2020年04月25日

東京五輪の1年後開催は無理、中止を直ちに決めるべき理由

東京五輪の1年後開催は無理、
 中止を直ちに決めるべき理由
2020.4.24 ダイヤモンドオンライン
小林信也:作家・スポーツライター

「いまでも東京オリンピックを歓迎しますか?」

 東京都民、日本の国民にそれを問いかけたら、一体、どれほどの人が「歓迎する」「ぜひ開催するべきだ」と、手放しで賛成するだろうか?
 IOC(国際オリンピック委員会)のトーマス・バッハ会長が公式ホームページで、「日本の安倍首相が、1年延期で必要な追加費用(約3000億円)の負担を了解している」旨の発信をし、日本で問題視された。
日本の東京2020組織委員会の要請でこれは削除されたと報じられているが、バッハ会長がありもしない事実を公式ホームページででっちあげるだろうか?

 急転直下、1年延期が決まり、日程まですぐに決まった経緯からしても、日本側から何らかの提示があったことは想像に難くない。
 いずれにせよ、「3000億円の追加費用」を出すだけの予算があったら、「やってほしいことはほかにある」というのが、新型コロナウイルスの感染拡大がいまだに止まらず、緊急事態宣言の下、感染と生命の危険に怯え、生活を大幅に規制されている多くの人たちの実感ではないだろうか。

 新型コロナウイルスの蔓延で、世界は一定程度の平和・平穏状態から、有事へと状況が変わった。
人類の生命の危機、これまでの社会生活や国際交流が脅かされる危機に直面している。
しかも、国や民族間の争いではなく、人とウイルスとの闘いである。

 新型コロナウイルスの感染が始まる前と現在では、人々の判断基準が大幅に変わっていて当然だ。
ここまで感染が長引き、収束の目途が立たない状況が続いている中、当初の安易な楽観論がもう通用しないことは多くの人々が感じているだろう。

 ほとんどの人々は、未来を展望することさえできず、自分と家族、大事な人たちの健康と命をどう守ればいいのかで精一杯だ。
それでもまだ、「オリンピックは1年後に絶対開催する」という決意が、支持されるだろうか?

森会長「再延期は絶対ない」発言で 判断力と見識のなさを露呈
 4月22日、東京2020組織委員会の森喜朗会長は、記者会見で「新型コロナウイルスの感染拡大で1年延期となった東京大会の再延期は『絶対ない』との見方を示した」と報じられた。
スポニチには、続いて次のように書かれている。

『「選手のことや大会運営上の問題を考えても2年延ばすことは技術的に困難」と説明。
感染終息に懸念があり、安倍首相には「2年は考えなくていいんですか」と尋ねたが、「首相が1年でいい、と決断した」と明かした。』(スポニチ2020年4月23日付)
 この発言に「よかった!」と快哉を叫んだ人がどれほどいただろうか? 
現状とあまりにもずれていないか?

 私が取材しているオリンピックに出場予定の人たちでさえ、戸惑っている。
 延期を議論する前後から、日本政府、東京都、東京五輪組織委員会は一度たりとも、都民や国民に、東京オリンピックの延期や中止に関して意見を求めていない。
すでに決まったことだからとばかり、国民の思いなど聞くこともせず、一方的に進めている。

しかも、東京都がホストであるにもかかわらず、都知事選の候補者擁立などの絡みもあるのか、小池知事は静かになり、本来は当事者でないはずの安倍首相が交渉の先頭に立った。
スポーツ界の意向すら聞くことなく決められた。
民意が入り込む余地を抑え込んでいる。

 責任ある立場の人々、その分野を担う人々は、有事下においても将来を展望し、備える視野を持つことは重要だ。
だから、多くの人々がいまに汲々とする中でも先を見据える人たちがいてほしいものだ。
しかし、この期に及んで「再延期は絶対ない」と断言し、「1年でいい」と決断する組織委員会会長や首相に総合的な判断力や見識があるとは思えない。

改めて、提言する。
 東京都、日本政府、そして東京2020組織委員会は、いまこの時点で、都民、国民に「東京オリンピックの1年後の開催を歓迎するか」を問うべきだ。
そして、大いに議論すべきだ。
もちろん、出場予定の選手たち、指導者たちの意見や気持ち、現状も聞くべきだろう。
その上で、国民が思いを新たにし、どうすべきかの方向性を共有してこそ、国民的な事業といえるのではないだろうか。

 実施にしても中止にしても、それをすることで得られることは大きいはずだ。
そして、新型コロナウイルスが収束した後のスポーツ界が、どんな価値観を持ち、何を大事に運営されるべきかの展望も見えてくると期待する。

3000億円の追加費用は 「無駄」と断言できる理由
 私は、これだけ大変な状況が続くいま、「1年後の開催は無理だろう」「早く中止を決めるべきだ」と感じている。
 1年後のオリンピックの準備より、いまは「命と健康を守ること」「社会の平和を取り戻すこと」が何より緊急のテーマだ。そのために、いまあるものはすべて新型コロナウイルス対策に注力すべきだ。

 例えば、オリンピックのために建設・整備した施設は、感染者や感染防止、仮設の医療施設として使えるだろう。
オリンピック村だけでなく、新国立競技場や他の競技場も転用すれば大いに役立つはずだ。
「1年後にオリンピックに使う」と考えるから使用が躊躇されるが、その可能性をゼロにしたなら、「さあ、どう使えるか」と発想も転換できるだろう。
そして、本来はオリンピックのために造った施設が、運よく新型コロナウイルス対策に大きな役割を果たしたとなれば、莫大な費用も先行投資だったと理解される可能性もある。

 3000億円とされる追加費用に関しても、「無駄だ」と断言する。
 安倍首相や当事者たちは、これまでに投資した1兆円以上とされる予算を無駄にしないためにも「何とかオリンピックを実施し、回収したい」のだろう。
だが、それはもう雲散霧消している。
「復興五輪」だとか「新型コロナウイルスを乗り越えた祝祭として」とか、さまざまな詭弁を弄してオリンピック開催を正当化してきたが、政府・財界の思惑が「経済効果」であることは衆目の一致するところだ。

安倍首相は、東京オリンピックを推進の旗頭として「インバウンド増加による観光立国の実現」「日本が誇るアニメやITなどの先端技術の輸出拡大」などを目論んでいた。
その思惑は自らマリオに扮したリオ五輪閉会式の演出でも明らかになった。
つい先日まで、その意図どおり進展しているかに見えた。
インバウンドは想定を上回る数で上昇し、日本中が中国をはじめアジア各国からの来訪者であふれた。
 しかし、新型コロナウイルスですべては変わった。

 いま改めて、安倍首相が提唱した「インバウンドで日本を活性化する」という政策を支持する国民がどれほどいるか?
 去年までのように、自分たちの平穏な生活や文化・習慣までがアジアの人たちに踏みつぶされるような風景を取り戻したいか? 
経済だけを優先させる価値観は、見直されるだろう。

 新型コロナウイルスが収束できたとしても、その先にあるのは、これまでと同じ日本社会ではないはずだ。
新型コロナウイルスを乗り越えて、新たに気づいた価値観を共有する社会だろうし、そうあってほしい。
そこでスポーツがどんな役割を果たすのか。
おそらく、勝利至上主義と商業主義が結びついたエリート優遇のスポーツからの脱却も進むだろう。

 オリンピックのビジネスモデルも、今回の事態ではっきりと終焉を迎えた。
それを認識すれば、もはや、3000億円をさらに投入する価値はない。

 選手たちに輝く舞台、躍動する機会を与えてあげたい。
それはスポーツを愛する者の当たり前の思いだ。
しかし、これまでと同じように、一部のスポーツ選手だけが優遇され、一攫千金を果たし、メディアや企業がヒーローに群がって商売する構造も空しいものだと多くの人たちが心のどこかで感じるのではないだろうか。
スポーツ界はそこからの脱却と転換を次の道筋とすべきだ。
その意味でも、従来と同じ、商業主義、勝利至上主義的なオリンピックを拙速に強行する必然性はない。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☀ | Comment(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする