昭和28年生まれの小だぬきの少年時代とオーバーラップする「戦争漫画」
戦争描写の中での 命の描き方、戦争の虚しさ・犯罪性・・。
「紫電改のタカ」には 今も影響を受けています。
高度成長期に大ブーム…反戦平和教育と共存した「戦争漫画」の遺産
1/14(火) 現代ビジネス(神立 尚紀)
戦争によって焦土と化した日本が、徐々に復興し、高度成長期を迎えた頃、少年たちを熱狂させたのは、その戦争を題材とした漫画だった。
学校では、反戦・平和教育が徹底されていた時代に、なぜこのような「戦争漫画」ブームが起こったのか。
その興亡からは、戦後日本の複雑な容貌が見えてくる。
かつて、1960年代をピークとして、少年漫画誌に太平洋戦争中の日本海軍の戦闘機「零戦」や陸軍の戦闘機「隼」が飛び交い、「紫電改」が乱舞する時代があった。
軍用機だけではない。当時の少年誌を眺めて見ると、戦艦「大和」、戦車、自衛隊、忍者、馬賊(旧満州で暴れ回った賊。日本人の頭目もいた)……といった、いまでいうミリタリーや歴史を題材にした活劇風の絵が、当時大人気だったプロ野球の長嶋茂雄や王貞治、大相撲の大鵬などとともに表紙を飾っている。
当時の子供たち(小だぬきも)がどんなものに関心を持っていたか、手に取るように伝わってくるではないか。
怪獣や特撮ヒーローものが人気を博す以前、少年誌にアイドルタレントの水着写真が載るなど、まだ考えられもしなかった時代のことである。
この時期にはまた、いくつかの出版社から、少年向けの戦史全集が出ていて、通して読めば、戦争の全体の流れがそれなりに頭に入るようになっていた。
何より、執筆・監修者の多くが、当時存命だった元参謀クラスの軍人や、講談社の『少年版・太平洋戦争』シリーズの山岡荘八のような、従軍経験を持つ一流作家だったから、子供向けとはいえ、ずいぶん贅沢なものだった。
少年漫画誌も、1960年代には中身の3分の1近くが読み物ページである。
戦記本の出版で知られる潮書房光人新社の前身、潮書房光人社の元会長・故高城肇氏も、『週刊少年マガジン』(講談社)に「空の王者ゼロ戦」その他の連載を持っていて、そんな記事はいま読んでも読み応えがある。
こんな本や雑誌にリアルタイムに胸を躍らせた子供たちの世代は、現在、還暦前後だろうか(小だぬき66歳)。
ときを同じくして発売されるようになった軍用機や軍艦、戦車のプラモデルの人気も、ブームを後押しした。
男の子なら誰でも日本陸海軍機や戦艦の名前、大戦中の主要作戦がすらすら言えた世代。
実際、これぐらいの年配の人に、いまも熱狂的な軍用機、軍艦やプラモデルのマニアが多いようである。
町に「軍隊経験者」が溢れていた時代
こんな、戦後一時代を築いた少年雑誌の戦争漫画は、いつ生まれ、どのように消えていったのだろうか。
昭和20(1945)年8月15日、日本の敗戦とともに、それまで一般には知らされていなかった軍事機密の暴露記事が新聞各紙をにぎわせるようになった。
たとえば、「紫電改」という戦闘機の名前と存在を明らかにしたのは、昭和20年10月6日の朝日新聞がおそらく最初である。
続いて、人間魚雷と呼ばれる特攻兵器「回天」、パナマ運河爆撃に出撃するはずだった潜水空母「伊四百型」、エンジンとプロペラを機体後部に載せた斬新な前翼型の戦闘機「震電」などの存在が次々に報じられる。
10月22日の毎日新聞では、〈秘密の翼 終戦期の海軍新鋭機〉の大見出しで、紫電改をはじめ海軍の新鋭機が写真入りで特集され、〈生産競争に惨敗 質は世界の最高水準〉と、やや負け惜しみ的な中見出しとともに紹介されている。
ところが、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が9月21日に発布したプレスコード(報道統制規則)が効力を発揮するようになり、11月、民間航空全面禁止の指令が出されるとともに、新聞からも旧軍の飛行機に関する記事が消えた。
それから5年。
昭和25年、GHQによる日本の航空運航禁止が解除されることが決まり、昭和26(1951)年9月、サンフランシスコ平和条約が調印された前後から、太平洋戦争を回顧する本の出版が急増、航空雑誌や旧軍機の記事も息を吹き返す。
プレスコードが失効し、すでに日本国憲法によって保障されていたはずの「表現の自由」が実現したのは、平和条約が発効した昭和27(1952)年4月28日のことだった。
昭和28(1953)年、出版協同株式会社から出版された『坂井三郎空戦記録』(実際の執筆者は同社社長の福林正之)が大ベストセラーになる。
戦争前期、まだ優勢を保っていた時期に連合軍機をバタバタと撃ち墜とす零戦の姿は、同じ年に始まったテレビのプロレス中継で、外国人の巨漢レスラーを空手チョップでなぎ倒す力道山と同じように、敗戦で「ガイジン」にコンプレックスを抱く多くの日本人を熱狂させた。
いわば、零戦の20ミリ機銃は、力道山の空手チョップのような「必殺技」であったのだ。
戦争が終わり、新憲法が公布、施行され、GHQによる占領が解かれても、人の価値観や体験から得た皮膚感覚は、10年や20年で変わりきれるものではない。
20歳で終戦を迎えた旧軍人なら、昭和30年で30歳、40年で40歳、50年でも50歳の、働き盛りの年代である。
昭和38(1963)年、大阪生まれの筆者自身の卑近な例で言えば、子供の頃の昭和40年代、ふだん接する近所の商店主や、「おっちゃん」と呼ぶ年配の男性のほとんどに軍隊経験があり、「ワシは徐州の会戦(昭和13年)に出たんや」「ワシはこう見えて陸軍少尉で爆撃機に乗ってたんやぞ」「ワシは上等兵曹で空母『龍驤』や戦艦『扶桑』に乗っとった』などの回顧談の多くは、いささかの誇張を交えた武勇伝だった。
中華民国軍との戦いで、敵弾が鉄兜(ヘルメット)に命中、貫通せずに鉄兜のなかをグルグル回り、頭に鉢巻状の傷痕が残る菓子職人もいた。
その人は、このときの体験がもとで、やや気が変になっていた。
――ともあれ、学校で先生が教える、戦前、戦中の日本や旧陸海軍を全否定するかのような(それはそれで歴史から目を背ける問題をはらんだ)反戦・平和教育と、日常、身近な大人から聞く戦争の姿には、「戦争はいけない」という結論は同じでも、けっして小さくない落差があったのは事実である。
そして前者のいわば「建前」と、後者の「本音」とのはざまにこそ、戦記本が読まれる土壌があった。
少年漫画誌の隆盛で、一躍ブームに
漫画の世界でも、昭和30(1955)年、光文社の月刊誌『少年』で連載が始まり、のちにテレビアニメ化されたロボット漫画の嚆矢「鉄人28号」(横山光輝作)は、そもそもの設定が、太平洋戦争末期、日本陸軍が起死回生を期して開発していた秘密兵器である巨大ロボットが戦後に現れて活躍する話で、やはり戦争の影響は無視できない。
昭和34(1959)年、『週刊少年マガジン』(講談社)、『週刊少年サンデー』(小学館)が発刊され、少年漫画誌がブームになった頃からは、それまで主に大人の読み物だった戦記ものが、漫画となって子供の世界にまで降りてきた。
「戦争漫画」という括りにしてしまうと煩雑になるので、飛行機がメインの「空戦漫画」にかぎって、どんな漫画があったかというと、代表的なものはまず「ゼロ戦レッド」(貝塚ひろし・『冒険王』秋田書店、1961年7月号〜1966年1月号連載)、「0戦太郎」(辻なおき・『少年画報』少年画報社、1961年9月号〜)であろう。
貝塚ひろし、辻なおきは空戦漫画の二大作家と呼ばれ、その後も貝塚は「ゼロ戦行進曲」「烈風」「ああ、零戦トンボ」、
辻は「0戦はやと」「0戦仮面」「0戦あらし」と、空戦漫画を描き続ける。
作風は、貝塚が、得意とするスポーツ・魔球ものの野球漫画のテイストを色濃く感じさせるものだったのに対し、
のちに梶原一騎とともに「タイガーマスク」を世に出す辻は、少年撃墜王を主人公に、そのライバル(たいていいやなヤツ)、そして敵役をわかりやすく描き分け、どちらかといえば講談や時代劇に近いものだった。
「0戦はやと」は、昭和39(1964)年、脚本の一部と主題歌の作詞を「北の国から」などの作品で知られる倉本聰が担当し、テレビアニメ版がフジテレビから38話にわたって放映されている。
前線からかき集められた撃墜王ばかり36機の世界最強の戦闘機隊が、荒唐無稽ともいえる活躍を見せるプリミティブな空戦活劇だが、締め括りのナレーションに「これだけは絶対忘れまい、敵も味方も人間であることを」という言葉が入るなど、ヒューマニズムにも一定の配慮が感じられる内容になっていた。
ほかにも、月刊漫画誌『ぼくら』(講談社)に昭和38(1963)年10月号から39(1964)年8月号にかけ連載された、現代の天才パイロットが、父の形見の「ゼロ戦二十一世紀」と名づけた零戦を駆ってライバルや悪の組織と戦う「大空三四郎」(原作・高森朝雄〈梶原一騎〉、漫画・吉田竜夫〈タツノコプロ創始者〉)、『少年サンデー』に昭和37(1962)年から38(1963)年まで連載された、少年航空兵が陸軍の一式戦闘機「隼」を駆って活躍する「大空のちかい」(九里一平〈タツノコプロ第3代社長〉)など、この時代には星の数ほども戦争漫画が生まれ、それぞれに人気を得た。
だが、そんな戦争漫画の中から代表的な作品をひとつ挙げよ、といわれれば、筆者は躊躇なく「紫電改のタカ」(ちばてつや)を選ぶ。
異彩をはなっていた「紫電改のタカ」
「紫電改のタカ」は、『週刊少年マガジン』に、昭和38(1963)年7月から40(1965)年1月まで連載され、子供ばかりでなくその親の世代にも人気を博した、ちばてつや唯一の戦争漫画である。
零戦や隼が縦横無尽に活躍する漫画のなかにあって、「紫電改のタカ」は、明らかに異彩を放っていた。
あくまでもバーチャルな世界、奇想天外なところがあるのは、同時代の他の漫画とさして変わらない。
しかし、決定的に違う「何か」があったのだ。
その差は、ひと言でいうと、人間性の描写にあったと思う。
他の作家が、登場人物のキャラクターを「説明」してしまうところ、ちばてつやのそれは「描写」の域に達していた。
つまり、余計な台詞や説明的なカットがなくとも、登場人物それぞれの個性が際立ち、素直に読者に伝わってきた。
これは、当時20歳代半ばだった作者の天稟によるものだろう。
簡単にあらすじを紹介すると、主人公は滝城太郎一飛曹(のち飛行兵曹長)。
四国松山出身、おはぎが大好物である。
松山には母と、幼馴染で滝に思いを寄せる信子がいる。
滝の属する七〇一飛行隊は多数の敵機との空戦で壊滅、滝を含む4名の生き残りは、松山の三四三空に配属され、度重なる戦果を挙げるが、最後は特攻隊員として出撃する。
――あらためて目を通しながら、「紫電改のタカ」のあれこれを考察してみる。
といって、これは論文でも作品解説でもない。
筆者の私的な感想文に近いものであるということを、あらかじめお断りしておく。
太平洋戦争末期の台湾・高雄基地。
「そこには名機紫電で編成された七〇一飛行隊があった」というところから、物語は始まる。
隊長が「白根少佐」であることからも、舞台設定が実在の戦闘第七〇一飛行隊であることは確かだろう。
実戦前の猛訓練に、不平たらたらで宿舎に帰った紺野一飛曹たち若い搭乗員が、隊長の悪口を言うのをたしなめる新入りの滝。
生意気な登場の仕方である。
滝は、緊急指令で敵重爆撃機B-17を邀撃、編隊から単機離れて、急上昇、急降下の戦法でいきなり2機を撃墜、初戦果を挙げる。
この戦法はのちに「逆タカ戦法」と名付けられた。
だが七〇一飛行隊は、次の出撃で敵グラマン戦闘機の大編隊との空戦で壊滅、滝と紺野一飛曹、久保一飛曹、米田二飛曹の4人だけが島に不時着して生き残る。
そこで彼らは米軍に虜われるが、滝の機転で危地を脱し、浜辺に隠してあった紫電で脱出。
そして味方占領下の島の上空で、またも敵の大編隊と遭遇、空戦に入る。
滝はここで「黒いウォーホーク」(P-40。米陸軍戦闘機)を操る凄腕の少年パイロット、ジョージと対戦する。
からくも勝利して万歳で地上部隊に迎えられた滝を待っていたのは、「マツヤマキチヘスグカエレ」との「カイグンシレイ ゲンダミノル」からの電報だった。
滝を呼び戻した「源田司令」はいわずもがな、実在の源田實大佐だが、「紫電改のタカ」連載開始の前年、1962年に源田元司令は参議院全国区に自民党から出馬、73万票を集めて当選している。
源田氏がこの漫画を見た感想を聞きたかったものである。
新鋭機・紫電改のテストのため横須賀に飛んだ滝は、そこでも空襲に来た敵艦上機群を邀撃、逆タカ戦法で戦果を挙げる。逆タカ戦法は、急降下で突然、敵の視界から姿を消し、下から撃ち上げ、上空に抜けてさらに急降下で上方攻撃をかけるという戦法で、滝機を見失った敵機は「オオ ナ、ナンダ」とか「イマハヤリノ忍術ヲツカッタノカ?」などと言いながらうろたえるばかりで、回避動作もせずに巡航を続ける。
多いときはこれの反復攻撃で13機を撃墜したほどの恐るべき戦法だ。
この日の空戦で、敵海軍機の中に1機だけ、「滝と対決するために」陸軍機の黒いウォーホークでまぎれてきたジョージと宿命の一騎討ち。
しかしジョージは、割り込んできた1機のオンボロ零戦に撃墜されてしまう。
この零戦を操縦していたのは、菅野大尉。
実在の戦闘三〇一飛行隊長・菅野直大尉とは似ても似つかぬ髭のおっさんに描かれているが、作品のキャラクターとしてはいい味を出している。
海に墜ちて助かったジョージは、やはりこの日、撃墜されて捕虜になった兄・トマスを救出すべく、同じ地点に墜ちた黒岩上飛曹との格闘を制して、横須賀基地内にあると設定された収容所に乗り込み、兄を助けて欲しいと滝に懇願するも、黒岩の裏切りで射殺されてしまう。
この黒岩というのは「予科練の優等生」だったという設定だが、じつにわかりやすい「いやなヤツ」である。
どさくさに米兵捕虜たちは脱走するが、その責任も黒岩が滝になすりつけ、滝は憲兵隊(集英社版の単行本では警務隊)に連行されるのだった。
滝は憲兵(警務)に暴行を受けるが、黒岩とジョージの格闘を目撃していた久保一飛曹の証言で釈放される。
悪が滅びるのは少年漫画の習い、黒岩はやがて、今度は三四三航空隊(またの名を剣部隊)編成の源田司令の訓示の最中に、松山上空にふたたびやって来た黒いウォーホークを見て、恐怖のあまり発狂する。
この飛行機に乗っていたのは、弟の復讐にやってきたトマスだった。
黒岩はトマス機との空戦で命中弾を浴びせるが、体当たりされて戦死する。
ここで注目すべきは、作者が「友軍=善玉、敵軍=悪玉」というとらえ方から完全に自由であることだ。
この場合、悪いのは黒岩で、ジョージやトマスではない。
敵も味方も、いいヤツはいいヤツとして、悪いヤツは悪いヤツとして、等しく人間的に描かれているのだ。
しかも、悪いヤツに関しても、最後にはフォローすることを忘れていない。
このあたり、のちのちばてつやの代表作、「あしたのジョー」にも共通するものがあろう。
ラストに凝縮された作者のメッセージ 物語は、息もつかせぬ展開を見せる。
トマスと黒岩が死んだ晩、突然、松山基地上空は多数の気球に覆われる。
気球の先には、空気中の振動を敏感にキャッチして爆発する「YBひみつ爆弾」が吊り下げられていた。
敵は、松山基地の戦闘機を封じている間に、呉軍港に空襲をかけてきたのだ。
このとき、滝はとっさの機転で気球を撃退、敵機を気球の下に追い込んで全滅させ、その功により二階級進級、准士官である兵曹長に任じられた。
そして、菅野大尉に力量を見込まれて、スマトラ帰りの「七人のさむらい」と呼ばれる搭乗員たちの隊長に抜擢され、下士官搭乗員と同じ兵舎で起居をともにすることになる。
生きながらにして二階級進級の栄を受けた搭乗員は現実にはいないから、これはあくまで漫画のなかの話。
「七人のさむらい」は、若い滝を侮って、ことあるごとに反抗する。
そのリーダーは花田上飛曹。
滝は、「一飛曹のころのほうが楽しかった」と涙で枕を濡らす。
やがて滝以下11名の搭乗員に、台湾近くの島にある秘密基地への進出が下令される。
ここでは紫電改ならぬ高速モーターボートで敵艦隊を壊滅させ、任務を終えて帰ってきた滝は、太陽に向かって飛ぶことで敵機を幻惑する「新戦法」を編み出し、一日の空戦で24機を撃墜、さらにその戦法に磨きをかけるべく、訓練に明け暮れるのだった。
不死身に思えた滝の肉体も、そろそろ限界に近づいてくる。
ちょうどその頃、不気味な縞模様の入ったP-51戦闘機を駆るタイガー・モスキトンと呼ばれる米軍パイロットが、遭遇した日本機を片っ端から撃墜していた。
撃墜王・坂井三郎中尉がモスキトン撃墜を滝に託そうと、特別製の黒い紫電改を届けにくるが、そこで滝は、坂井中尉に体の不調を見抜かれ、日本アルプスの山中で静養を命じられる。
だがこれは、静養に名を借りた、モスキトン撃墜のための秘密訓練であった。
滝が許しを得て、大分基地に移動した部隊の元へ帰ったとき、花田上飛曹が滝に無断で黒い紫電改に乗ってモスキトンと対決するため出撃する。
花田は結局、モスキトンに敗れ、なんとか基地に帰還したところで事切れる。
翌朝、モスキトン撃墜の決意も新たに、滝が出撃する。
滝VSモスキトンの死闘は、この作品のクライマックスである。
激闘の果てにモスキトン機を撃墜したと思ったら、滝はもう1機の同じ迷彩の敵機から射弾を受ける。
モスキトンは、兄弟のパイロットが2人1役、つまり2機で単機を装い、日本機が一方に気をとられている隙にもう1機が奇襲をかける戦法をとっていたのである。
残る1機に命中弾を与え、不時着させてみると、そのパイロット(モスキトン兄)は滝と変わらない年頃の少年だった。
彼は、真珠湾攻撃のときに家族を日本機に殺され、復讐のため戦闘機パイロットになったが、「オレハモウ日本人ヲニクンデイナイヨ――オマエノヨウナヤサシイ日本人モイルコトガワカッタカラダ」と言い残し、拳銃で自決してしまう。
滝に残ったのは、前途有為な若者を死なせた無常感のみだった。
「戦争ってなんだ? なんのために戦争をやるんだ? どこのだれがこんなばかげたことをはじめたんだ?」と苦悶する滝は、戦争が終わったら学校の先生になって、子供たちに、戦争がいかに恐ろしいものであるかを教えてやるんだ、と決意する。
だが、そんな滝を待っていたのは、特攻出撃の命令だった。
滝は、「自分の死が祖国日本を救うことになるのだということばを信じようと努力しながら」、死出の旅に出る。
ちょうど滝が出撃した頃、母と信子が、滝に面会のため、好物のおはぎを持って大分駅に到着していた――。
実際の三四三空は特攻を出していないが、そんな重箱の隅をつつくようなことを言っても始まらない。
滝の確認できる撃墜機数を、全部で67機(+協同撃墜多数)と数えることも空しい。
「信じながら」ではなく「信じようと努力しながら」、滝は死んでいかねばならなかったのだ。
作者のメッセージは、まさにこのラストシーンに凝縮している。
連載開始時のキャッチコピーは、〈いよいよはじまった日本一の戦記まんが! 〉。
確かに始めのうちは、少年漫画らしい痛快アクション劇に近い感じであったものが、ジョージが理不尽な死をとげる頃から、戦争への疑問を投げかける雰囲気へと、だんだんトーンが変わってくる。
同時に、誌面に掲げられる、楽しげで威勢のいいキャッチと作品の内容との間に乖離が目立つようになってくる。
おそらく連載中に、編集部や出版社の営業サイドの意図を超えたところで、作者が滝城太郎を通じて内面的にも成長をとげ、作品も自立するようになったのではないか。
モスキトンが出てくる頃には、はっきり反戦的といえるほどに、作者の視点が定まっているが、最終回においてもなお、『少年マガジン』には〈雨の日も風の日も、紫電改を操縦して大活躍する滝城太郎! わらいと感動で、人気最高の航空戦記まんが! 〉というキャッチがつけられていて、やや痛々しい思いがする。
同じ号の特集は、「アメリカ第七艦隊のすべて」。
少年誌にはつきものだった懸賞も、「マンモス戦車大懸賞」だった。
ブームに冷水を浴びせた事件
そして、「紫電改のタカ」連載終了の3年後、戦記漫画ブームに冷水を浴びせる事件が起きた。
「あかつき戦闘隊」懸賞問題である。
「あかつき戦闘隊」は、相良俊輔原作、園田光慶画、前編(パゴス島編)、後編(特攻編)に分かれ、『週刊少年サンデー』(小学館)で昭和43(1968)年から44(1969)年にかけて連載された。
「紫電改のタカ」と双璧をなす、空戰漫画の名作とも呼べる作品だ。
前編の物語は、新任中尉の八雲剛一郎が新鋭機紫電に乗って、南洋のパゴス島という、ならず者パイロットばかりが集められた「あかつき戦闘隊」が配備される小島に、隊長として赴任するところから始まる。
パゴス島は、地上にある飛行場は見せかけのオトリで、実際の滑走路は海面に浅く隠れた「まぼろしの滑走路」と称する秘密基地だった。
経験不足の八雲は部下たちにナメられ、手荒い洗礼を受ける。
だが、自ら階級章を外し、部下に真摯に教えを乞う八雲の姿に、部下たちも次第に心酔するようになってゆく。
パゴス島は敵機の来襲や艦砲射撃にさらされ、隊員たちは櫛の歯が欠けるように戦死。
ついに秘密基地であることが敵に見破られ、生き残りがたった4人となって、撤退を決意する。
だが、まさに飛び立とうとしたところに敵機が来襲。
八雲は爆薬を抱えて駆け出し、自らを犠牲にして部下の脱出の時間を稼ごうとしたが、それを察した部下の神虎吉一飛曹(河内の床屋のせがれ)が八雲から爆薬を奪い取り、着陸してきた敵機もろとも爆死してしまう。
残った3人は、ボロボロになった戦闘機を操縦してパゴス島を後にした。
後編では、大尉となった八雲が、あかつき戦闘隊の生き残り・今三太郎二飛曹とともに、潜水空母イ-400(モデルは「潜水空母」伊号第四百潜水艦)に乗ってレイテ決戦に参加。
イ-400は敵駆逐艦「ホワイトウルフ」との激闘で傷つき、戦艦「大和」の盾となって敵の魚雷を受け沈没。
上空から掩護するため発進した八雲も、敵機の大群との空戦で撃墜され、ただ一人生き残った今二飛曹は「大和」とともに内地に帰還する。
問題になったのは、『少年サンデー』昭和43(1968)年3月24日号で同誌がキャンペーンを張った「あかつき戦闘隊大懸賞」の商品の中身である。
ミリタリーグッズで知られる中田商店がスポンサーになり、1等がなんと日本海軍の兵学校生徒制服・制帽・短剣、刀帯のセット、2、3等がアメリカ軍コレクション、4、5等がドイツ軍コレクション(ナチス旗、鉄十字章)。
当選者総数は240名だった。
これが「少年誌における軍国主義の復活」につながるとして、児童文学者たちが抗議の声を上げ、小学館および中田商店に懸賞の撤回を求める「要望書」を出した。
このことが3月15日の朝日新聞朝刊社会面で報じられたのを皮切りに、20にものぼると言われる、いまで言う「市民団体」が小学館に圧力をかけたのだ。
少年漫画誌全体が軍事ものに偏りすぎていた時期であり、抗議の声にも理がないではなかったが、昔もいまも、こういう「市民団体」の出す要望や抗議の類は、表現の自由と相反する「価値観の一方的な押し付け」と紙一重のものであることに変わりはない。
しかも連日、入れ替わり立ち代わり抗議に押し寄せてくる。
小学館も閉口したに違いない。
3月29日になって出された小学館の回答は、賞品の撤回には言及せず、「懸賞商品が、戦争推進の材料とならないように以下のように十分な配慮を行う」として、「当選者発表に際して、商品名の表示は行わない」「当選者に送付する際に商品についての解説を送付する」というものだったが、学校によっては「男子全員が葉書を出した」と言われるぐらい、多くの子供たちが応募したにも関わらず、当選して賞品が送られてきたという話はついぞ聞かれなかった。
懸賞問題が影響したものか、「あかつき戦闘隊」の完結編として書かれた(若木書房版単行本まえがきで、原作者が言及している)はずの「本土決戦編」は、掲載も刊行もされず、幻に終わった。
そして、さしもの戦争漫画ブームも、収束に向かう。
少年誌として最後発でスタートした『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)が、辻なおきの「0戦あらし」(昭和47年)、貝塚ひろしの「烈風」(昭和48年)を連載したのをほぼ最後として、戦争漫画は、メジャー系出版社の週刊少年誌の連載という場からは姿を消していった。
同時に、読み物が多かった少年誌も、漫画主体のより軽いものへと変化していった。
昭和44(1969)年頃から、松本零士が「戦場まんがシリーズ」の短編漫画を不定期に発表、のちにオムニバス形式のアニメーション作品(OVA)となり、名作として熱狂的なファンがつくようになるが、これは系譜としては「あかつき戦闘隊」以前の戦争漫画とは別のものであろう。
反戦・平和教育と戦争漫画が共存した時代
戦争漫画は以後、細分化されたマニアックな部分で生き残っていくことになるが、ディテールに凝るあまり、人間性が置き去りにされているように感じるのは筆者だけだろうか。
近年では、実在の人物や兵器が、タイムスリップものや、美少女キャラクターの擬人化ゲームや漫画のモチーフにされ、当事者や遺族の心情とはかけ離れた独特の世界を構築している。
そのことの是非をここで論じても始まらないが、軍隊経験のある人が現役の社会人として身近にいた時代なら、こんなふうにはならなかっただろう。
と言って、いまどき半世紀前のノリで戦争を描いても、世間一般に受け入れられるとは思えない。
時代は変わる、としか言いようがないのかもしれない。
戦争漫画衰退の理由はいくつか考えられる。
一つには、時期を同じくして現れた特撮変身ヒーローものがそれに取って代わったこと。
次に漫画自体の幅が、ギャグあり、心霊・怪奇ものあり、恋愛ものありと急速に広がり、雑誌のなかで戦争ものの価値が相対的に下がったこと。
「あかつき戦闘隊問題」で、出版社の姿勢が慎重になったことも否定できまい。
そして、昭和47(1972)年の日中国交正常化。
上野動物園にパンダが贈られ、中国共産党政権との友好一色だった当時の世相では、それまで人気のあった、馬賊をテーマにした「おれは馬賊」「馬賊のすべて」などという特集記事はもはや組みづらい。
「パンダが戦争漫画を滅ぼした」というのはオーバーだとしても、それまで国内だけに目を向けていた出版社側にも、一定の配慮は働くようになったのではないか。
ここまで紹介した戦争漫画の単行本の多くや少年向け戦記全集も、昭和50(1975)年頃までは地方のどこの本屋にも置いてあり、「キディランド」のような子供のおもちゃ店でさえ、日本陸海軍の軍帽、階級章などの軍装品を店頭に並べていた。
それらもいつしか店頭から姿を消し、いまの40歳代以下の男性になると、よほどマニアックな人は別として、戦争漫画を読んで育ったという人はほとんどいないのではないだろうか。
戦争漫画のブームがよかったのか悪かったのか、筆者にはわからない。
ただ、戦後、反戦・平和教育と戦争漫画が共存する、そんな時代もあったということは、知っておいてもいいだろう。
戦争漫画で育った世代が生んだ名作
――だが、ここへきて、従来の戦争漫画とは全く別の形で、戦争の時代を描いた漫画とその映画作品が脚光を浴びている。
「この世界の片隅に」。
こうの史代が『漫画アクション』(双葉社)で平成19(2007)年から21(2009)年にかけ連載した漫画を、片渕須直監督が映画化。
平成28(2016)年11月の公開以来、3年を超えるロングランとなり、令和元(2019)年12月20日には、新たなエピソードを加えた「完全版」とも呼ぶべき「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」が、全国で公開されている。
広島に生まれ、呉に嫁いだ主人公の「すずさん」を通して、戦時下の庶民の日常、ささやかな喜び、否応なしに迫りくる戦争の恐怖、そのなかで生き抜く人々の強さを丹念に描いたこの作品は、思想信条を超えて多くの人々の共感を呼んだ。
原作が素晴らしいものであったのは間違いない。
同時に、片渕監督の細部にまで妥協を許さない姿勢が、原作の世界観を損なうことなく、光の当て方や見る角度次第でいくつもの色に輝く映像作品を作り上げた。
この映画の凄さは、当時の記録をもとに、その日の実際の気温で画面に蝶を飛ばす、飛ばさないを決めるほど徹底した取材、調査、考証に基づいて作られていながら、それらを一切誇示していないところだ。
気づく人は少ないと思うが、呉が空襲を受ける場面で、敵艦上機を追って一瞬映る紫電改の豆粒ほどの機体も、よく見れば主翼の空戦フラップがちゃんと作動していたりする。
一事が万事で、物語自体はフィクションであっても、ディテールに神は宿る。
万人に受け入れられる間口の広さと、気づく人だけが気づけるディープな描写とが両立していて、だからこそ、何度観ても新たな発見があり、熱心なリピーターを呼ぶのだ。
「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」と、かつての戦争漫画とでは「戦争」の描き方が全く異なり、作品のなかで両者の間に関連性を見出すことはできない。
だが、片渕監督は、知る人ぞ知る零戦、大戦機研究の第一人者であり、かつての戦争漫画に触れて育った世代でもある。
その時代に子供だった人が、半世紀のときを経てこの作品を生み出したと考えれば、「自分の死が祖国日本を救うことになるのだということばを信じようと努力しながら」出撃した「紫電改のタカ」の滝城太郎も、以て瞑すべし、と言えるのかもしれない。 (文中敬称略)