日本に「未曾有の事態」を乗り越える力はあるか
東日本大震災で学んだことを未来につなげる
2020/04/11 東洋経済オンライン
井上 岳一 :
日本総合研究所創発戦略センターシニアスペシャリスト
9年前、東日本大震災の発災から1カ月程が過ぎた頃にボランティアで宮城県石巻の被災地を訪れた。
何もかもが破壊され、ぐしゃぐしゃになった被災地の様子を見て、津波の破壊力の凄まじさを知った。
あれから9年。
いま、被災地を訪れると、その変わりように驚く。
津波に押し流されたかつての漁師町は区画整理された更地となり、見渡せたはずの海は防潮堤に遮られている。
もとの東北とは違う風景がそこにはある。
あの震災で何を学んだのか
風景を変えてしまうほどの巨大な防潮堤を建設することの是非は、震災直後から議論になっていた。
しかし、津波の悲惨さを経験した人々は、少しでも安心できる道を選んだ。
いや、どこまで選んだという実感を1人ひとりが持てていたのかはわからない。
どこか自分のあずかり知らないところで、あずかり知らない力によって決まっていったのだと言う人もいるし、あの時はそれが正しいと思えたのだ、と言う人もいる。
確かに言えることは、あの状況の中、住民の総意を束ねることなどできようがなかったし、冷静な判断を下すことも不可能であったということだ。
だから防潮堤の是非を今更とやかく言うつもりはない。
ただ、海を見えなくさせている防潮堤の存在を見るたびに思うのは、私たちはあの震災で何を学んだのだろう、ということだ。
20世紀のテクノロジーは、人間や自然の限界を克服し、あるいは自然の脅威から人を守るために使われてきた。
1972年に田中角栄が発表した『日本列島改造論』の、「改造」という言葉には、山を削り、海を埋め立て、コンクリートで塗り固めることで、この列島を好きなように作り変えることができるのだという強い自信なり自負なりを感じる。
国土は変えられる。
国土の限界を我々は克服することができる。
そう私達は信じて、この列島の山野河海にコンクリートを注ぎ込み続けてきたのである。
だが、東日本大震災によって、私達の自信は脆くも崩れ落ちた。
どれだけ「改造」を施したところで、私達は自然の脅威から自由になることなどできないのだということを思い知った。
地震、噴火、津波、台風、洪水、山地崩壊。
これら全てを人為で、技術の力で防ぐことは現実的には不可能だ。
資源が少ない国土の制約を乗り越えるための切り札とされてきた原子力についても、それを使いこなすだけの技術も知識も持っていないことが露呈してしまった。
私達は東日本大震災から多くを学んだはずだ。
しかし、巨大な防潮堤は、この列島を改造し直し、技術の力で再武装すれば、自然の脅威から身を守れるのだと主張しているように見える。
もしそうだとすれば、私達はあの大震災から一体何を学んだのだろう。
私は最初のボランティアから毎月のように東北の被災地に通い続けている。
通い続ける中で気づいたことがある。
東北地方に存する自然の圧倒的な豊かさだ。
時に牙を剝くにしても、人を生かすに足る圧倒的な自然の豊かさがそこにはある。
自然のポテンシャルに満ちた国
人間の活動にとって制約であり、克服すべき対象として見られてきた自然とは別の、豊穣で恵みに満ちた側面を東北の自然に垣間見るにつけ、何とこの地は豊かなのだろうと思う。
東北に通い続ける中で、東北の自然のそういう側面に魅せられるようになっていったが、果たして震災が起きる前、そのことをどれだけ認識していたのだろう。
あの震災によって発見し、認識し直したのは、この列島の自然が持つ破壊力の凄まじさと共に、生きとし生けるものの生命を支えるポテンシャルの高さ、生命にとっての生きる場としての豊穣さだった。
いかに災害と隣り合わせの危険な国に住んでいるのかということを思い知らされたのと同時に、いかに自然のポテンシャルに満ちた国であるのかということを再認識させられ、私は、そのことにこの国に生きることの希望を感じるようになったのである。
以来、日本の各地を巡りながら考え続けてきたことを、先般、『日本列島回復論――この国で生き続けるために』にまとめた。
その中に、9年前に東北で見たある光景の描写がある。
私は、その光景を見た時に感じた希望、この国の可能性を多くの人と共有したいと思った。
以下、該当部分をここに引用させて頂く。
* *
東日本大震災から1カ月ほどが過ぎた4月の終わり頃、ボランティアとして宮城県石巻市を訪ねました。
南三陸町との境にほど近い石巻市郡部の海岸沿いは、津波に流され通れなくなっていた道路を、自衛隊が何とか通したというところでした。
このため、リアス式海岸沿いの、湾ごとに点在する小さな集落は、それまで支援の手が届かない孤立集落となっていたのです。
現地で緊急支援にあたっていたボランティア団体から、手が回っていないので、そこに支援物資を届けてほしいと言われて、そのうちの一つの集落を訪ねたのですが、実際に行ってみて驚いたのは、そこの集落では、漁師のお父さん達が中心になって、皆で助け合いながら、和気藹々と生活していたことでした。
停電はしていましたが、漁船に積んでいた発電機を利用して電気は使えていましたし、ガスはもともとプロパンの地域ですから、コンロとボンベを直結して、問題なく使えていました。
裏は杉山ですから、いざとなれば薪はいくらでもあり、煮炊きにはまったく困らない状態です。
また、被災地で一番困るのがトイレと水ですが、山と海に囲まれた場所ですから、自然のトイレで用が足りてしまうし、水も、震災後に裏山の沢から引いて作ったお手製の簡易水道で使い放題。
おまけに、瓦礫の中から拾ってきたという風呂桶に簡易な小屋をかけ、脱衣場を備えた共同浴場まで手づくりしていました。
その直前までいた石巻の市街地では、たくさんのボランティアが入って、支援物資も潤沢でしたが、電気もガスも水道も使えず、多くの人が不便な避難所生活を強いられていました。
処理しきれない汚物やゴミを詰めたビニール袋が溢れ、津波が運んできたヘドロの臭いと相まって、衛生状態はかなり劣悪でした。
孤立集落で目撃した共同体の力
しかし、郡部の孤立集落では、ボランティアもおらず、支援物資もないけれど、住民たちは、毎日お風呂に入ることができ、ゴミや汚物とも無縁な、清潔で快適な生活を送ることができていたのです。
もちろん、完全に孤立し、支援物資も届かなかった間は、それなりに大変だったようですが、その時も、流されなかった家に残った食べ物を持ち寄って、皆で均等に分け合って何とかしのいだそうです。
この孤立集落と出会った時の衝撃はいまだに忘れられません。
そこで目撃したものは、何よりも共同体の力でした。
昔からそこに住んできた人達ゆえの結束力の強さと助け合いの力の凄さ、それが第一に感じたことでした。
まるで集落全体が一つの家族と化しているようで、“つながり”とか“コミュニティ”と言った都会的な言葉では言い表せない、“共同体の絆”とでも呼ぶしかないものが、そこにはありました。
私は学生時代から山村調査で各地の村に入り、村落共同体のことを研究していましたし、紀伊半島の小さな集落に一年半にわたって住んだ経験もあるので、共同体の世界はわかっているつもりでした。
しかし、非常事態に直面した時に共同体が発揮する力は想像以上でした。
同じ石巻市でも、市街地にはこのような強固な共同体はありません。
普段から海と山に囲まれた狭い湾の中で肩を寄せ合うようにして暮らしてきた人達ならではの結束力なのでしょう。
このような共同体の力に加えて印象的だったのが、自然の力、特に森の力でした。
森には木と水と土があります。
木があれば、薪で暖をとったり煮炊きをしたりできるし、小屋もかけられます。
水は命の源であるだけでなく、炊事洗濯洗浄に使えるので、健康で清潔で文化的な暮らしをもたらしてくれます。
そして土は、生ゴミや糞尿を土に戻してくれるため、悪臭やゴミとは無縁の生活をかなえてくれます。
市街地の避難所がどこもゴミの山となって、悪臭が漂っていたことを考えると、このゴミや糞尿を受け止め分解してしまう土の力は、人間にとって、本当にかけがえのないものだと心の底から思いました。
それだけではありません。
木と水と土からなる森には、春には山菜が芽吹き、秋にはキノコや木の実が実り、野生鳥獣たちが1年を通じて暮らすのです。これらもまた森の恵みです。
恵み豊かな森さえあれば、私たちは、とりあえず食べていける。
そう考えると、森はいざという時に頼れるセーフティネットと言えるでしょう。
三陸海岸のように、森と海が隣接していれば、なお言うことはありません。
山の幸だけでなく、魚介や海藻などの海の幸に恵まれるからです。
豊かな森と豊かな海があれば、人は狩猟・採集・漁撈で十分に生きていけます。
実際、原日本人とも言える縄文人は、山野河海の恵みだけで1万年以上もの長きにわたって高度な文明を築いて暮らしていくことができたのです。
日本列島を豊かにする「山水の恵み」
日本列島に豊かに存する山野河海の恵み。
それをここでは「山水の恵み」と呼ぶことにします。
東北地方、とりわけ世界でも屈指の漁場に面した三陸沿岸は、この山水の恵みにあふれた日本列島の中でも、特に恵まれた場としてあり続けたところです。
山水の恵みは、ただし、それを生かす技術を人の側に要請します。
「Into the Wild」という映画があります(ショーン・ペン監督、2007公開)。
人間嫌いの青年が、人間の穢れのない正常な場所での暮らしをしようとアラスカの大地を目指す物語ですが、この青年は、狩猟採集の技術が乏しかったため、動植物に恵まれたアラスカの大地で、なんと最後は餓死してしまうのです(実話です)。
鳥獣を射止め、さばき、腐らせたり虫がわいたりしないように干し肉や燻製にする技術、食べられる植物かどうかを見分ける技術、怪我や病気に対処するための薬草の知識等々、山水の恵みを生かすには、山水に対する知識と技術が必要です。
そういう知識と技術がない人には山水は厳しい存在になりますが、逆に、知識と技術さえあれば、山水は恵みに満ちた存在となります。
孤立集落で出会った漁師達は、山水の恵みを生かす力を持った人達でした。
「山水の恵みを生かす力」とは、例えば、沢の水を引いてきて水道を作ったり、ありあわせの材料で小屋や共同浴場を作ったりと言った、そこにあるものや自然の素材を使って、当面、生きていくのに必要なものを生み出してしまえる力のことです。 それはきちんとした設計図や材料がなくとも、見よう見真似で何とかしてしまえる手業と、試行錯誤しながら新しいものを生み出し、生きられる世界をつくることのできる知恵とから成ります。
その手業と知恵は、山水と共に生きる中で自然と身につけてきたものです。
三陸の孤立集落には、共同体の力に加え、豊かな山水の恵みとそれを生かす力がありました。
それらが組み合わさることによって、お金のあるなしに関係なく、人が生きられる世界がつくり上げられていました。
津波の被害に加え、道路が通れなくなって孤立するという非常事態にあっても、誰も置き去りにすることなく、皆が人間らしい暮らしができる世界がそこにはあったのです。
これこそが究極のセーフティネットだと思いました。
この究極のセーフティネットと出会って教えられたのは、逆説的ですが、人のつながりだけではダメなんだということでした。
共同体なり、コミュニティなりに裏打ちされた人のつながりは、確かに人に安心感をもたらしてくれます。
しかし、人のつながりは、生存を保障するものにはなりません。
生存の保障のためには、山水の恵みと、それを生かすための手業・知恵も必要になるのです。
すなわち、人のつながりと山水の恵み、そしてその恵みを生かす力の3つが揃って初めて、私達は本当の意味での安心を手に入れることができるのです。
「山水郷」には究極のセーフティネットが残っている
それらが揃うのは都市ではなく、田舎です。
田舎の中でも、森が豊かで、水に恵まれ、川や海や湖があって、かつ、人が古くから住んできた場所です。
「古くから」とあえて言うのは、人が古くから住んできた場所は人が住むのに適している上、豊かな手業や知恵の伝統が受け継がれているからです。
このような場所を「山水郷」と呼ぶこととします。
山水郷には絶対的な安心の基盤、究極のセーフティネットが残っています。
この山水郷に残る安心の基盤をうまく生かすことで、今の日本社会が直面している困難を乗り越え、普通の人でも安心して生きられる社会をつくることができるのではないか。
三陸の孤立集落で究極のセーフティネットの姿を垣間見て以来、私は山水郷に次の社会をつくるカギがあるのではないかと考えるようになったのです。
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ここに書いたように、私は、三陸の孤立集落で見た光景から、山水郷にある人のつながりと山水の恵み、そしてその恵みを生かす力に、次の社会をつくるカギがあると予感した。
その予感は、その後、各地の山水郷を訪ね歩く中で、確信へと変わっていった。
何をバカな、と思う人も多いことだろう。
現実問題として、山水郷と呼ぶべき地域の多くは過疎に悩んでいる。
だから、都市に暮らす人にしてみればもちろんのこと、山水郷のことをよく知る人ほど、もはや山水郷になぞ未来はないと思っているのではないかと思う。
だが、山水郷にある安心の基盤は、今の社会に絶対的に必要なものだ。
それを何とか現代に生かすことができれば、私達はこの国が直面している困難を乗り越えることができる。
そのために必要なのは、新しいテクノロジーだ。
山水郷を改造することで都市に近づけようとした20世紀的なテクノロジーでなく、山水郷のポテンシャルを最大限に引き出し、生きる場としての機能を回復するような、21世紀の新しいテクノロジーが求められている。
幸いなことに、今、私達は第4次産業革命と呼ばれる新しいテクノロジーの勃興期を迎えている。
AI、IoT、ロボットなどの新しいテクノロジー群を使えるようになる。
この新しいテクノロジー群を使うことで、山水郷を生きる場として回復させることができる。
都会だけでなく、山水郷で暮らすことが現実的な選択肢になる分散型の社会を作ることができるのである。
9年前の大震災によって大震災によって山水郷の持つ、生きる場としてのポテンシャルの高さを教えられた。
あの未曾有の事態にあっても、山水郷では人々が生き生きと暮らしていた。
私達はあの大災害から学んだことを、どう未来につなげてゆけるのか考える時が来ている。