自粛しない人も「通報する人」もどうかしてる訳
市民が連帯せず責任なすりつけ合う地獄絵図
2020/04/27 東洋経済オンライン
女優でタレントの岡江久美子さんが新型コロナウイルスによる肺炎のため亡くなった。
日本中が悲しみに包まれている中、岡江さんが亡くなるまでの経緯について波紋が広がっている。
報道によれば、岡江さんは4月3日に発熱。
医師から4〜5日様子をみるように指示されたことから自宅で療養していた。
しかし、6日の朝に容体が急変し、都内の病院に緊急入院したという。
その後、ICUで人工呼吸器を装着。
PCR検査の結果で陽性が判明した。
これに関連して、岡江さんの娘である女優の大和田美帆さんが前日にTwitterで「コロナ、怖いんです」などと投稿していたことが話題になったのだが、この投稿で引用していたのが埼玉県で自宅待機の男性が死亡したニュースの記事であった。
この男性は4月11日に発症、16日にPCR検査で感染が確認された。
県内で入院できる病床が逼迫していることを理由に、保健所から病床が空くまで自宅待機を指示されていた。
基礎疾患がなく軽症だったが、20日に「呼吸が苦しい」と体調悪化を訴えたため、翌日入院させる手続きに入った。
だが、その日のうちに容体が急変し、病院に搬送されたが死亡した。
同様のケースが埼玉県で相次いでいることがわかっており、23日に別の70代の男性が自宅待機中に容体が急変し、搬送先の病院で死亡したことが報じられた。
「4日ルール」「軽症者の自宅待機」でいいのか
このような事態の悪化を受けて、これまで政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議が掲げてきた「4日ルール」と「軽症者の自宅待機」を疑問視する声が挙がっている。
最近、警察庁が不審死として取り扱った遺体のうち、東京など5都県で15人が新型コロナウイルスに感染していたことを明らかにしたタイミングと重なったこともあり、ソーシャルメディアなどでは「専門家会議は謝るべき」「ルールの撤回を」という批判が多数シェアされた。
「4日ルール」とは、新型コロナウイルス感染症についての相談・受診の目安とされていた「風邪の症状や37.5度以上の発熱が4日以上続く人」のことだ。
岡江さんは発熱の症状が出て3日目に容体が急変しており、仮に4日ルールに従わされていたのだったとしたら残酷な話である。
「高齢者・糖尿病、心不全、呼吸器疾患(COPD)など基礎疾患や透析治療を受けている者・免疫抑制剤や抗がん剤治療を用いている者・妊婦」の場合は「2日以上」となっていたからだ。
ここへ来て専門家会議も慌てて方針転換をする体たらくになっている。
加藤勝信厚生労働相は4月24日の記者会見で、自宅療養中の患者数を把握することや、看護師などが常駐するホテルや宿泊施設での療養への切り替えを進めるとしたが、埼玉県に限らず自宅待機を余儀なくされている患者は膨大な数に上っており、このような突発的な容体の悪化に対応できない体制が放置されるのであれば、今後、在宅コロナ死、あるいはコロナ行き倒れが続出する可能性は否めないだろう。
未曾有の出来事ゆえ仕方ない面はあるが、政府や自治体が必ずしも望ましい格好で、この事態を適切に対処しているとは言えない。
一方、政府や自治体の自粛要請を絶対視して、異常なほど隣人に攻撃を仕掛ける風潮も先鋭化している。
「店が営業している」で110番通報
緊急事態宣言後、東京都内では「自粛中なのに店が営業している」「公園で子どもが遊んでいる」など、新型コロナウイルスに関する110番通報が急増。
大阪府でもコールセンターに同様の通報が数百件寄せられたという。
確かに患者数の増加は、何の危機感もないまま不要不急の外出をしていた人々や、また休業要請を受けていない施設であれば安全だと勘違いし、「3つの密」(密閉・密集・密接)の回避を守らず行動していた人々によってもたらされた面はあるだろう。
だが、そもそも前述した感染症対策を含む「国の政策の妥当性」と「国民の行動変容の妥当性」は分けて考える必要があり、さらに後者に関しては前者の取り組みの実効性にかかっている部分が大きい。
にもかかわらず、「個人」と「国」、「私」と「公(おおやけ)」が一緒くたにされて、あたかも自分が国家の意志を体現する者であるかような倒錯が起こっている。
いわば『臣民の道』の劣化コピーである。
1941年(昭和16年)に文部省教学局より刊行された『臣民の道』は、「国民が国家の意のままに動く道具であること」を定義付けた「国民道徳の指標」だった。
「私生活というものが国家に関係なく、自己の自由に属する部面であると見なし、私意をほしいままにするがごときことは許されないのである。
一わんの食、一着の衣といえども単なる自己のみのものではなく、また遊ぶ閑、眠る間といえども国を離れた私はなく、すべて国とのつながりにある。
かくて我らは私生活の間にも天皇に帰一し国家に奉仕するという理念を忘れてはならない」
だが、現代によみがえった『臣民の道』は、単純に国家という「権威」と一体化して自分を「強者化」し、同じ国民を非国民として懲罰して安心感を得るツール以上のものではない。
それは、「反体制的な言動の者」を自警団のように逐一監視・告発する「密告社会的なメンタリティ」の再来にすぎない。
筆者は以前、「国の政策に同調しなかったり、異議を申し立てたりする人々」を攻撃の対象にするような心性を、「臣民的価値観」が「死に切っていない」(undead)という意味で「ゾンビ臣民」と表現した。
お上≠フ意に反した言動を取るものは「非国民」であり、国家はこのような連中から日本国民としての諸権利を奪っても構わないとする、「臣民的メンタリティ」のなせる業と考えるのが自然だ。
かつての天皇制国家はすでに消滅したのだから「臣民」は存在しなのだが、未だ「臣民的価値観」が思考・行動に影響を及ぼしているという意味で、エルヴェ・ル・ブラーズとエマニュエル・トッドのいい方(『不均衡という病 フランスの変容 1980-2010』石崎晴己訳、藤原書店)に倣(なら)えば「ゾンビ臣民」と評することができるだろう。(『不寛容という不安』彩流社)
「“お上”の意」に逆らう「不忠者」を成敗?
今や制御不能なパンデミックによる感染恐怖と不自由から発せられる「巨大な不安」を背景に、わたしたちの精神の古層から「ゾンビ臣民」がむくむくと起き上がり始め、「お上≠フ意」に逆らう「不忠者」に進んで襲いかかろうとしているのである。
だが冷静に考えてほしい。
「自粛」の「要請」という奇妙な日本語の真意とは、まともな補償や損失の補填に応じるつもりはほとんどないが、事実上の事業停止や外出制限を「臣民」の手を借りて強制する、というたぐいの為政者の責任放棄に等しい。
そうして「コロナ死」よりも「経済死」が差し迫っている人々の存在が無視されていく。
被支配者同士の対立をあおり立てて、支配者への批判をかわす統治手法を「分割統治」と呼ぶが、わたしたちの社会で現在起こっているバッシング行為の横行はまさにこれである。
大阪府では遂に休業要請に応じないパチンコ店を公表した。
東京都も近く公表に踏み切るという。
巨額の財政出動が伴わざるをえない重い命令に躊躇する権力者が、市民に「自粛」の相互監視と摘発という「ミニ権力者」としての役割を委譲したようなものだ。
これは、検査や入院から排除された在宅コロナ死、コロナ行き倒れが激増することが懸念される状況下において、本来連帯しなければならない市民が互いに責任をなすりつけ合う地獄絵図でしかない。
自由と安心に関する現代的なジレンマについて、社会学者のジグムント・バウマンはこう看破した。
自由の名の下に犠牲となる安心は、他者の安心であることが多く、安心の名の下に犠牲となる自由は、他者の自由であることが多い。(ジグムント・バウマン『コミュニティ 安全と自由の戦場』奥井智之訳、ちくま学芸文庫)
わたしたちはこのジレンマの正体を見極めることができれば、感情に振り回されて恐るべき愚行を演じることなく解決へと近づくことができるし、その責任を担っている人間の1人であるということにもっと敏感であらねばならないだろう。