2020年01月14日

安倍政治、漂流する最長政権の内実 その限界と欠落する二つの要素

安倍政治、漂流する最長政権の内実 その限界と欠落する二つの要素
2020/01/14 全国新聞ネット

 安倍晋三首相は新年恒例の伊勢神宮(三重県伊勢市)を6日に参拝した。
その直後の記者会見で、夏の東京五輪・パラリンピックを挙げ「この歴史的な年を日本の新時代を切り開く1年にしたい」と高々と宣言した。

首相は昨年11月19日、近代以降の内閣制度の下で最長在任日数となった。
もっともそこに祝賀ムードはなかった。
「桜を見る会」では自身の公私混同が厳しく問われた。
自衛隊を派遣する中東の情勢は緊迫化し、カジノを含む統合型リゾート施設(IR)事業を巡る汚職事件は元内閣府副大臣の逮捕に発展、捜査の行方は見通せない。

 政権に向かう国民のまなざしは厳しさを増している。
20日に召集される通常国会では、越年したこれらの問題から逃れられないだろう。
最長政権となった安倍政権のこれまでを振り返りながら、波乱が想定される政権の行く末を考えたい。(東京大学教授=牧原出)

 ■問われる首相の「風格」
 長期政権と言えば、戦前では日露戦争を首相として指導した桂太郎、戦後では高度経済成長後半期に沖縄返還を成し遂げた佐藤栄作をはじめ、伊藤博文、吉田茂、小泉純一郎、中曽根康弘が居並ぶ。
これら名宰相と比べ、首相安倍晋三にそれほどの高い評価を与えることができるかと言えば、やはり疑問が多い。

 首相の公私混同は、夫人の振る舞いを制御できないことや、森友・加計学園問題など、さまざまな局面で見られる。
首相自らヤジを飛ばして陳謝したり、厳しい質問では答弁に詰まったりする場面は国会の風物詩と化し、直近の国会では与党が首相を国会に登場させないよう国会運営で配慮し始めている。
最長在任の首相に本来あるべき「風格」がないのである。

 ■長期政権の源泉
 何がこの政権を長期政権へと導いたのか。
首相安倍を支える政治家・官僚のチームの組織力は見逃せない。
さえた知性に乏しい首相をチームが幾重にも補ってきた。
経済産業省出身者で脇を固め、経済政策アベノミクスを練り上げるなどこれまでにない突破力と、危機管理にたけた警察出身官僚を中心に防御力を磨いてきたのである。

 最長在任首相となった今、問われるべきは「安倍1強」と呼ばれる政治現象がどこから生まれたかである。
そこには、政権交代が二重の意味で関わっている。

 第一には、言うまでもなく、09年に民主党政権を誕生させた政権交代と、12年の政権交代による現政権の誕生だ。
二度の政権交代後、政権陥落を防ぐことは、自民党内で強いコンセンサスとなっている。
与党は首相の足を引っ張るのではなく、協力して選挙を勝ち抜くことで、与党の座を守ろうと必死になっている。
 これが、自民党という政党から見た政権交代への対処であったとすれば、
もう一つの見方は、安倍自身から見た政権交代だ。
07年の参院選で大敗して政権を投げ出したことが、政治家安倍にとって最大の挫折だった。
その後の福田康夫・麻生太郎政権は、自民党総裁による政権であったとはいえ、野党に奪われたのに近い失意と悔恨をもたらすものでしかなかった。
 07年の失脚からの復活こそが、12年の総裁復帰と政権奪還を図る過程における安倍の一貫した問題意識だったのだ。  

■意図せず長期化、欠落する長期的発想と人材
 個人的屈辱からの克服と、民主党からの政権奪還という二つの意味において政権交代を果たし、成立したのが第2次以降の安倍政権なのである。
現政権は「戦後レジームからの脱却」「美しい国」といった1次政権で顔を出していた復古的要素を脱色した。

代わりにアベノミクスを中心とするデフレ克服施策を前面に打ち出し、外交面では、1次政権で挫折した集団的自衛権を限定的に認める憲法解釈の変更も進めた。
 ここまでが、政権が当初温めていた政策構想であったとすれば、15年夏でこれら政策はほぼ実現したことになる。
その後は、1年から2年間隔で行われる衆・参院選に合わせ、毎年のように1年限りの政策を打ち出すという短期政権のようなスケジュールをこなさざるを得なかった。

 戦後の長期政権との決定的な違いはここにある。
歴代の長期政権は多数の有識者と各省幹部によるチームが、諮問機関やワーキンググループを通じて、中長期的視点からそのときどきの課題に対処してきた。
そうでなければ、講和独立、沖縄返還、民営化、バブル破綻後の産業再生などおよそ不可能だった。

 現政権は、麻生副総理兼財務相・菅義偉官房長官を双頭に、前述の通り官邸官僚が支える体制が強固に作られてはいる。
ただ政策が次々繰り出される現状を見ていると、長期的発想を持つ人材が、安倍政権には不在であるかのようだ。
短期的発想しか持たぬまま、半ば意図せざる形で首相の在任期間が最長となってしまったのだ。

 ■「思考停止」状態のアベノミクス
 確かに場当たり的な政策が目につく。
地方創生、一億総活躍、働き方改革、全世代型社会保障制度改革など目標は極端でありながら、地味で小粒な施策に終始している。
アベノミクスも異次元緩和の継続の先は思考停止したかのようである。

外交では一見熟練したようだが、風格に乏しい首相は、国家安全保障局と外務、防衛両省の十分な支えがあって、ようやく交渉も可能だったというべきだろう。
 個人的な信頼関係もやはりトランプ米大統領との関係に限られる。
中国の海洋進出に対抗し、法の支配に基づき地域の安定と経済発展を目指す「自由で開かれたインド太平洋」構想は21世紀の日本にふさわしい外交方針だ。
ただ安倍首相が進めたと言うよりは、長期政権のもとでとにもかくにも継続できたことで実りつつあると言うべきであろう。

 ■政策選択の幅を広げるが、針路を決める力は不足
 まるで近視眼的で効果に乏しい政策の羅列のようだ。
にもかかわらず、この7年間を大きく見渡せば、20世紀の日本政治とは局面の異なる政治への転換を促しているのも事実だ。
多くの政策が、これからの日本にとって、政策選択の幅を広げる点で一貫している。

 アベノミクスという経済政策の転換は、円高基調であった為替レートを円安基調へと転換し、定着させた。
輸出産業にとって有利な条件を整え、人口減に転じた時期に観光産業を活性化させ、日本社会の門戸開放を進めた。
外国人労働者の受け入れを広く認める政策も同様だ。

日本社会の多様性が格段に増したわけではないが、その条件が整備されたのである。
 また、集団的自衛権を容認する憲法解釈の変更は、激しい反対運動に直面しながらも、安全保障法制の立法にこぎ着けた。もっとも政府は集団的自衛権を行使することには慎重で、ごく限定された条件下とはいえ、米国との防衛協力は進んだ。

 14年と19年の二度の消費増税に、首相自身は必ずしも積極的ではなかったようだが、民主党政権末期に自公民で結んだ「三党合意」を、延期を重ねながらも履行した。
5%の消費税率は10%となり、今後の税制改正はさらなる上昇もあれば、1%程度減税する可能性もあり得るだろう。

 そして、天皇退位である。
明治以降の天皇制が想定していなかった退位は、現上皇の強い意志で国民に提案され、圧倒的多数の支持のもと、今回限りの特例として粛々と退位と新天皇即位の手続きを進めた。
今後天皇は、生涯在位するという従来のスタイルを堅持することもできる一方、国民の支持とともに退位するという選択の余地も残した。

■過渡期のまま終焉に向かう安倍政権の宿命
 長期政権であればこそ、自らの発案であるなしにかかわらず、政治の基本軸となる争点について、選択の幅を広げたのは成果である。
だが残念ながら、短期的思考に制約され、長期的な視点で今後の方向性を示すことはできていない。

政権が新たに取り組んだと自ら主張し、6日の会見でも最重要課題に掲げた全世代型社会保障改革は、年金支給開始年齢の問題といった微修正にとどまり、抜本的な改革へと方向付けているわけではない。
経済政策、安全保障政策、財政政策、象徴天皇制のいずれも方向付けるのは、ポスト安倍政権か、その後の政権となるであろう。
 選択の幅を広げる政治的コストは覚悟して払ったものの、日本の針路を決定づけるほど、世論の先頭に立つ勇気には欠ける。
それが安倍政権なのだ。
長期政権のまま長大に過渡期の中で漂流し、その過渡期のまま終えざるを得ない宿命にあるかのようだ。

■静かな退陣なら大収穫、投げ出しも
 この長期政権をどう終えるかは、第1次政権で屈辱的な退場を演じた安倍首相にとって関心事の一つであることは想像に難くない。
その意味で、自民党総裁任期満了を来年秋に控えた今年1年の政権運営はとりわけ大きな意味を持つだろう。

 桜を見る会で現れた政権の公私混同ぶりは、もはや隠しても隠し通せない問題になっている。
公金を使った行事に地元後援会の関係者を多数出席させていたことは「身内びいき」との印象を国民に与えたし、個人情報を理由に招待者名簿の公表を拒む姿勢は、森友・加計学園問題や自衛隊イラク派遣部隊の日報問題でも繰り返されてきた光景だ。

 憲法改正では、6日の会見で「私自身の手で成し遂げていく考えに全く揺らぎはない」と強がってみせたが、世論の盛り上がりに欠ける上、参院では「改憲勢力」が3分の2の議席を既に失っており、実現可能性はほぼないだろう。
首相が仮に衆院の解散・総選挙に踏み切ったとしても現状の議席を確保できる保証はなく、憲法改正がより遠のく可能性すらある。

 外交で成果をアピールことはできるだろうか。
中東情勢は8日、イランによる米軍駐留のイラク基地へのミサイル攻撃で緊張が一気に高まった。
北朝鮮の非核化問題や米中の貿易対立も混迷を深め、安倍首相の仲裁で華々しく解決することなどほぼ不可能だ。

 国民からの信頼感が摩滅する中で、社会保障制度改革や財政再建といった地味な課題に今後どこまで向き合えるかで、この長期政権の評価が決まる。
その帰結が静かな退陣であれば政権にとっては大収穫であり、一歩間違えれば第1次政権と同様、激しい糾弾を受けた「投げだし」もあり得るだろう。
posted by 小だぬき at 14:37 | 神奈川 ☀ | Comment(2) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

故・日野原重明さんは、あの「地下鉄サリン事件」でどう行動したか

故・日野原重明さんは、あの「地下鉄サリン事件」でどう行動したか
1/13(月) 現代ビジネス

「とにかく助ける」
 誰の人生にも、大きな決断を求められる瞬間というのはやってくる。
そういうときにこそ、人間の度量が試されるものだが、元聖路加国際病院院長の日野原重明さん('17年に105歳没)にとって、それは'95年に83歳で遭遇した「地下鉄サリン事件」だった。

内科医として、聖路加看護大学の学長や、国際内科学会会長などの要職を歴任してきた日野原さんは、80歳にして院長への就任を請われ、無給で職務にあたっていた。
 3月20日の午前8時30分、日野原さんはいつもどおり朝の6時40分に自宅を出て病院に出勤し、7時半から幹部を集めた定例の会議を開催していた。
そこに、事件の一報が届く。

 「地下鉄で、大きな爆発事故が起きたようだ」
 8時40分には、病院内に緊急の呼び出しがかかり、医師たちが救急センターに集まってくると、救急車がけたたましいサイレンを鳴らしながら、次々と患者を運んできた。
 「目が痛い」と泣き叫ぶ人がいれば、すでに心肺停止の人もいる。

 「いったい、何が起こっているのか」
 目を覆いたくなるような光景に、日野原さんは絶句した。
当時、聖路加病院の救急部の医員として現場に立っていた奥村徹氏が回想する。

 「火事か爆発かという話だったのに、実際に患者が来てみると、誰も煙を見ていないし、爆発音も聞いていない。
みんなが『なにか、おかしいな』と考えている間にも、重症や重体の人々が次々と運ばれてくる。
 普通、心肺停止の人は瞳孔が広がるものですが、それがあのときの患者は全員が『縮瞳』といって、小さくなっていた。『これは異常だ』と現場も動揺していました」

 今でこそ、そうした健康被害がサリン散布の影響によるものだったことは広く知られているが、事件直後にその状況は明らかになっていない。
 何もわからぬまま、集まってくる患者の数は刻一刻と増えていく。
パニックになってもおかしくはない状況のなか、日野原さんはベテラン医師らしい冷静さで状況を見極めていた。

 「何が起きているかはわからないが、いまはとにかくこの患者さんたちを助けるしかない」

「責任は自分が取る」
 一度腹をくくると、日野原さんの動きは年齢を感じさせないほど早かった。
すぐさま緊急事態宣言を出し、その日の外来診療の受付を中止。
すでに麻酔のかかっていた患者を除くすべての手術を延期してオペ室を空けた。
 短時間の間に約100人の医師と、300人の看護師や助手、そして聖路加看護学校の学生も含め、病院の総力をあげて緊急態勢を整えた。

 ちなみに当時、建て替えられたばかりだった病棟は、大災害の発生を見据えた日野原さんの要望により、壁面に酸素の配管が2000本近く張り巡らされ、収容所として使えるように広いロビーや礼拝堂施設まで設けられていた。
こうした環境が、応急処置場として活用されることになる。

 「日野原先生は、あれだけの人なのに権威主義的なところがまるでなくて、院内で『ひのじぃ』とあだ名される存在でしたが、あのとき見せたリーダーシップは素晴らしかった。
 『来た患者さんは責任を持って聖路加で診る。断るな』と基本方針を決め、『最終的な責任は俺が取るからあとは自由にやってくれ』と。
現場を信頼し、すべてを任せてくれた。
おかげで、みんなが持てる力を尽くして処置にあたることができました」(前出・奥村氏)

 日野原さんはまず、外科系の副院長に「トリアージ」を実施させた。
これは、患者の症状を見極めて、重症、中症、軽症にわけ治療の優先順位をつけていくというもの。
 患者の生死を左右するため、一瞬の判断力が要求される。
平時の医療現場では行われることはないが、サリン事件のように症状の程度が違う患者が次々と搬送される状況には不可欠の処置だった。

 そして内科系の副院長には原因の究明を指示
看護部長を兼務した副院長には、退院できる患者を退院させて治療のスペースを確保させた。

「救える人を救うのは当たり前じゃないか」
 こうして、トップとしての決断が必要な部分で的確な指示を出すと、あとは部下たちに任せて、病院内を飛び回った。  

「外部に対する情報の公開も迅速でした。
混乱している患者さんや一般の人たちに向けて『いま、何が起きて、どこまでわかっているのかをすぐに伝えなくてはダメだ』と、10時半には緊急の記者会見を開いた。
 運ばれてきた患者さんたちに向けては、状況を説明した小さな紙を作って随時配布していました」(奥村氏)

 この一日だけで聖路加国際病院は640人の患者を収容、事件後1週間で対応した延べ患者数は、約1600人にのぼった。  

のちに病院のある日比谷線の築地駅は、小伝馬町駅、霞ケ関駅に次いで多くの被害者が出た駅だったことが判明する。
全病院をあげて患者を受け入れるという日野原氏の見事な決断がなければ、犠牲者はもっと増えていただろう。
 「あとになって『いろいろな病院に分散して治療するのが正しかったのではないか』と批判する声もありましたが、日野原先生はどこ吹く風という感じでした。
『緊急時に救える人を救うのは当たり前じゃないか』という感覚だったのだと思います」(奥村氏)

 そしてこの経験は、日野原さん自身のその後の人生にも大きな変化をもたらした。
翌'96年に院長を退き、理事長に就任すると、自らの経験を世の中に伝える活動に精を出すようになったのだ。
 生前、日野原さんが死の直前まで連載を続けていた雑誌『ハルメク』の副編集長・岡島文乃氏が回想する。
 「晩年まで信じられないような過密スケジュールの中で仕事をされていました。
内科医として診療の現場にも立っていたし、各地で講演もたくさん入っていた。

 『医療の最新情報はやっぱり向こうに行かないと手に入らない』と、年末にはかならずアメリカに出張もされていた。
あまりにもお忙しいので、お昼ご飯のあいだや、移動中の車内などで話を聞かせていただくことも度々でした」

誰のために100年を生きるか
 なぜ、そこまでして働き続けるのか。
日野原さんは「召命」という言葉で表現していた。

 「『この命は人のために生きるよう授かったものなのだ』ということでした。
お父さんが牧師さんなので、キリスト教の考え方もあったと思いますが、いっぽうで、地下鉄サリン事件など医師として立ち会った極限の現場で見たことが、先生の人生観に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。
 本当に立派な方でしたが、チャーミングなところもたくさんありました。
講演会でも『いくつですかと聞かれると、いつも65歳と答えちゃうんですよ』なんて冗談を飛ばして会場をドカンドカンと沸かせていた」(岡島氏)

 むろん、誰もが日野原さんのように、最晩年まで働き続けることができるわけではないし、無理をしてまで誰かに尽くそうとする必要もないだろう。
 だが、「何歳からでも創めるのに遅くはない」と説き続けた日野原さんの生きざまは、我々に勇気を与えてくれる。

 「今のように『人生100年時代』と言われるずっと前から、
日野原先生は『人はいくつになっても変わることができるのだ』と信じ、自身も最期までそれを実践された方でした。
 『より良く生きたいという思いを抱き続ける人にこそ、幸せは訪れる』。
先生の言葉を、私は生涯忘れることはないと思います」(岡島氏)
 105年という途方もない道のりを、鮮やかに駆け抜けた一生だった。

 週刊現代
2019年12月28日・2020年1月4日合併号より
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☀ | Comment(0) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする