「反社の定義は困難」…
もはや安倍政権は「末期症状」というしかない
12/12(木) 現代ビジネス(伊藤 博敏)
「定義は困難」というご都合主義
政府は、10日、「桜を見る会」で改めて問題となった反社会的勢力(反社)に関し、「その時々の社会情勢に応じて変化し得るものであり、限定的かつ統一的に定義することは困難」とする答弁書を閣議決定した。
立憲民主党の初鹿明博代議士の質問主意書に答えたものだ。
入れ墨の入浴写真をSNSにアップしている人物が、「桜を見る会」で菅義偉官房長官とツーショット写真を撮っていることが判明。
以降、安倍晋三首相や菅氏が、国会や記者会見で反社との関係、反社と「桜を見る会」に関して問われることが多くなり、耐えかねたように「定義は困難」としてしまった。
とんでもない「逃げ」であり、「ご都合主義」である。
反社の定義とは?
政府は、07年6月、「企業が反社会的勢力による被害を防止するための指針」を公開した。
その際、示された反社の定義は、以下のような属性を持つものとされた。
・暴力団
・暴力団関係企業
・総会屋
・政治運動標ぼうゴロ
・社会活動標ぼうゴロ
・特殊知能暴力集団
このうち明確に認識できるのは、暴力団と総会屋だった。
いずれも組織に属していることを隠さない。
その「看板」が、シノギ(収入)に直結するからで、取り締まる警察サイドも容易に構成員を把握できた。
だが、それも「昭和」の時代までで、「平成」に入ると、総会屋は商法改正で追い詰められ、暴力団は暴力団対策法によって食えなくなっていった。
既に両者は絶滅危惧種。
かつて1万人はいた総会屋は数十人と激減。
8万人を超えていた暴力団の構成員は、1万5600人(18年末)となった。
いずれも正体をさらしていたから放逐されたのであり、逆に見分けがつかない暴力団関係企業、政治と社会の活動ゴロ、特殊知能暴力集団は、その実態も含めて見極めが難しく、減ってはいない。
しかし、企業は「指針」が公開されて以降、コンプライアンス(法令遵守)を強化、社内管理体制を整え、取引先のチェックを入念に行い、暴力団排除条項を設けるなどして、関係遮断に努めてきた。
官公庁も入札などから暴力団関係企業の排除に努め、個人であってもプロスポーツ選手、歌手、芸能人など社会的影響力がある人物は、交際を断たねばならなくなった。
島田紳助氏の事例が示すこと
だが、現実に選別は難しい。
暴力団系企業が、資本や役員から暴力団の色を消せば判断は難しく、運動標ぼうゴロといっても正当な活動との見極めは容易でない。
振り込め詐欺や違法金利の闇金、株価操縦の仕手筋などを特殊知能暴力集団というのだが、そういう連中に限り、表向きは立派なオフィスと経歴の立派な役員を用意、取引相手や投資家を欺いている。
それでも、行政、企業、個人は、それぞれに反社との関係を遮断、関りを持たないように注意を払ってきた。
特に、11年に暴力団排除条例が全国施行されてからは、反社との密接交際者(社)は、反社の側に認定されることになり、反社同様、表社会から“抹殺”されることになった。
その端的な例が島田紳助氏で、ほかにも富士通元社長の野副州旦氏が反社との関係で辞任に追い込まれるなど、企業も個人も本気の取り組みを余儀なくされた。
コンプラ強化が暴力団系企業を増やす
だが、一方で、反社の側にも取材対象者の多い私は、それがどれだけ困難な取り組みかを痛切に感じていた。
暴力団と認定されては食えないために、暴力団構成員は続々と引退、不動産、金融、飲食、芸能などそれぞれの分野でカタギの生活を始めている。
通常は、引退後、5年で暴力団登録を外すということになっているが、現実には「元暴力団」の肩書は、一生ついて回り、表社会から排除されないためには、自身は裏に回らざるを得ない。
つまり、コンプラ強化の時代は、暴力団系企業を逆に増やす。
また、かつては暴力団に収斂されていた世代が、暴力団では食えないために、半グレとなり、企業を立ち上げ、暴力団と同じ力を背景にのし上がっている。
これも反社だが、認定は容易ではない。
国家が、厳しく反社との決別と対決を国民に要求、それにコンプラ強化という形で応えてきたのが、指針公開後の12年だった。
宮迫博之の闇営業を笑えない理由
だが、反社認定の難しさという矛盾が生んだのが、吉本興業の闇営業である(闇社会を長年取材をしてきた私が「吉本興業騒動」を笑えない理由)。
私が、宮迫博之の闇営業を笑えないのは、その認定の難しさであり、文中の結語にも書いたように、<何をもって反社とし、どこまでの関係が許されるのか。
その統一した考えを持つべき時に来ている>のである。
つまり、強化すべきは、「反社の定義」の再考であり、厳格化である。
ところが政府は「定義は困難」という現実に逃げた。
これでは、反社排除というルールのなか、右代表のような形で、排除されていった島田、野副、宮迫などの各氏は立つ瀬がない。
また、行政や企業がコンプラ強化のための整備にかけた費用や時間が、意味のないものになりかねない。
「花見を見る会」の反社も同席した“緩さ”は、人気商売の政治家が抱える宿命のようなもので、反社にも人権と1票はある。
「安倍1強」の批判者である私も「桜を見る会」に「安倍枠」で出席。
その“緩さ”は、先週、お伝えした(「桜を見る会」に「首相枠」で出席した私が抱く大きな違和感)。
だが、その活動を認めないという「国家の指針」が、反社を招いて批判されたからといって、「定義は困難」と、揺らいではいけない。
ご都合主義もここに極まる。
政権の末期症状というしかない。