2020年05月26日

木村花さんを追い詰めた「匿名卑怯者」の深い罪

木村花さんを追い詰めた「匿名卑怯者」の深い罪
無責任にできる投稿がモラル意識を低下させた
2020/05/25 東洋経済オンライン
本田 雅一 : ITジャーナリスト

5月23日未明、Twitterのタイムラインが騒がしくなっていた。
恋愛リアリティー番組「テラスハウス」に出演していたプロレスラー・木村花さんの様子がおかしいという話題だったが、その時点では詳細はわからなかった。
後になって知ったことだが、このとき、花さんは血だらけの手首の写真、謝罪と自虐の言葉、それに別れの言葉を発していた。
異変を感じた花さんのフォロワー、元共演者や所属プロレス団体関係者などが、花さんの身を案じるツイートを発信していた。

詳細は明らかになっていないが、関係者が彼女を発見して消防署に通報。救急車に運ばれた花さんはぐったりとして呼びかけに反応する様子はなかったという。
花形女子プロレスラーの娘として生まれ育ち、母に憧れてプロレスラーへの道を歩んだ花さんは、スターレスラーへの道を着実に歩んでいた。
それにもかかわらず、わずか22年でその命を自ら断つという道を選択せざるをえない精神状態へと追い込まれた。
彼女の死が明らかになると、花さんに対する一連の誹謗中傷、彼女が深く悩み、精神的に追い詰められたことが広く知られることになった。

すると、今度は彼女を追い込んだとされる中傷メッセージを送っていた匿名の者たち、中傷の原因となっていた出来事の当事者、そして番組関係者などへの非難の声が相次ぎ、憎悪の連鎖が広がりつつある。

今回のような不幸はいつ起きても不思議ではない
ネットを通じコミュニケーションの力(プラスもあればマイナスもある)が増幅される中、今回のような不幸はいつ起きても不思議ではない。
われわれができることは、花さんが置かれた状況を省みることで、少しでも不幸な連鎖を減らすことだろう。
本稿では、3つの切り口から話を進め、花さんが自らの命を断つこととなった状況について情報を整理したい。

まずは、SNSというメディアの対称性と非対称性について、あらためて考えてみたい。
次に、“リアリティー番組”という番組制作から見た切り口について。
最後に自分や自分の大切な人の心を守るために必要な心構えについても言及する。

インターネットは人のコミュニケーション能力を増幅し、新しいサービスを次々に生み出した。
SNSもその1つだ。
元々、インターネットは情報を受け取る際にも、発信する際にも有益な優れた双方向メディアだが、すべての人にとって“対称性”のあるメディアではない。
例えば内輪だけで使っている100人程度のフォロワーのTwitterアカウントは、時にタイミングと内容次第で数百万以上の人たちに発信したツイートが読まれる可能性を持つものの、多くの場合、フォロワー数に応じた発信力しか持たない。
一方で不特定多数に興味を持たれることもないため、発信者の状況や心情などを理解しない有象無象の不特定アカウントから攻撃されることもない。

自分をフォローしているアカウント、自分自身に向けられたツイート、自らがフォローするアカウント。
それらの重みに大きな違いはなく、せいぜい仲間内の冗談めかした会話で済むことが多い。
ところが芸能人、あるいは花さんのように人気番組に出演者として登場している場合、出演者自身の発信力が極めて強くなる。
こうした状況ではネットからの反応も、自身の発信力の強さに応じて強力なものになる。

1999年、コメディアンのスマイリーキクチさんは、突然、ネットで殺人犯だと指名された。
証拠は皆無に等しかったが、2ちゃんねる(当時、現在は5ちゃんねる)で「犯人に似ている」と指摘されると次々に“もっともらしい”傍証が繰り返し語られた。
事実無根の情報を発信していた19人が摘発されるまで、実に10年という年月が必要だった。

俳優の西田敏行さんは、覚醒剤を使用している可能性が高いという匿名のブログを発信源に、まるで犯罪者のように告発される日々が続いた。
警察による捜査の結果、3人のブロガーが摘発されたが、覚醒剤を使用していたことを示す証拠やうわさなどは一切なく、単に芸能人の知名度を利用してアクセス数を稼ぐために虚偽の記事を掲載していただけだった。
西田さんはSNSを通じて何かしらの意見や情報を発信しているわけではない、完全なる善意の第三者だが、あまりにも知名度が高すぎた。
知名度が高い一方で、そのプライベートは俳優としての西田さんほどには知られているわけではない。
“知られていない一面”をそれらしく、本人の預かり知らぬところで勝手に描かれただけだった。

0.1%を100倍にすれば10%になる
どの例にも言えることだが、攻撃する有象無象の声の主は、自らが加害者になることなど微塵も意識していない。
自分自身の言葉が社会に影響を与えることなど想像もしていないからだ。
実際、多くの攻撃者は社会的強者ではないことのほうが多いだろう。
言い換えれば、自己評価が低いからこそ、平気で他者に対して強い言葉で罵詈雑言を浴びせることができる。
自己評価が低い人間は、自分の声を相手が真剣にとらえることなどないと思っているからだ。

しかし、受け取る側にとっての重みは必ずしも軽くはない。
花さんは見ず知らずの人たちから、SNSを通じて毎日100件もの非難の声を受け取っていたとつづっている。
発信者にとっては、さして大きな意味はないのかもしれない。
単なるストレスの捌け口だった場合も少なくないだろう。
しかし軽い気持ちで発した、毒性が0.1%の言葉であったとしても、100人が同じ毒を浴びせれば10%になる。
毎日、その毒を浴び続ければ、いつか許容量を飛び越えてしまうことは誰もが想像できるだろう。
ましてや今回のケースでは、さらに花さんへの攻撃、花さん自身の感受性が高まる環境が偶然にもそろっていた。

コロナ下で動画配信サービスの視聴数が伸びたことで、Netflixで配信されている花さん出演の番組への注目は、以前にも増し、ネットを通じた彼女へのポジティブ、ネガティブ両面の名指しでの意見は急増していたと考えられる。
一方、花さんが自分自身を捧げてきたプロレスは、コロナ自粛の中ですべてのイベントがキャンセルされ興業再開の目処が立たず、自分自身を表現する場所を喪失。
出演していたテラスハウスの収録も中断。

自粛生活の中にあって、直接、信頼できる誰かに心の中を打ち明けることもできなかっただろう。
そうした状況下において、花さんは別の役割も負っていた。
自粛が明けた後の所属団体の活動を活性化するため、SNSを通じた女子プロレスのプロモーションに力を尽くす役割を与えられていた。
それだけに、ネットを通じて集まる名前なき憎悪を無視することができず、ストレートに彼女の心に飛び込んできたのではないだろうか。

匿名の発信者は、どう反論されようが心を侵されることはない。
発言が非難を浴び、それが誹謗中傷へと発展しようと、決して“自分自身に矛先が向く”ことはないからだ。
世間に顔も名前も知られていない存在なのであれば、いくら強い口撃を受けようと現実の生活には何の影響も及ばない。
涼しい顔で聞き流せばいいだけだが、自分自身をさらけだすことを求められる花さんのような立場では、ひたすらに流れ込む悪意を受け止めざるをえなかったはずだ。

問われるリアリティー番組制作の倫理観
花さんが誹謗中傷を受ける原因となったのは、前出の「テラスハウス」で剥き出しの感情を露わにしたことがきっかけだった。
テラスハウスはシェアハウスを舞台にした共同生活の場で起きる、男女の恋愛を捉えるリアリティー番組だ。
本稿を執筆するにあたって中傷を受ける原因となった前後のエピソードを観たが、長期間、生活を共にする相手への鬱積した感情を考慮するならば、花さんが特別に問題ある行動を取ったようには見受けられなかった。

しかし、花さんが亡くなった後は中傷する声は鎮静化しているものの、批判の声は収まっていない。
「リアリティー番組に出演し、プライベートを犠牲に生業を得ているのだから、ある程度のプライバシーの侵害やネットからの攻撃は想定すべきだ」
「番組中、アンチファンが増加するような言動、態度を取った被害者に非がある。
批判に耐えられないのであればリアリティー番組に出るべきではない」

彼女の自殺は、彼女の行動と決断がもたらしたものであって自業自得ではないかという声だ。
女子プロレスという世界、自分という人間を知ってほしいと考えて出演した彼女も一定の覚悟はしていたことだろう。
しかし、偶然も重なって彼女への攻撃は苛烈なものとなった。

ここで問いたいのは、リアリティー番組の制作側による出演者保護のケアである。
リアリティー番組とは、あらかじめ脚本を用意せず、その場で現実に起きる様子を記録、編集して放送するタイプの番組のこと。
古くから存在する手法だが、'90年代後半以降は映像編集技術の向上から、膨大な収録映像を編集することで容易に番組を構成可能になったことで、このジャンルが大きく発展し、世界中でさまざまなヒット番組が生まれることになった。
テラスハウスは「ウンナンのホントコ!」の企画として放送された“未来日記”(1998〜2002年)や「あいのり」(1999〜2009年)など恋愛リアリティー番組人気が高かった日本で、フジテレビが2012年に放送を開始。
2014年に放送終了していたが、海外向け番組販売で好調だったことから2015年からNetflixとフジテレビが手を結ぶ形で復活。
グローバルでの配信が行われ日本以外での人気も高まっていた。

テラスハウスの制作手法は承知していないが、一般論としてこうしたリアリティー番組では“テーマ設定”や“場面設定”などは行われるものの、収録される映像に対して演出を入れないことが原則だ。
一方で演出がまったくないかといえば、当然、そこにはリアリティー番組として成立させるための創意工夫は当然のように行われる。
海外では、一部の出演者に対して特定の役割や発言を促すといった演出が行われている。

テラスハウスに関して、海外のリアリティー番組にあるような恣意的な演出、出演者への働きかけがあったか否かはわからない。
しかし、例え演出が最小限であったとしても(そのことは肯定する材料も、否定する材料も持っていない)、最終的に求められるのはストーリーだ。
映像制作を行う側は、膨大な映像を編集し、出演者の意志とは無関係に物語を紡いでいく。
出演者自身も「どう描かれているか」わからない テラスハウスは、共同生活を続けながら、スタッフが映像を編集、配信・放映を続けるというスタイルであるため、放送されるまで出演者自身も自分のことをどう描かれるかは、知る由もない。
その中で、思わぬ形で出演者が傷つくことは容易に想像できる。

例えば、リアリティー番組への人気が高いアメリカでは、リアリティー番組を通じてアメリカ全土に知られるセレブへと上り詰めた人たちも生まれているが、一方で自らの命を絶つ出演者もいる。
番組制作側は出演者たちの物理的、精神的、両面のケアを行う必要性は8年もの制作経験の中から十分認識していたはずだ。 コロナ禍にあっては、そうしたケアを施し難かった事情はあったのかもしれない。
しかし、長年の制作経験を経て人生経験が少ない出演者の心のケアが行き届いていなかったり、あるいはSNSを通じての苛烈な攻撃を認識していなかったのだとしたら、リアリティー番組を業務として制作している側は“杜撰”とのそしりを免れることはできない。

リアリティー番組において、放映される映像は出演者たちの生活の“ごくわずかな一部分”でしかない。
よほど非日常的な生活を送っていない限り、人の日常は特別なものではない。
特別ではないからこそ日常なのだ。
言い換えれば、特別なものではない日常をつなぎ、出演者の感情や気持ちの濃度を高め、視聴者の期待、想像力を高めることでエンターテインメントとして作り上げているのがリアリティー番組とも言える。
そこには編集する側の意図が明確に存在する。

テラスハウスでは、番組冒頭で「台本は一切ございません」のナレーションが入る。
実際、日常生活を捉えるこの番組において、コンテンツに現実味と意外性を持たせるには台本がないほうがいい結果が得られるだろう。
ほとんどの出演者が駆け出しのモデルやタレント、俳優やスポーツ選手で構成されるこの番組の場合、出演者自身の思惑や期待を刺激しつつ生活させ、その中から数字が取れるシーンをつなぎ合わせることが多いと考えられる。
とはいえ、それは番組制作上の手順にしかすぎない。

例えば、あなたが気のおけない友人と異なる意見を持って対立していたとしよう。
気持ちが通じているからこそ、親しい友人とは激しい口調になるかもしれない。
互いにわかり合っているからこそ、踏み込める領域がある。
ところが2人の関係を知らない者が、偶然、口論をしている2人を見かけたらどう思うだろうか。
シーンを切り取っただけでは理解できない心の動きは、どんな場面にもある。

生身の人間が普段の生活をさらし、そこに出演しているのは若く、人生経験も豊富ではない若者たちばかり。
テレビ番組の中に紡がれる物語は、出演者自身の気持ちを反映したものではなく、制作者の意図によって物語の骨格が形作られていることは忘れてはならない。

本当の真実、リアルは何なのかは、すべての時間を共有した者同士にしかわからないものだ。
リアリティー番組は、あくまでも“リアリティー”を求めて生まれたものであって、本当のリアルではないのだから。

自分自身と「大切な人」を守るために必要なこと
花さんを追い込んで行った“アンチファン”も、さして強い言葉をぶつける意図はなかったのかもしれない。
しかし、花さんがアンチファンからサンドバッグのように打たれ続ける中で、その攻撃はエスカレート。
自粛生活の中で、毎日、言葉の剣を突き刺される中で花さんは命を絶ってしまった。

精神的に誰かを追い詰めていけば、いつか誰もが加害者となりうる。
何気なく発した言葉も、さまざまな形で増幅され、発した本人の思いの強さ以上の形になって相手に届くこともある。
また自分の言葉がほかの誰かに伝搬し、攻撃者を増やしてしまうこともあるだろう。
その結果、攻撃していた本人が被害者の痛みを抱え、その後の人生を生きねばならないこともあるに違いない。

今回、花さんを追い込んでしまった誰かもまた、自らの行いを悔いているはずだ。
花さんの家族はもちろん、憎悪に満ちた言葉を投げかけた誰か、SOSを見逃してしまった番組制作スタッフ、共演者、花さんを取り巻くさまざまな人たちが、大小の違いはあれ共トラウマを抱えながら生きていくことになるだろう。
では悲劇を繰り返さないために、自分たちに何ができるだろうか。

あらゆる日常の中で、パートナー、家族、友人、同僚、さまざまな形の人間関係から、100%の確率で問題を発見し、救いの手を差し伸べるのは難しい。
しかし、自らの心の声に尋ねて何をすべきかを考えることは誰にでもできる。
「自分にとって、最も大切な人は誰なのか。その人はどのようなことを一番大切だと考えているのだろうか」
この問いを続けていると、意外にも最低限、守らねばならないことは少ないと気付かされるだろう。

手にしているスマートフォンやパソコン、そもそもネット接続してのコミュニケーションなどは、決して一番大切なものには入ってこない。
一方で最も大切なものは家族であり、身近に感じるパートナーだ。
花さんは命を絶つ決意をしたと思われるSNS投稿の前、自分に向けられた憎悪のメッセージに対して「いいね!」をクリックしていた。
自分は間違っていないという確信を持ちつつも、繰り返しの中傷に自分の存在意義を見失ってしまったのだろうか。
匿名での発言者にモラルなど求められないものだが、そうした常識さえも見失わせるほどの精神状態に追い込まれていたのだろう。

もし、自らを否定したくなる気持ちになった場合、あるいは身近な誰かが自分を見失いそうになっていたならば、まずはスマートフォンの電源を切り、しばらくは生身の声の中で暮らしてほしい。
顔がない相手ではなく、顔が見える友人と対話の機会を作ろう。
本当に大切なものは、ネットの中ではなく、目の前の現実の中にある。
posted by 小だぬき at 00:00| 神奈川 ☁| Comment(2) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする