終身雇用の崩壊で令和サラリーマンに求められる「自律」
2019.6.16 ダイヤモンドonlin
中尾真二:ITジャーナリスト・ライター
令和の時代に入り、日本企業はこれまでのやり方を変えざるをえないようだ。
企業で働く従業員も痛みを伴う変革に晒される。
これは、政府や企業が旗振りする「働き方改革」というレベルの話ではない。
全ての働く人々にとって覚悟が必要となる。
(ITジャーナリスト・ライター 中尾真二)
「昭和型雇用」からの脱却が加速
直近の政財界の発言や動きを見てみると、経団連の中西会長が「終身雇用維持は企業にとってインセンティブがない」「これ以上の最低賃金の引き上げは企業がもたない」と発言。
トヨタも終身雇用について維持が難しいという意見を表明した。
富士通は45歳以上の従業員2850人あまりを対象に、早期退職や配置転換を実施した。
NECも同様のリストラ策に取り組んでいるという。
さらに金融庁は「年金では生活できないから資産運用などで自衛しろ」と警告する。
財務省の悲願である消費税増税は、逆進性が高く貧困の拡大とさらなる内需後退を招くと多くの専門家が危惧している。
どれも日本経済にとどめを刺しかねない。
トヨタ「終身雇用の維持困難」発言は政府にも向けられたもの
もっとも、トヨタの発言は、重い自動車関連税の減税措置がなければ終身雇用は守れないという、政府に対するプレッシャーでもあり、金融庁の警告は、つみたてNISAの宣伝が見え隠れしている。
終身雇用の崩壊が、雇用の流動化を招き、長期的にはプラスになるという楽観的な見方もある。
令和時代の「働き方変革」は、どんなものになるのだろうか。
終身雇用は制度疲労を起こしている
終身雇用といえば、日本型経営を特徴づける企業風土のひとつだ。
企業が従業員の家族にも深くかかわり生活を保証することで、双方が単なる労使関係にとらわれない絆で結ばれる。
このような日本型経営は、戦後の復興や高度成長期の原動力だった。
ひとつの会社に長く勤める美徳は、欧米にも通用する価値観だ。
が、様式美にこだわる日本文化の中では、時として手段であるはずの様式や儀式が、目的化する傾向がある。
これに過去の成功体験や生存バイアスが作用すると、極端に変化を嫌う文化や同調圧力を醸成する。
しかも、往々にしてその手段のほとんどは生産性や付加価値向上に結び付かない。
結果として、成果が得られない状態でも、改善や改革が起きにくくなる。
そのため日本のビジネスシーンには、現代では意味不明、あるいは生産性という面で逆効果な儀式や慣習が少なくない。
中西会長は、一連の発表の際に「終身雇用は制度疲労を起こしている」とも発言している。
昭和の経済発展の原動力となった日本式企業経営では、今日の世界情勢に追従できない。
平成にかけて日本企業のグローバル競争力が著しく低下した結果が、それを示している。
新卒一括採用にも求められる変革
レガシー化した企業文化。その筆頭が終身雇用だとすれば、それを支える新卒一括採用も同様だろう。
昭和30年代、40年代に「金のたまご」と呼ばれた中卒・高卒人材の集団就職がルーツといえる。
この仕組みもまた制度疲労を起こしているといっていい。
圧迫面接や採用に関するモラハラ、性犯罪。少し前の人材企業や仲介業者による大量エントリーシステムのマッチポンプや、学歴フィルター問題は記憶に新しい。
売り手市場の現在も、早期内定、不法な誓約書、インターン制度の悪用による就活妨害が問題となっている。
「モノタロウ」や「アスクル」が成功しているように、求人においても、ITによるマッチングシステムは相性がいいはずなのだが、仲介を行う企業は学生を商品としか見ておらず、いかに多数の企業にエントリーさせるかを競った。
そのため内定率は下がり、さらにエントリーを多くさせるという悪循環を生んだ。
企業は膨大なエントリーを大学名の入力で選別する(学歴フィルター)というような雑な採用を強いられ、学生は企業を信用できないようになる。
効率を上げるはずのマッチングプラットフォームが、企業も学生も疲弊させる構図となっている。
集まって資料を読む会議の愚
日本の会議も独特だ。
対面の会議こそ重要であり、会社で偉い人間ほど会議が多くなる、なにやら会議が多い人間ほど偉いという風潮さえ存在する。
しかも、ひとつの会議が1時間単位と長い。
移動や打ち合わせで貴重な業務時間が1時間、2時間ととられてしまう。
そんな会議が1日3つもあれば、本当の仕事は定時以降にやらざるを得なくなる。
さらに、たいてい困るのが会議室の確保だ。
会議をしようと思っても、まず会議室の確保に時間がとられる。
挙句には「業務効率を上げるために会議室予約システムを導入しました」などとなりがちだが、本当に業務効率を考えるなら、会議を減らすべきだ。
グローバル企業では、内部会議は30分単位で、対面の会議はよほど重要な案件や必要性がなければ開催しない。
そのためにオンラインのメールやメッセンジャー、クラウドが存在する。
ついでに言えば、会議書類の配布も無駄だ。
人数分の資料をコピーし、ホチキスで止める作業も発生する。
役所などはホチキスの位置や角度まで決まりがある。
書類の様式や書体まで細かく制限され、配布の順番まで指定される。
実際の会議が始まると、読めばわかることを読み上げる時間が発生する。
いかに必要のないことに労力を割いているかがよくわかる。
必要な情報や資料はオンラインで事前に共有できる。
それをチェックしたうえで会議を開けば、書類配布やレクチャーは不要だ。
会議では、事前チェックでわからない点のやりとりと意見収集だけ行って、責任者や担当者が結論を下す。
すべてがこれでうまくいくとは言わないが、意見のない者や発言しない者は会議に参加しないで済む。
人口増加は特殊な事象だった
昭和・平成時代には常識だったとしても、令和の時代に必要のないものは、あげるときりがない。
見方を変えると、こんなやり方がまかり通っていたのは、経済発展のフェーズ、いわば特別な「ボーナス期」だったからであり、無駄や試行錯誤が許されていたからともいえる。
いまよりヒトもカネもモノも少なく、経済の伸びしろが大きかった時代。
バブル期がその象徴ともいえ、特殊なボーナス期を成功体験と混同し、引きずってしまったのが平成時代だろう。
しかし、バブル以降のデフレスパイラル、少子高齢化による内需減少とマイナス成長、ネットの社会インフラ化など、周辺状況や社会の前提条件が変わった。
国内市場の大きな成長が望めない現状では、製品やサービスの輸出、インバウンド消費に期待するしかない。
これは、グローバル市場において新興国がライバルになることを意味する。
企業や組織に所属はしても、依存しない
今の経営者は、事業を次世代にしっかりバトンタッチするのを念頭に、雇われる側は、周囲の変化を待つのではなく、マインドチェンジが重要となる。
これまでのように受け身でいても国や企業は助けてくれない。
先の金融庁の「足りない分は自助を」という発表は、この点だけは間違ってはいない。
とくに20代から40代には、まだ時間がある。
NISAや確定拠出型年金もいいが、運用するほど資産がないのに儲けようとしてもやけどをするだけだ。
それより、企業や組織に所属はしても、依存しない生き方、技能や役割を見つけることだろう。
独立や副業は今後さらに重要な意味を持ってくる。
上司や先輩社員が苦言を呈するかもしれないが、彼らは現役時代、ゴルフができて宴会で裸になれるかで出世できたバブル期の人間ではないだろうか。
これからを生きる世代は先輩世代に臆する必要はない。
必要なのは自律する覚悟だ。