他人を許せない正義中毒という現代人を蝕む病
攻撃対象を見つけ罰することに快感を覚える
2020/04/27 東洋経済オンライン
中野 信子 : 脳科学者
芸能人、著名人の不倫報道の中でよく聞かれるのが「許せない」という言葉です。
「家族を裏切るなんて許せない」「清純派だと思っていたのに許せない」など、対象者への怒りや憎しみの感情がたくさんの「許せない」を生み出しています。
もちろん、不倫は法律上してはいけないことですし、もし自分や自分の近しい人が何らかの被害を受けたのであれば、憤りや怒りが湧くのは当然でしょう。
しかし、自分や自分の身近な人が直接不利益を受けたわけではなく、当事者と関係があるわけでもないのに、強い怒りや憎しみの感情が湧き、知りもしない相手に非常に攻撃的な言葉を浴びせ、完膚なきまでに叩きのめさずにはいられなくなってしまうというのは、「許せない」が暴走してしまっている状態です。
われわれは誰しも、このような状態にいとも簡単に陥ってしまう性質を持っています。
「正義の制裁」を加えるとドーパミンが放出
拙著『人は、なぜ他人を許せないのか?』でも詳しく解説していますが、人の脳は、裏切り者や社会のルールから外れた人といった、わかりやすい攻撃対象を見つけ、罰することに快感を覚えるようにできています。
他人に「正義の制裁」を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出されます。
この快楽にはまってしまうと簡単には抜け出せなくなってしまい、罰する対象を常に探し求め、決して人を許せないようになるのです。
こうした状態を、私は正義に溺れてしまった中毒状態、いわば「正義中毒」と呼ぼうと思います。
この認知構造は、依存症とほとんど同じだからです。
この「正義中毒」は、危機的な状況になればなるほど、盛り上がりやすい素地ができます。
現在は新型コロナウイルスの蔓延と同時に、世界恐慌というべき側面になってきていますが、「正義中毒」の現象がさらに強く起きてくると思います。
有名人の不倫スキャンダルが報じられるたびに、「そんなことをするなんて許せない」と叩きまくり、不適切な動画が投稿されると、対象者が一般人であっても、本人やその家族の個人情報までインターネット上にさらしてしまう、企業の広告が気に入らないと、その商品とは関係のないところまで粗探しをして、あげつらう……。
こうした炎上騒ぎを醒めた目で見ている方も多いと思います。
しかし、正義中毒が脳に備わっている仕組みである以上、誰しもが陥ってしまう可能性があるのです。
もちろん、私自身も同様に気をつける必要があると思っています。
他人の過ちを糾弾し、自らの正当性が認められることによってひとときの快楽を得られたとしても、日々他人の言動にイライラし、許せないという強い怒りを感じながら生きる生活を、私は幸せとは思えません。
ここでは、誰しもが陥ってしまう「人を許せない」状態から、解放されるための科学的な方法、そして、穏やかな気持ちで生きるための「物事の捉え方のコツ」について触れていきましょう。
「なぜ、許せないのか?」を客観的に考える
まずは自分が正義中毒状態になってしまっているのかどうかを、自分自身で把握できるようになることがとても重要です。
そのためのサインとして、まず「相手を許せない!」という感情が湧いてしまう状態そのものを把握する必要があります。
どんなときに「許せない!」と思ってしまうのかが自身で認識できるようになれば、自分を客観視して正義中毒を抑制することができるようになるからです。
相手は対・人でなくても構いません。
「このテレビ番組は馬鹿ばかしい」「○○党は許せない」「最近の若い連中はなってない」などといった怒りの感情が湧いたときは、その感情を増幅させてしまう前にひと呼吸置いて、「自分は今、中毒症状が強くなっているな」と判断するようにします。
正義中毒に陥らないようにするカギは、メタ認知です。
メタ認知とは、前頭前野の重要な機能で、自分自身を客観的に認知する能力の事です。
「私は今こういう状態だが、本当にこれでいいのか?」と問いかけることができるのは、前頭前野が働いているからであり、メタ認知が機能しているからなのです。
残念ながら、前頭前野は加齢に伴って萎縮してしまうのですが、脳もあくまで体の一部なので、その部位をよく使っている人とそうでない人とでは機能に違いが出てきます。
前頭前野が衰えていない人は、普段から「自分はこう思う」「こうに決まっている」といった固定化された通念や常識・偏見を鵜呑みにせず、常に事実やデータを基に合理的思考や客観的思考を巡らせている人だと言えるでしょう。
メタ認知ができていない人は、他者に共感したり、他者の立場で事情を斟酌したりすることができません。
同時に、自分自身が現在どのような状況にいるのかということも、うまく把握できなくなってしまいます。
「今、自分は正義中毒になっているかもしれない」と思ったときは、まずメタ認知を意識することから始めてみてください。
「どうでもいい」という感覚
正義中毒の対象は他人です。
誰かに対して自分の正義を主張したり、他人に自分の正義を強要したりすることは、結局のところ誰かを縛る行為にほかなりません。
そもそも他者、そして自分自身にも一貫性を求めること自体、不可能なことなのです。
人間である以上、言動に矛盾があるのは当たり前、過去の発言や振る舞いを覆してしまってもしょうがないのです。
今は絶対的な真実と信じていることだって、いつかその間違いに気づく日が来るかもしれません。
そのように「信じていたこと」を裏切られたと感じることこそ、摩擦やいざこざの原因にもなったりするわけですが、それを回避する一番いい方法は、そもそも他人に「一貫性」を求めること自体をやめることではないかと思います。
この典型的な例は、「芸能人○○が不倫!」というスキャンダルが報じられたときの世間の反応を見ればわかります。
不倫のインパクトは、その芸能人のキャラクターから受けるイメージが不倫からかけ離れていればいるほど強く、バッシングも激しくなります。
しかし考えてみれば、芸能人のキャラクターは芸能人としての「商品」であり、本来の人間性とは違っていて当然です。
芸能人としての表向き・仕事用のイメージと、一個人としての私生活はまったく別ものですし、それ以前に自分とまったく関係のない他人の行動、よそ様の人生なのですから、自分に直接的な被害が及ばない限り、たとえ何をしようとも、他人が指図したり、糾弾したりするようなものではありません。
バッシングされている出来事から、社会をよりよくするための一般的問題が浮かび上がるのなら大いに議論すべきでしょうが、個人攻撃をして、ほんのひととき痛快な気持ちになったところで何かが変わるわけでもありません。
およそどうでもいいことでしかありません。
この「どうでもいい」という感覚が、他人に一貫性を求めないためのいい距離感になるのではないでしょうか。