岩崎恭子 14歳で金メダル、今も失われた2年間の記憶
8/21(水) 日経ARIA
オリンピックというひのき舞台で輝いたスポーツ界のヒロインたちの「その後」は、意外に知られていません。
競技者人生がカセットテープのA面だとすれば、引退後の人生はB面。
私たちの記憶に残るオリンピアンたちの栄光と挫折に、ジャーナリストの吉井妙子さんが迫ります。
●「目標は決勝進出」だった14歳が手にした金メダル
―― 1992年のバルセロナ五輪で発した「今まで生きてきた中で一番幸せです」のフレーズは、27年たった今も多くの人の心にあります。
岩崎恭子さん(以下、敬称略)
あのとき14歳になったばかりで、まさか私が金メダルを獲得するなんて夢にも考えていませんでしたし、そもそも私は決勝直前まで誰からも注目されず、期待もされていなかったと思います。
実際バルセロナ五輪直前までは日本記録さえ破れていなかったし、世界のトップとは6秒近い差があり、平泳ぎ200mで6秒の差は決定的。私の目標は決勝進出でした。
ですから予選で2位になり決勝進出を決めた時は「やったー!」ってガッツポーズ。
日本代表の仲間たちも「恭子ちゃん、すごい」って喜んでくれたので、もう達成感がいっぱい。
でもコーチから「もう1回泳ぐからね」と言われ「そっか」って。
五輪の決勝戦がどんなにプレッシャーの掛かるものかあまり理解していなくて、試合直前におにぎりを5個も食べているんです。
喉を通らないという友達の分も(笑)。
状況をあまりのみ込めていないのがよかったのか、決勝当日は50mプールがなぜか小さく見えた。
そして、ゴールしたらなんと私が1位。
会場がすごく盛り上がっていて、体から湧き上がる喜びを表現しようと思い、とっさに出た言葉があのフレーズでした。
バブルが弾けた後の日本の希望の光になった
―― 五輪のたびに名言が生まれますが、いつしか記憶の底に沈んでしまいます。
でも、岩崎さんの言葉は今もなお、私たちの中に生き続けている。
ご自身ではなぜだと思われますか。
岩崎
14歳の少女が人生を総括するような言葉を発したので、そのギャップに皆さん驚かれたんだと思います。現在41歳の私が、もし突然、中学生に「私の人生の中で……」と言われたら「は?」って思いますもん。
ただ、まだ多くの人に覚えて頂いているのは、時代背景や環境などいろんな要素があると思います。
バルセロナ五輪で金メダルをとったのは私と柔道の吉田秀彦さん、古賀稔彦さんの3人だけだったので注目度が高かった。
最近でも、渡部香生子ちゃんや池江璃花子ちゃんなど若くして活躍する選手が台頭するたびに「岩崎2世」と称され、そしてあのフレーズがクローズアップされる。
またオリンピック、元号が変わるなどアーカイブ的な特集のときは必ずと言っていいほどあの発言を取り上げて頂けるので、皆さんの記憶に刻まれることが多いんだと思います。
平成から令和になるときも多くの取材を受け、ある記者の方に言われたことが印象的でした。
それは、バブルが弾け、この先、日本はどうなるのかと目に見えない不安が漂っていたときに、未来ある中学生が金メダルをとり希望の光を与えてくれからこそ、あの言葉が今でも私たちの心に残っていると。
うれしかったですねえ。
―― しかしその言葉はそれ以降、解離性健忘(非常に強いストレスにより過去を思い出せなくなる障害)になるほど、岩崎さんを苦しめました。
金メダリストになった途端に環境が激変
岩崎
そう、中3から高校1年までの記憶がほとんどないんです。
金メダリストになった途端、環境が180度変わってしまいました。
まず驚いたのが帰国時の空港。
カメラマンが何十人もいて、私が歩くたびに追いかけてくる。
バルセロナでは日本競泳陣の中でメダルをとったのは私だけだったから、取材陣が私一人に集中するのもすごく嫌だった。
でもそれはまだ序の口。
家から一歩出ると多くの人の視線にさらされ、学校の行き帰りには、見知らぬ人に何度も後を付けられました。
家の電話は鳴りっぱなしになるし、かみそりの刃を送られてきたこともあります。
それで学校の行き帰りは母が車で送り迎えをしてくれることになりました。
●心に刺さった「14年しか生きていないのに何が分かる」の声
岩崎
知らない人に「14年しか生きていないのに何が分かる」とか「私なんて何年生きていてもいいことないよ」とか声を掛けられ、今だったら「幸せと感じるのは、何歳でもいいでしょ」と思うんですけど、まだ思春期になったばかりですから、ズサズサ心を切られましたね。
また、高校は私の入学時から男女共学になったんですけど「岩崎が共学じゃないと行かないと駄々をこね、共学にさせた」とか、信じられない噂話がたびたび耳に届きました。
金メダルをとるんじゃなかったと思った日々
岩崎
多分、今ならネットでバッシングされるようなことが、その当時はインターネット環境も発達していなかったので、ダイレクトに届けられたんです。
他人の容赦ない視線がガラスの破片のように私の体に突き刺さり、噂話が私の心をむしばんだ。
「あんな言葉を言わなきゃよかった」と毎日思ったし、しまいには金メダルなんてとるんじゃなかったって。
―― 自分を守るため本能的に記憶を消したんですね。
消さなければ生きていけなかった。
岩崎
後で考えても、何に悩んでいたのかよく覚えていないんです。
忘れるくらい何もかも苦しい時期だった……。
大学で心理学を専攻し、卒論を書くときに、その頃の自分を分析しようと試みたのですが、教授に止められました。
「まだ早い。大学生の君は、当時の記憶に耐えられるほどまだ心ができていない」って。
しばらくたって中学や高校時代の友人に「あの頃こうだった、ああだった」と言われ、かすかに記憶が戻るくらいですね。 ただ、記憶がない時期は家族だけが私の支えでした。
3姉妹の次女なんですけど、私が家で普通に過ごせたのは、父や母がどれだけ頑張って私を守ってくれたか、私が母になった今、よく分かります。