昔話が図書館から消える!
『美女と野獣』は性差別的な物語!?
ポリコレ的にNGな童話の世界
2019/09/08 日刊サイゾー (ゼロ次郎)
――『赤ずきん』、『シンデレラ』、『いばら姫(眠れる森の美女)』……
誰もが知っている定番の童話に、ポリティカル・コレクトネスの波が迫っている。
4月18日付の「The Guardian」紙の報道によると、このほどスペイン・バルセロナにある複数の学校で、「ジェンダーに関する固定観念や、差別的な要素が含まれる本」を図書室から排除する動きが進んでいるという。
ある学校では、委任を受けた調査団体が幼児向けの蔵書約600冊を精査。
登場人物の発言内容と役回りを1冊ずつ調べ上げた結果、約200冊について「教育的な価値がない」との判断を下した。
海外ニュースサイト「The Local」のスペイン版によると、その中には『赤ずきん』、『シンデレラ』、『いばら姫』、『美女と野獣』といった、メジャーなタイトルも含まれている。
こうした童話で描かれる女性は「勇者である男性の救助を待っている存在」として描かれることが多く、それが男女のステレオタイプを助長してしまうと問題視されているようだ。
「幼児は身の回りに起こることすべてを吸収します。
そのため、この時期に性差別的な固定観念に触れると、それを当たり前のものとして受け取ってしまう」というのが、調査団体の主張。
しかし、その一方で前出の「The Local」が取材したある図書館職員は「古典文学には独自の価値があり、検閲は危険な行為。
行き過ぎたポリティカル・コレクトネスは、守るべきフェミニズムの価値観をかえって傷つけかねない」と、警告している。
本稿では、このようにポリティカル・コレクトネスで排除されていく童話の現状を、識者の意見を交えながら明らかにしていきたい。
スペインの判断は童話を理解していない
まず、今回スペインで下された判断について、グリム童話の専門家はどのように考えているのだろうか?
梅花女子大学大学院教授・武庫川女子大学名誉教授・日本ジェンダー学会会長の野口芳子氏はこう語る。
「スペインでの出来事については、『何を考えているんだ!』という思いです。
確かに、ジェンダーは時代や社会によって変わるもので、求められる『男らしさ』と『女らしさ』も変わっていきます。
だからといって、過去のジェンダー観が反映されている物語や昔話を排除すると、ジェンダーを歴史的に理解する機会を子どもから奪うことになります」
過去を否定するのではなく、理解することが重要ということだが、そもそもジェンダーに限らず、童話や昔話というものは常に身近な教訓の教科書でもあった。
野口氏は『赤ずきん』を例に挙げ、次のように解説する。
「1697年にシャルル・ペローがまとめた『赤ずきん』が収録されている『教訓をともなった昔話』は、当時のフランス国王・ルイ14世の姪に捧げられたものです。
ペローの『赤ずきん』は最後に赤ずきんが狼に食べられて終わりますが、彼は19歳の貴族の令嬢に向けて『若い娘が知らない男の言葉に耳を貸すと、食べられてしまうよ』という、自身の身を守るための『教訓(モラリテ)』が付いた『昔話』を書いたのです」
時代がくだり19世紀、『グリム童話集』に収録された『赤ずきん』は、口承で語り継がれた性的な部分を削除し、より教育的な側面が強くなったという。
「ドイツのグリム兄弟に『赤ずきん』を伝えたのは、ハッセンプフルーク家という良家の娘たちでした。
一家はフランス移民で、父親が州知事を務めるくらいでしたから、貴族向けに書かれたペローの昔話も知っていたはずです。しかし、グリム兄弟の『赤ずきん』の内容はペローとは異なります。
グリム版では祖母と娘が食べられて終わるのではなく、猟師によって救出される話になっているのです。
さらに、その経験を生かして、今度は祖母と2人で狼をやっつけるという、後日談も入れています。
つまり、悪い狼にやられた経験を生かして、やり返した娘と祖母の話として提供されているのです。
この後日談は初版から入っており、あとで書き加えられた話ではありません。
要するに主人公の成長、イニシエーションを語る昔話としての『赤ずきん』が提供されているのです。
というのも、グリム兄弟の『赤ずきん』の想定されていた読者層は貴族ではなく、市民だったからです」(同)
このように伝承を改変し、良いしつけを意図した一般市民の近代的な価値観に合わせて描かれていたはずの物語が、21世紀に入ると教育現場から排除される可能性も出始めたというわけだ。
それでは、スペインの調査団体は、こうした物語の本質を理解していないということなのだろうか?
「(調査団体が批判している)『男による女の救出』とか『女は男に頼らないといけない存在』といったメッセージは、そもそも『赤ずきん』にはないのです。
フランスのロワール地方に流布している口承のバージョンでは、赤ずきんは狼に食べられるのではなく、知恵を絞って狼を出し抜きます。
人狼(ブズー)に食べられそうになると『おしっこがしたい』と言って家の外に出て、逃げられないように狼によって足に結ばれた紐を、赤ずきんはスモモの木に結びつけて、一目散に逃げます。
騙されたと気づいた狼は追いかけますが、間に合いません。
ここでは赤ずきんは無知で騙されやすい少女などではなく、知恵を絞って狼を出し抜く賢明でたくましい娘です。
つまり、生産者である中世の農民の姿が反映されているのです。
近代の消費者としての女性には『おとなしく、従順で、かよわい』ジェンダーが求められますが、中世の生産者としての女性は『賢く、勇敢で、したたかな』ジェンダーが求められています。
このように昔話を読むことで、ジェンダーは『時代によって社会によって変遷する』ということが学び取れます。
それによって、その時代のジェンダー観に縛られることなく、『もっと自由に生きていいのだ』という、気持ちを子どもが感じ取ることこそが、本当のジェンダー教育ではないでしょうか。
だから、今のスペインの動きは間違っていると思います」(同)
いつの時代も行われてきた童話の改編
グリム童話研究の第一人者から、手厳しい声が上がるスペインの判断。
『昔話にみる悪と欲望――継子・少年英雄・隣のじい』(青土社)などの著作を持つ、千葉大学名誉教授の三浦佑之氏もこの動きに批判的だ。
「出版されたのは過去のものなんだから、それをあろうことか、図書館が進んで『ダメな本です』と、喧伝するのは非常に良くない。
童話に限らず、図書館はあらゆる本を提供する場所で、利用者は読みたい本を自由に選ぶ権利がありますから、本来であれば、たとえ殺人を教唆するような内容であっても、過去の本はすべて公開するべきでしょう。
その一方で、子ども向けの本は教育と密接に関わりますから、物語の内容が教育上よろしくないという理由で規制がかかったり、時代によって新しい装いを取ったりということは、しばしば行われてきました。
特に戦後は、戦前までの教科書に使われていた物語が禁止とされました。
太平洋戦争後、GHQによって検閲された『桃太郎』はいい例ですよね。
このように物語を排除する、あるいは、残酷な表現はやめて、もっとやさしい内容に書き換えるといったことは、いつの時代も行われてきたと思います」
『桃太郎』は戦時中、その内容から軍国主義の普及とスローガンに利用され、「桃太郎が真珠湾を攻撃する」というアニメまで制作されたが、その結果として戦後は教科書から消えてしまった。
書き換えに関しても今回、スペインで排除の対象となったグリム童話も、前述したようにさまざまな口承をグリム兄弟が市民道徳に合うよう“調整”し、不純な性描写や残酷描写を取り除いた結果、今でも世界的に親しまれる作品になった。
また、現在、絵本や児童書として市場に出回っている昔話は、今の価値観にアップデートされたものがほとんどだろう。
「多くの昔話は作者がいるわけでもないし、決まった形が定められているわけでもない。
そのため、口伝によってバリエーションが増えて、変わっていくんです。
変わっていくというのは、面白く変わっていくこともあれば、前述の『桃太郎』のように政治的な意図をもって変えられることもあり、誰かの都合によって変えられることもある。
しかし、基本的には、そういった流れを淘汰できる物語だけが残っていくわけですから、今回のスペインのように一方的に昔話を規制するのはあってはならないことです」(同)
今回のスペインにおける動きは世界中で報道され、議論を巻き起こしている。
しかし、このようなポリティカル・コレクトネス的な観点に基づく童話の規制運動は、90年代から欧米諸国でたびたび起こっていた。
例えば1990年には米国・カリフォルニア州の教育関係者が『赤ずきん』をやり玉に挙げ、結果として2つの校区で禁止される出来事があった。
問題視されたのは「おばあちゃんへの贈り物に含まれていたワイン」である。
具体的には、未成年にアルコールを扱わせたこと、狼がワインを飲み干して顔を赤くする描写などが「教育上よろしくない」とされた。
魔女のクレームで禁書寸前に?
さらに米国では92年にも、グリム童話の名作『ヘンゼルとグレーテル』に対し「魔女の品位を貶めている」と、クレームがついた。
しかも、声を上げたのは自称「魔女」の女性。
いわく、「この物語は『魔女を殺し、その所有物を盗んでも問題はない』という考えを植えつける」
「魔女は子どもを食べたりしないし、黒帽子に長い鼻といったイメージも実態とは異なる」とのこと。
さすがに、この訴えは黙殺されたが、地元の小学校ではヘンゼルとグレーテルを殺人罪の被告とした模擬裁判が行われるなど、思わぬ反響があった。
近年では2017年、SNS上で「#MeToo」ムーブメントが盛り上がる中、イギリスの主婦が『いばら姫』の、王子による目覚めのキスを問題視。
「禁止しろとまでは言わないが、(自分の息子が属する)小学校低学年のカリキュラムからは除外すべき」と、提言して炎上騒ぎとなった。
この『いばら姫』について、野口氏はこう語る。
「グリム版のキスによる目覚めには性的な意味ではなく、口から生命を吹き込むという意味があるのです。
西洋昔話では『キス』は精神的な愛を意味し、肉体的な『性交』を意味するものではありません。
フランスのペロー版『眠れる森の美女』では、王子はキスをせず、姫と性的関係を持ちます。
イタリアのバジレ版『太陽と月のターリア』では、妻帯者の王は眠っているターリアを犯して妊娠させます。
『あまりに美しいので、愛の果実を摘み取った』と詩的な文章で書かれていますが、要はレイプしたのです。
このバージョンを問題視するのならまだしも、グリム版のキスを問題視するのは見当違いです。
グリム兄弟は結婚前に妊娠出産する南欧の『眠り姫』バージョンを、結婚後に出産する北欧の『いばら姫』バージョンに改変したのです。
それによってグリム童話は広く市民社会に受け入れられてきたのです」
木を見て森を見ず、とはまさにこのことである。
このように物語の本質を理解しないまま、表面的な部分だけを見て排除してしまうのは、文化の破壊ともいえるのではないだろうか?
「童話や伝承の中に今の常識では理解できない部分はあったとしても、それを拒否するとか、なくしてしまおうとすることは許されないでしょう。
例えば日本には『瓜子姫』という、ウリから産まれた瓜子姫が天邪鬼に連れ去られて木に吊るされる、あるいは殺されてしまうといった内容の民話がありますが、この物語は今の時代からすると、完全に児童虐待であり、堂々と人前で話せるものではないと思います。
しかし、『こんな小さな女の子がなぜ、むごたらしく死ななければならない?』といったように、その時代の中で少女の置かれていた立場といったことを考えるには、この物語はひとつのヒントにはなるかもしれない。
もっと強引に言えば、現代の女性に対する性差別を考える、ひとつのきっかけを与えるかもしれません」(三浦氏)
前出のスペインの調査団体も、6〜12歳の小学生児童については「物語を批評的に分析する能力が備わっており、性差別的な要素に自ら気づくこともある。
本はそういった学びの機会を与える」と、一定の理解を示している。
だが、スペインで起きたような童話排除の動きは今後、世界にも波及するのだろうか?
「スペインの場合でも図書館がどういう経緯でこの判断に至ったのかは、ニュースなどでは詳しく書かれていませんが、子どもにどういう物語を与えればいいのかは人によって立場が違うし、『この本やめよう』となったら、その時点で図書館に入らないわけですから、ないとはいえない。
知らないところで、見えない規制は、すでに行われているのではないでしょうか。
図書館運営の中心になってくるのは司書ですから、彼ら/彼女らの判断によるところが大きくなりそうですね。
とはいえ、誰かが決まった形を作るよりも、自然のなりゆきに任せるのが本来の昔話のあり方なんじゃないでしょうか?
みんなが面白いと思ったものが後世に語り継がれていくわけで、『これはダメ、これはOK』というのは、誰かが上から決めるものではないと思います」(同)
ポリティカル・コレクトネスを重視するのも、ひとつの時代の流れではある。
しかし、それにかこつけて臭いものに蓋をするような対応は、過去だけでなく未来あるいは書物そのものをも冒涜する行為であることは肝に銘じておくべきだ。
(月刊サイゾー7月号『ヤバい本150冊』より)