自粛警察にネットリンチ…正義ヅラした“屁理屈”をプロが斬る
2020年05月31日 SPA!
リアリティショー『テラスハウス』の出演者・木村花さんがSNSでの誹謗中傷を受けて亡くなったとされる一件で、今、「言葉の暴力」が問題視されている。
コロナショックにおいても感染者や医療関係者への誹謗中傷、あるいは飲食店やライブハウスに警告の張り紙をする「自粛警察」などが問題となった。
現代社会に蔓延するのはウイルスだけではない。
この「言葉の暴力」から身を守るためには、どうすればいいのか?
『屁理屈に負けない! 悪意ある言葉から身を守る方法』を上梓した慶應丸の内シティキャンパスのシニアコンサルタント・桑畑幸博氏は、「他人を攻撃する悪意の言葉には、屁理屈や詭弁といった卑劣なテクニックが使われている」と語る。
ロジカルシンキングのプロでありSNSウォッチャーでもある桑畑氏が、その卑劣な手法の見抜き方をレクチャーする。(以下、桑畑氏解説)
◆「ネットリンチ」と「自粛警察」の共通点
SNSでの誹謗中傷、ヘイトスピーチ、デマの拡散に限らず、職場でのパワハラ、セクハラ、家庭でのモラハラなど、現代社会には「言葉の暴力」が溢れ返っています。
他人を攻撃することで、自分の思うように抑圧し、コントロールしようとする――その悪意の言葉の多くには、乱暴な主張を押し通すために「屁理屈」や「詭弁」というテクニックが使われています。
屁理屈の「屁」には、「屁とも思わない」という表現のように「値打ちのないもの、つまらないもの」という意味があります。
つまり、誹謗中傷やヘイトスピーチ、ハラスメントなどは、本来は何の値打ちもない、つまらない主張であるわけです。
しかし、それを見抜くことができなければ、丸め込まれたり、デマに踊らされたり、時には傷つき自分を否定してしまう。これは紛れもない悲劇です。
では、屁理屈の何が卑劣であるか? 具体例を見ていきます。
◆「みんなが…」という言い方で押し通そうとする卑怯
先日、リアリティショーに出演していた木村花さんが命を絶つという痛ましい出来事がありました。
SNSで彼女を攻撃していた人々が口にしていたのが、「あなたがいなくなればみんながハッピーになる」、「番組のために消えてほしい」といった言葉です。
この「みんな」、「番組のため」という言葉に、私たちは気をつけなくてはなりません。
あたかも「みんな」や「番組」といった大きな主語の代弁者であるかのように語っていますが、その多くは、実は単なる個人的な偏見や感情に過ぎないからです。
単なる偏見や感情に基づく乱暴なロジックを「みんな」という数の力で押し通そうとする。
こうした屁理屈を、論理学では「多数論証」と呼びます。
「みんなそう言っている」と言われると反論しにくい空気が生まれますが、みんなそう言っているから正しいとは限らない、数の力が正しいとは限らないのは、ナチスドイツなどの歴史を振り返れば明らかです。
大切なのは、主張の中身であるはずです。
しかし、暴論や感情論を他人に押し付けたい時に、「みんな」という大きな主語を使って、その主張があたかも正しいかのように粉飾する。
これは、とても卑怯なやり方です。
同様に、自粛警察の人々は「みんな頑張っているのに、自粛しないとは何事だ!」と主張し、きちんとルールに則って営業している店に張り紙をしたりします。
これも単に個人的な新型コロナウイルスへの不安や“気に食わない”という感情を、「みんな」という言葉であたかも正義であるかのように粉飾し、他者を攻撃しているわけです。
コロナショックのような恐慌時は、特にこの多数論証が蔓延するので気をつけなくてはなりません。
「みんな」という言葉で他人を攻撃する主張に出会った時、それが本当に一般論なのか単なる個人的な偏見なのか、まずは見極める必要があります。
「みんな」とは誰を指すのかを明らかにし、その上で、本人の主張の中身に着目する。
もし、「みんな」が実は個人の偏見やある特定の集団である場合は、「値打ちのない、つまらない主張=屁理屈」として黙殺すべきですし、仮にみんなが一般論であっても、自分なりの意見やロジックがない空疎な主張であれば、それもわざわざ取り合う価値はありません。
◆「○○のため」を大義名分にする、「同情論証」という屁理屈
一方、「番組のため」というような大義名分を前置きした上で、誹謗中傷など乱暴な主張を押し付けるテクニックを「同情論証」と呼びます。
自粛警察の場合は、「日本のため」、「社会のため」という大義名分に置き換わりますが、同じ構造です。
同情論証においては、「子供たちのため」「差別をなくすため」といった言葉がよく使用されます。
誰もが感情的に否定できず、同情、共感するであろう大義名分を掲げることで反論できない空気を作り、その後に暴論や偏見に過ぎない主張を展開する。
アメリカの国民的アニメ『ザ・シンプソンズ』に登場するヘレン・ラブジョイというキャラクターがこの屁理屈を多用するため、転じて「ラブジョイの法則」とも呼ばれています。
勘違いして頂きたくないのが、私は「子供たちのため」「差別をなくすため」という理念自体を否定しているのではありません。
むしろ、非常に尊いものだと思っています。
しかし、だからこそ同情論証は危険なのです。
理念が尊いからこそ、暴論であってもまかり通ってしまう危険性があるのです。
さらに同情論証の厄介な点があります。
それは、正義感や思い込みから、この屁理屈を無意識に使ってしまう人が少なくないことです。
例えば、自粛警察の人々は、自分たちの行動が本当に社会のためと思い込んでいます。
しかし、そこには重大な情報や認識の欠落があるのも事実です。
コロナショックにおける影響には個人差があり、自粛していても生活が成り立つ人と経済的な死に直結する人では、そもそもの立場や前提条件が異なります。
本当は感染リスクも経済リスクも同等に語るべきなのに、感染リスクばかりを煽る情報に触れているうちに、「何かなんでも自粛するのが正義」と思い込むようになってしまう。
偏った情報に触れるうちに、偏った正義感から同情論証で一方的な主張を押し付けるようになる。
これは、私たち誰もが気をつけるべきリスクです。
◆アフターコロナでは「悪意ある言葉」とも距離を取る
このように厄介な同情論証。
そこから身を守るには、まず「○○のために」という言葉を省いて、相手の主張が何であるかを確認することです。
例えば「子供たちのために」という理念については誰も否定しませんから、その部分は早々に同意すればいい。
同様に、過激な自粛警察の「社会のために徹底した自粛を」という主張に対しては、「社会のために」という部分には「私もそう思います」と共感してしまう。
その上で、「社会のためを考えれば、感染リスクだけでなく、経済リスクも考慮すべきです」と新たな論点を提示すればいいのです。
※これはあくまで議論の場での対応であり、SNSなどで同情論証を駆使した主張に出会った場合、「つまらない屁理屈」としてまともに取り合う必要はありません。
このように一方的で乱暴な主張を、姑息なテクニックによって無理矢理押し付けようとする「言葉の暴力」。
今回は「多数論証」と「同情論証」の2つを紹介しましたが、ほかにも「わら人形論法」「連座の誤謬」「前件否定の虚偽」など数多くのテクニックがあります。
こうした屁理屈はSNSだけでなく、国会答弁やワイドショーのコメントなどにも散見され、中には議論のプロでさえ気づかずに丸め込まれてしまうほど巧妙なものもあります。
ですから、言葉の暴力から身を守るためには、まずそうしたテクニックを知り、見抜く力を養うこと。
そして、ソーシャルディスタンス同様に“屁のような理屈=何の値打ちもないつまらない主張”とは冷静に距離を取っていくことが大切になっていくでしょう。
<取材・構成/日刊SPA!編集部>