コロナ禍で「自粛警察」が横行…正義はいつも正しくない
2020/05/16 日刊ゲンダイ(三枝成彰.作曲家)
新型コロナウイルスの感染が広まっても、絶対に犠牲にしてはいけないものがある。
それは他者に縛られることのない「自由」だ。
古代ローマ帝国では、権力者が食糧と娯楽を提供することで市民の歓心を買おうとした。
一方で市民は、この「パンとサーカス」で飼い慣らされた犬のようになって愚民化する。
自分で考え、自由な発想で政府に意見を述べようとしなくなったのだ。
現代に生きる我々は自由を知っているし、その大切さも理解している。
それを今、「感染症が広まっているから」と捨てるのか。
■自由を失うのは死ぬことより怖い
当欄でも何度か書いたが、77歳と10カ月の私は新型コロナで死亡するリスクが高い。
糖尿病もあるし、心臓にも腎臓にも疾患を持っている。
感染すれば命を落とす可能性が高いだろう。
それでも言わずにはいられない。
自由を捨てるぐらいなら死んだ方がマシだ。
年を取れば誰もが死ぬ。
これは自然の摂理である。
何ら恐れることはない。
それよりも自由を失うほうが怖い。
イタリアやスペイン、フランスで感染が終息しないのは、罰則付きの行動制限をかけられても自由を重視する人が多いからだろう。
それが世界をリードする文化や芸術を生み育てる土壌にもなっている。
ナチを生んだドイツや自由のない中国で終息の兆しが見えてきたのとは対照的だ。
そもそもこのウイルスは、かつてのペストや致死率が高いエボラ出血熱とは違う。
日本での死者も700人ほど。がんや交通事故などで1日に3700人が亡くなっていることを考えれば、大した数字ではない。
このまま経済を止めていれば、コロナで亡くなるよりも、生活ができなくなって首をくくって死ぬ人の方が多くなってしまいそうだ。
それなのに最近は、営業を続ける店に圧力を掛けたり行政に密告したりと、戦時中に「隣組」の市民がお互いを監視していた頃を思わせる「自粛警察」まで横行している。
そこまでして自由を毀損し、窮屈な社会を欲してどうなるのか。
街をパトロールして営業中の店舗に嫌がらせをする人たちは、それが正義であると勘違いしているのだろう。
だが、正義はいつも正しくない。
日本ではかつて「鬼畜米英」が正義だった。
明治維新は、薩長が武力によって幕府を打ち倒したものだ。
冷静に分析すればテロである。
何をもって正義と定義するかは、その時々の立ち位置によって違う。
自分だけが正しいと考え、他人にも同じような行動を取るように強要するのは、ファシストの発想に他ならない。
「自粛が必要だ」とテレビで主張するコメンテーターは、みんな肩書があり、大学や研究所の名刺を持っている。
この事態で生活が苦しくなる人たちではないことも忘れてはならない。