有本恵子さんの父・明弘さんと母・嘉代子さんの4人だけになってしまった。
拉致被害者家族たちを高齢化の波が襲う中、もはや一刻の猶予も許されない。
にもかかわらず、かつて日本人が北朝鮮による拉致という卑劣な犯罪の餌食になっていたことさえも、この国で忘れ去られようとしている。
幸せに暮らしていた家族が、わが子を突然奪われ、何の情報もなく泣き暮らしていたこと。
わが子が北朝鮮で生きていると知らされ、取り戻すために奔走しても誰も動いてくれず無力を思い知らされること。
ようやく世論と政府が動いても、十分な確認もせずに「もう死亡した」と伝えられ、死亡確認書や遺骨を見せられてしまうこと。
もしわが身にふりかかれば、立っていられるかどうかわからないような深い悲しみの淵で、数十年戦い、涙を流し続けてきた家族たちの心中を察するには余りある。
そんな思いから、横田夫妻の41年間にわたる涙と苦闘の日々を描くドキュメンタリードラマ「独占取材 北朝鮮拉致 前略 めぐみちゃんへ〜横田夫妻、最後の戦い」(3月30日(土)15時30分〜フジテレビで放送)を企画した。
この中で、めぐみさんの北朝鮮における生活について貴重な証言をしてくれたのが、2人の拉致被害者、曽我ひとみさんと蓮池薫さんだった。
取材班は、佐渡島に住む拉致被害者、曽我ひとみさんから手紙をいただいた。
そこには、合わせておよそ8カ月間、北朝鮮で一緒に暮らした横田めぐみさんについて、思い出せる限りのことが記されていた。
「バドミントンの部活帰り、友達と別れ家の近くの曲がり角まで来たところで襲われたと言っていました」(曽我ひとみさん)
1977年11月15日午後6時半頃、部活が終わって下校中、あともう少しで家に到着するという所で北朝鮮の工作員に襲われ、新潟の海から北朝鮮に連れ去られた横田めぐみさん。
当時、まだ13歳だった。
その9カ月後の1978年8月12日、新潟県の佐渡島から買い物帰りに拉致されたのが曽我ひとみさんだ。
一緒に拉致された母、ミヨシさんの行方は今もわかっていない。
曽我ひとみさんは拉致されて6日後に、ある招待所に連れて行かれる。
招待所とは拉致被害者や工作員を住まわせるための施設のことだ。
そこで待っていたのが、14歳になっていた横田めぐみさんだった。
そのときの状況をこう振り返る。
「招待所の玄関で私を迎えてくれました。
どんな人がいるのだろうと、とても緊張していたのですが、私を見てやさしく微笑んでくれたので、緊張がほぐれホッとしたことを覚えています。
反面、妹と同じくらいの子が『どうしてこんなところにいるんだろう?』と疑問に思いましたが、そのときは何も聞きませんでした」
めぐみさんとひとみさんは、1978年から1980年にかけて、招待所を転々としながら合わせておよそ8カ月間、一つ屋根の下で支え合って暮らしていた。
「(めぐみさんは)勉強は特に熱心に取り組んでいました。
先生から教えてもらうとすぐに理解していました。
どんな勉強でも同じでした。
北朝鮮では後輩にあたる私は、めぐみさんから多くの事を教えてもらいました」
ひとみさんを支えためぐみさんの優しさ
横田めぐみさんと言えば、桜の下で寂しげな表情をしている写真を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。
実はあの写真は、水疱瘡(みずぼうそう)が治ったばかりで気乗りしないめぐみさんを、父親の滋さんが連れ出して撮った写真のため、笑顔で写っていない。
だが本当のめぐみさんは、いつも笑顔で底抜けに明るく、家でも学校でも冗談を言ったり歌ったり、まさに太陽のような存在だった。
曽我ひとみさんも、つらい監禁生活の中、めぐみさんに救われたと振り返る。
「『もみじ』や『ふるさと』などは(監視に聞かれないよう)小さな声で一緒に歌いました。
(めぐみさんは)絵がとても上手で、私の手をモデルに鉛筆で書いてくれ、それをプレゼントしてくれたこと。
丁寧に押し花を作り、それをしおりにしてプレゼントしてくれたこと。
一緒に卓球をしたこと。物品の少ない店に行ってお菓子や雑貨を選んだこと。
小さな出来事でしたが、2人にとってはとても楽しくうれしいことでした」
一緒の部屋で顔を見合わせて寝ながら、ヒソヒソと日本の思い出について話していた2人。
めぐみさんから、家族の話題が出ることもあった。
「(めぐみさんの)お父さんはとてもやさしく、お母さんはいつも香水のにおいがしていたと。
そして双子の弟はとても可愛いのよ、といつも話していました」
1980年、曽我ひとみさんは、元アメリカ兵、チャールズ・ジェンキンスさんとの結婚を機に、めぐみさんと離れて暮らすことになった。
そのときの忘れられないエピソードがある。
「めぐみさんの持ち物全部を覚えているわけではありませんが、いつも大切にしていた赤いスポーツバッグは忘れたことはありません。
私が別の招待所に移ることになったときもらいました。
いつかどこかで会えることがあったら、今も大切に使っているところを見てもらいたいと思い、買い物に行くときはいつも持って行きました」
蓮池薫さんが見ためぐみさんの苦悩
曽我ひとみさんと別れためぐみさんが、1984年頃から同じ集落で暮らすようになったのが、蓮池薫さん・祐木子さん夫妻、地村保志さん・富貴恵さん夫妻だった。
今回、蓮池薫さんが、めぐみさんとの北朝鮮での暮らしについてインタビューに応じてくれた。
「めぐみさんは、韓国から拉致されてきた金英男さんという方と結婚しました。
その後は、われわれと、地村さんと、横田さんのご夫妻と、3軒がお互いに行き来するような環境の中で暮らすようになりました。
お子さんも生まれましたし、お互いに祝日とかですね、お正月とかになると一緒に食事をしたり、時々一緒に出かけるようなときもありました。
日曜日などは、遊んでいる子どもたちを見ながら話したり、カード遊びなんかしたりしました。
閉じ込められた軟禁状態のつらさの中で、そういったことが唯一の気分転換でした」
自由のいっさいない生活の中で、同じ拉致被害者たちとの時間を通じて、なんとか気持ちを維持しようとしていためぐみさん。
それでも、抑えきれなかったのが、日本や家族への思いだったという。
「めぐみさんは、日本から持ってきたバドミントンの道具を本当に大切にしていました。
そして新聞があれば日本の記事を探していました。
とにかく、日本に対する思いが、非常に強かったのです。
だからその思いを糧に、耐えてほしい。
救いの手が届くまで、健康に注意しながら耐え抜いてほしい、家族に会える日を待ち続けてほしい、そう祈るだけです」(蓮池薫さん)
蓮池薫さん・曽我ひとみさんが考える、めぐみさんの今
では蓮池薫さん、曽我ひとみさんは、めぐみさんの現在について、どう考えているのか。
「おそらく、北朝鮮はめぐみさんを徹底的に管理しています。
日本で拉致問題の象徴のようになっているめぐみさんを、いつかは日本との交渉上、他の拉致被害者と一緒に返すことによって、局面を変える必要が出てくることも予見しつつ大事に隠している、そういう状況だと思います」(蓮池薫さん)
「(北朝鮮が伝えてきた)『死亡』ということを私は信じていません。
何らかの理由があって『死亡』と伝えたのだと思いますが、私はこれからもずっと信じることはないでしょう。
(めぐみさんは)どこかの招待所で元気に暮らしていると思います」(曽我ひとみさん)
取材班が曽我ひとみさんからいただいた手紙は、めぐみさんに向けたメッセージで締めくくられている。
「お父さん、お母さん、弟さん、そして日本国中が一日も早く帰ってくることを願っています。
だから元気でいてください。
絶対に助けに行きます。諦めずに待っていてください」