5度の出撃から奇跡的に生還した少年特攻隊員が明かした建前と本音
7/19(日) 現代ビジネス
神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)
平成30(2018)年2月22日、一人の元特攻隊員が91歳で世を去った。
小貫貞雄(こぬき・さだお。戦後、杉田と改姓)。
18歳で零戦搭乗員として第一線部隊に配属、激戦地フィリピンに送り込まれ、特攻隊員となる。
米軍の沖縄侵攻が始まると、台湾を拠点に、爆弾を搭載した零戦で5度にわたって特攻出撃を重ねたが、いずれも敵艦隊に遭遇することなく、奇跡的に生還した。
爆装出撃5回というのは、公式記録で確認できる限り、生き残った海軍特攻隊員のなかでは最多である。
小貫は生前、筆者に、特攻志願から出撃、生還、そして終戦にいたるまでの率直な心情を吐露していた。絶望的な戦況のなか、少年は「死」を目前に何を思い、感じていたのか。
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「同調圧力」に屈して志願した18歳
第二航空艦隊司令長官・福留繁中将が、整列した特攻隊員を前に訓示する。
小貫貞雄はこのなかにいた
「諸君は空の神兵(しんぺい)である。
ただいまより特別攻撃隊員を募集する。
我と思わん者は一歩前へ出よ」
第二航空艦隊司令長官・福留繁中将の訓示に、一瞬、その場が凍りついた。
フィリピン、クラーク・フィールドのアンヘレス北飛行場。
ぎらぎらと太陽が照りつける草原の滑走路に整列した搭乗員たちは皆、顔は前を向いたまま、目だけをきょろきょろさせて、周囲の様子をうかがっていた。
そして数秒。
沈黙に耐えかねた誰かが前に出ると、それにつられて全員が、ぞろぞろと重い一歩を踏み出した。
爆弾を搭載した飛行機による体当り攻撃、すなわち特攻が本格化しつつあった、昭和19(1944)年10月末のことである。
18歳の小貫貞雄(戦後、杉田と改姓)飛行兵長も、雰囲気に引きずられて一歩前に出た。
いま風に言えば「同調圧力」に屈したのだ。
しまったと思ったが、もう後戻りはできなかった。
「ありがとう、ありがとう。
だがこれでは志願者が多すぎて選びようがない。
いずれ選考のうえ連絡するから、ひとまず宿舎に帰って休むように」 と言って、福留中将は、ハンカチでそっと目頭を押さえる仕草をした。
小貫は、大正15(1926)年3月23日、宮城県に、鉄道員の次男として生まれた。
軍艦に憧れて海軍一般志願兵を受験したが、成績がよかったので、試験官の勧めで飛行兵志望に切り換える。
そして昭和18(1943)年6月、村人たちの盛大な見送りを受けて、乙種飛行予科練習生(特)、通称「特乙(とくおつ)」の二期生として、山口県の岩国海軍航空隊に入隊した。
「特乙」とは、乙種予科練(受験資格は高等小学校卒業以上)の合格者のなかから生年月日の早い者を選抜、速成教育を施すために新設されたコースで、小貫も、「殴られて体で覚える」すさまじい詰め込み教育に耐え、海軍に入ってわずか9ヵ月後の昭和19(1944)年3月には零戦搭乗員として実戦部隊に配属される。
同年10月には、米軍の大部隊がレイテ島に上陸したのを受け、零戦で編成された第二二一海軍航空隊(二二一空)の一員として、日米決戦を目前に控えたフィリピンに送り込まれていた。
「二二一空は制空部隊なので、連日の邀撃(ようげき)戦に参加しましたが、車で言えばまだ初心者マークをつけているようなもので、一番機から離れないよう飛ぶのが精いっぱいでした。
私の小隊長の石原泉上飛曹が、『初心者が後ろで引き金(機銃の発射レバー)を握っていたら俺が危ない。
お前は機銃は撃たなくていいから、とにかく離れずについて来い』と注意してくれましたが、編隊からはぐれると必ずやられますよ。
それで機銃も撃たず、尾翼に被弾して還ってきたのが私の初陣でした。
何度かグラマンF6Fと空戦をやって、最初は体が震えて困りましたが、これが武者震いか、とやせ我慢しているうちに、だんだん戦場に慣れてきます。
そして、仲間がちらほらやられるようになると、クソ度胸がついてきて、敵愾心が湧いてくる。
俺は負けない、と、いっぱしの戦闘機乗りとしての意識が芽生えてくるんです」
「顔で笑って心で泣いて」という言葉そのまま
ちょうどその頃、フィリピンでは、味方主力艦隊のレイテ島への突入を支援するため、米空母の飛行甲板を一時使用不能にする目的で、第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将のもと特攻作戦が開始される。
そして、その予想以上の戦果に、当初は特攻に消極的だった第二航空艦隊も、追随して特攻作戦に踏み切った。
福留中将の呼びかけに応じて、全員が志願した形となった二二一空の搭乗員たちは、次々と戦闘機の特攻部隊に指定された第二〇一海軍航空隊(二〇一空)に転勤していった。
「ニッパ椰子の葉で囲った粗末な三角兵舎のなかで、みんなでごろごろ待っていると、夜、暗くなってから要務士がカバンを持ってやってきて、『ただいまより二〇一空転勤者を発表する』とやるんですよ。
そして名前を呼ばれる。
一度に5人か6人ですけどね、この瞬間の気分は何とも言えません。
名前を呼ばれた者は飛び上がって喜んでるんだけど、心のなかは逆、泣いてるんですよね。
それで呼ばれなかった者はガックリしたような顔をしながら腹のなかではホッとしている。
明と暗がはっきりと分かれる瞬間でした」
そして12月15日。ついに小貫にも、二〇一空への転勤、すなわち特攻隊への編入が言い渡される。
「そのとき、私はクラークのアンへレス北飛行場にいました。
夜10時頃、搭乗員室に要務士がやってきて、私と山脇林(はやし)飛行兵長の二人に転勤が言い渡された。
それで深夜、ライトを消した黒塗りのフォードに乗せられて、マバラカット市内にある二〇一空本部へ連れていかれました。
二〇一空では、飛行長・中島正中佐が、『よく来てくれた』と迎えてくれ、従兵が皿に乗せたぼた餅を運んできてくれました。
そして、それを食べ終わるか食べ終わらないかのときに、飛行長から、『明朝黎明(れいめい)発進』を告げられたんです。ドキン! としてぼた餅を喉に詰まらせそうになりましたよ。
こっちはまだ、口がもぐもぐ動いているのに。
で、遺書を書いて用意せよと言われるんですが、いきなり遺書を書けと言われても、いざ明日、死ぬときの心境なんて、すぐには言葉に出てこないし、実感が湧かない。
山脇と二人で、『俺は空母をやるぞ。お前は戦艦をやれ、あれは硬くて跳ね返されるぞ。だから艦橋を狙うんだ。
当たった瞬間は痛いだろうな。
どこまで意識があるんだろう』……などといろいろ話をしながら、少しうとうととしたらもう朝でした」
割り切れない思いを胸に、小貫は、宿舎に用意された藁半紙に、鉛筆で遺書を書いた。
両親、兄弟、親戚、恩師、脳裏に浮かぶ人はたくさんいたが、感謝の思いを言葉にしようにも、なかなか思うに任せない。
結局、小貫の遺書は、 〈遺書/大和男の子と生まれ来て/明日は男子の本懐一機一艦/親に先立つ不孝お許しください/天皇陛下万歳〉 と、ぶっきらぼうなほど短いものとなった。
「天皇陛下万歳っていうのは、まあ当時の決まり言葉ですね。
ちょこちょこっと書いて最後にそう付け加えれば、なんとなく軍人らしく格好がつく。
まだ18歳ですからね、虚勢ですよ。
顔で笑って心で泣いて、という言葉そのままです。
空戦でも死ぬかもしれないが、それは相手を倒すことが目的で戦った結果ですから、特攻で自分から死ぬ覚悟を決めるのとは全く違う。
腹のなかを整理するのが大変でした」
12月16日、飛行場に出て、黒板に書かれた当日の搭乗割(編成表・第十一金剛隊)を見ると、山脇の名前はあったが、飛行機の準備が間に合わなかったのか、小貫の名前はそこになかった。
「一瞬、選に漏れた無念と、今日は生き延びたという本能の喜びが交錯しましたが、山脇の顔を正視できない思いでした。それでもみんなと一緒に出撃前の訓示を聞いて、山脇と一緒に指揮所から飛行機の秘匿場所まで1.5キロほど歩きました。
飛行機に乗る間際になって、山脇から、これを家族に届けてくれ、と遺書と髪の毛と爪の入った小さな紙の包みを渡されました。
山脇が飛行機に乗り込むとき、私は一緒に左主翼の上に乗って、試運転の爆音のなか、『おい、何か言っておくことないか』と声をかけたんですが、彼は黙って首を振るばかりでした」
山脇飛長は、この日の出撃からは生還したが、12月29日、第十五金剛隊の爆装機としてミンドロ島南岸沖の敵輸送船団攻撃にバタンガス基地から出撃、戦死した。
山脇機の自爆の状況を、直掩機として出撃した荒井敏雄上飛曹が確認している。
荒井が筆者に語ったところによると、山脇は離陸後ずっと、風防のなかで顔をくしゃくしゃにして泣いるのが見えて、かわいそうでならなかったという。
しかも、敵船団を発見し、山脇機は敵巡洋艦後部に突入、命中するのが見えたが、爆弾が不発に終わったらしく、敵艦からは煙ひとつ立ち上らなかった。
山脇は出撃後、爆弾の信管の発火装置の留め金をはずし忘れたものと思われた。
「自分が生きているほうがおかしい」!?
年が明けて昭和20年に入ると、米軍はいよいよ、ルソン島のリンガエン湾に侵攻を開始した。
艦砲射撃の砲声が、数十キロ離れたクラークにまで轟いていた。
遠からず、米軍が大挙上陸してくることが予想された。
それを迎え撃つため、二〇一空は全力をもって特攻隊を出撃させるが、日本軍の航空基地は敵艦上機による空襲で壊滅状態に陥り、やがて飛行機も底をつく。
飛行機を失った航空隊員たちは、急遽、陸戦隊を編成、ピナツボ山の山麓に立てこもってゲリラ戦を続けることになり、手榴弾の投擲訓練をふくめ、陸上戦闘の準備に入った。
「飛行服を脱ぎ、草色の第三種軍装に編上靴、ゲートル、拳銃二丁、戦死者の遺品から頂戴した日本刀を腰に差した、なんともお粗末な陸戦姿でした。
陸上戦闘の怖さを知らないわれわれは、仲間と刀を振り回し、『俺は宮本武蔵だ』などと、田舎芝居の役者気取りでした。
私は飛行兵長でしたが、よその部隊の兵隊にナメられないようにと、二階級上の一等飛行兵曹の階級章をつけていても、誰にも文句を言われませんでした。
こんな混乱の最中に、司令部から、搭乗員救出作戦が発令されたんです」
飛行機の搭乗員は、養成に時間がかかるうえに、飛行適性があって、誰でもなれるというものではない。
だが、陸上戦闘には素人で、いてもたいして役に立たない。
翼を失った搭乗員はクラークに400名以上、ルソン島の各基地を合わせれば500名以上が残っている。
飛行機さえあればふたたび戦力になる搭乗員を陸上戦闘で失うことは非効率との判断から、司令部は、フィリピンから搭乗員だけを脱出させることを決めた。
1月8日のことである。
クラーク・フィールド、バンバンの丘にある司令部の前に集まった搭乗員たちは、大西瀧治郎中将以下の見送りを受けて、陸路、迎えの飛行機が来るルソン島北部のツゲガラオ基地に向け出発した。
バンバンからツゲガラオまで、直線距離で300数十キロ、歩く距離はその2倍近くになる。
18日間に及ぶ炎天下の慣れない行軍に、彼らは黙々と耐えた。
やっとの思いでツゲガラオに着くと、夜陰に乗じて飛んできた迎えの輸送機に乗せられ、1月末、台湾・高雄基地に到着した。
台湾では、二〇一空に代わる特攻部隊として新たに第二〇五海軍航空隊(二〇五空)が開隊され、ここで編成される特攻隊は「大義隊」と命名された。
大義隊は、当初103名の搭乗員からなり、台湾を中心に、石垣島、宮古島にも分かれて展開した。
小貫も、否応なしにこの隊の一員に加えられていた。
4月1日、猛烈な艦砲射撃ののち、米軍は沖縄本島南西部の嘉手納付近に上陸を開始、この動きに一矢を報いようと、九州、台湾に展開した陸海軍航空部隊は、総力をもって敵攻略部隊、機動部隊に攻撃をかけることになる。
大義隊も、4月1日、「第一大義隊」が出撃したのを皮切りに、沖縄方面の敵機動部隊に向け、特攻出撃を繰り返した。
沖縄戦が始まって以後、爆装特攻機としての小貫の出撃は、4月12日(第八大義隊)、13日(第九大義隊)、17日(第十二大義隊)、28日(第二十六大義隊)、6月21日(第二十二大義隊)の5回を数える。
6月21日の出撃では、零戦にとって限界と言える500キロ爆弾を搭載し、あとの出撃では250キロ爆弾を機体の腹に抱いていた。
海軍の特攻隊は、「索敵攻撃」、つまり敵艦隊を探しながら飛行し、見つけたら突入するという方法をとることが多く、予定海面に敵艦が発見できなければ帰還することが許されているから、何度も出撃を繰り返しながら生還した人はめずらしくない。
それでも、小貫の5回というのは、大義隊のなかで最多だった。
「毎日、出撃状態で搭乗員が待機している。
日によって飛行機の整備状況は違うし、索敵機の敵艦隊発見の報告を受けて出撃するから、搭乗割が決まるのは当日のことです。
出撃命令を受けると、飛行機は掩体壕に隠してあるから、近くても500〜600メートルの距離を、仲間の搭乗員や整備員と歩くことになります。
飛行機が離陸するまでは、やはり後ろ髪を引かれますね。
怖いのを通り越して、どうして俺、18や19で死ななきゃならないのかな、まだ世の中のことを何も知らないのに、人生これで終わるのか、いやだなあ、親孝行もできなかったな、などといろいろ考える。
でも、離陸して編隊を組んでしまうと、気持ちが吹っ切れて、よし、一番でかいのにぶつかってやれと、意識が敵のほうに向くんです」
上空で編隊を組むと、互いに手信号で確認しあって、機内からワイヤーでつながっている爆弾の安全栓を左手で抜く。信管に直結する発火装置の風車が回りだし、零戦の腹に抱いている爆弾は即発状態になる。これは、フィリピンでの山脇飛長機の不発を受けて、離陸すれば互いに確認しあうようになっていたのだ。
だが、目標の位置については数時間前の索敵機の情報が元になるので、予定地点に着いても敵艦隊はすでに移動しており、姿が見えないことが多かった。
「一回目の出撃で予定地点に敵を見ず、指揮官機が爆弾を投棄し、引き返す合図をしました。ホッとしました。
引き返すとなると、こんどは、次の出撃のために飛行機を無事に持って帰らないといけない。
機銃をおろして機銃弾も積まずに出撃することもありましたから、途中で敵戦闘機に襲われないかという、行きとはまた違った恐怖心が湧いてきます。
着陸すると、今日は生き延びたという安堵感や喜びの気持ちが広がりますが、それもつかの間、また次の出撃が待っている。
その繰り返しで、そのたびに寿命が縮む思いがしました。
二度、三度と特攻出撃を繰り返し、自分の隣の索敵線を飛んだ仲間が敵艦と遭遇して突入した情報を聞いたりしたりているうち、だんだん、戦友がみんな死んでるのに自分が生きているほうがおかしいと、意識が変わってきました。
出撃前の別杯も、最初はお神酒だったのが、次は水盃、あとになったらそんなこともしなくなった。
見送るほうの感覚も麻痺してきたのかもしれません」
終戦の日、悔しいフリをしながら体の内では歓喜が
8月15日、全機特攻出撃の命令を受け、台湾・宜蘭基地で6度めの出撃準備を整えていた小貫は、出撃中止を告げられて戻った防空壕で、たまたまそこに集まった15名ほどの特攻隊員とともに、玉音放送のラジオを聴いた。
「玉音放送は、雑音が多くてよくは聞き取れませんでしたが、戦争が終わったことは理解できた。
そのときみんなの表情がね、頬が緩んでピクピクしてるんですよ。それを表に出さないように我慢してる姿がね。
戦争に負けたのは理屈では口惜しいんだけど、死なずにすんだという喜びがどんどん湧いてくる。
みんな悔しいフリはしていますよ。
『デマ宣伝にだまされるな! そうだそうだ! 戦闘続行! 』なんて口々に言いながら、頬が緩んでる。
身体がよじれるような、踊り上がりたいような喜びが体の内から湧いてくる。
戦争に負けた悔しさとこれとは、とりあえず別ですよ。
人間の生存本能じゃないでしょうかね」
終戦で、小貫は一等飛行兵曹に進級した。
台湾には、中華民国軍が、GHQの委託に基づき、日本軍の武装解除のために進駐してきた。
中国軍の占領方針は、蒋介石総統の「怨みに報いるに徳を以てせん」の言葉どおり、旧怨を感じさせない紳士的かつ穏やかなものであった。
終戦とともに、二〇五空は台中の東側の山裾にあった新社基地に移った。
宿舎が「収容所」と名を変えただけで、中国兵による監視もない。
日本軍将兵は最後まで階級章をつけ、帯刀や拳銃の所持も許され、互いを呼ぶときも官職名のままである。
日本に帰れるのは何年先になるか、予想もつかなかった。
小貫たち二〇五空の隊員は、整地した三反歩(約九百坪)の畑を借り受け、自給自足の準備を始めた。
農作業の傍ら、大学卒の予備士官が教官となって、若い隊員たちがこの先、生きていくのに困らないようにと、数学、歴史、英語、修身から北京語まで、テストを交えながらの座学も行われた。
いつ来るとも知れなかった帰国のときは、意外に早くやってきた。
昭和20年12月26日、突然、二〇五空の隊員に帰国命令がくだる。
その日のうちに台中を引き払うことになり、ここではじめて武装解除を受けた。飛行機をもたない搭乗員の武装は軍刀と拳銃だけだが、それらを中国軍に引き渡す。
持ち物は、現金1200円と砂糖を少し、それに落下傘バッグ(50×50×20センチほどの四角い帆布製手提げ鞄)に入る身の回りのものだけと決められた。
基隆港の倉庫で一泊ののち、12月27日、兵装を撤去した小型海防艦にすし詰めの状態で乗せられ、台湾をあとにした。
二日め、波が静かになった。
島が見えた。
「オーイ、日本が見えたぞー!」 と、皆で口々に叫んで指さしながら、生きて祖国の土を踏めることを喜び合った。
「特攻くずれ」の罵声を反骨心のバネに
――しかし、命がけで戦って帰った若い彼らを迎えたのは、焦土となった故郷と、敗戦と窮乏に荒んだ人々の心だった。 小貫が、同郷の戦友と二人で、元軍人ばかりの復員列車から満員の東北本線の一般列車に乗り換えると、乗客の間から、 「お前らのせいで戦争に負けたんだ。馬鹿野郎!」 と罵声が飛んだ。
客室に入るに入れず、マラリアの再発で高熱を出し、震える戦友を介抱しながら、夏用の飛行服姿のまま、寒風の吹きぬけるデッキにうずくまって、故郷の駅に着くのを待つしかなかった。
遺書が届いていたので、家に帰ると、予科練時代の写真が大きく引伸ばされて仏壇に飾ってあった。
復員した小貫は、地元で農林省の食糧検査員を二年間務めたあと、東京に出て繊維加工会社に就職した。
結婚して杉田と姓が変わり、そして昭和42(1967)年、独立して空調用エアーフィルターの製造会社を経営する。
戦地帰りの若い旧軍人に投げかけられた『特攻くずれ』、『予科練くずれ』といった心ない言葉が、仕事の上でも反骨心のバネになったと、小貫は回想する。
「困ったときに特攻隊でのことを思い出すと、これは強いですよ。
戦争で死んだはずの身、敵艦に突っ込んで死ぬほどの気概でやればできないことはない、と気持ちを奮い立たせるんです。
私が海軍にいたのは、17歳から19歳のわずか2年と数ヵ月。でもそのわずかの期間の経験が、私の土台をつくってくれた。
できれば、いまの若い人たちのように、恋をしたり遊んだり、楽しい青春時代が欲しかったなあ、と思うこともありますが……」
小貫はまた、全予科練出身者の集いである、財団法人海原会の副会長を長く務め、戦没搭乗員の慰霊、戦友の遺族の世話にも積極的に取り組んでいた。
「いまでも毎朝、仏壇に線香をあげて仲間の冥福を祈っています。
死んだ連中は年をとらない。
思い出すと、取り残されたようで寂しいものですよ。
私が生き残ったのは、たまたま私が飛んだ索敵線上に敵艦がいなかったからで、偶然にすぎません。
生ある限り、彼らのことを忘れずにいるのが自分に課せられた使命だと思っています」
戦友の霊を慰めることは、小貫にとって、戦争で失われた青春を取り戻す終わりのない旅であり、『特攻くずれ』としての意地でもあったのだ。
平成30(2018)年2月22日、死去、享年91。
いまでは数少なくなった戦場の生き証人が、また一人、姿を消した。
戦没した零戦搭乗員は4330名。
終戦時生存者は、訓練中の者をふくめ3906名。そのほとんどがすでに物故し、戦後75年のいま、健在が確認されているのは数十名にすぎない。
戦争の惨禍を「忘れてはならない」とか、「後世に伝える」という言葉をしばしば耳にするけれど、「忘れない」にしても「伝える」にしても、その前提となるのは、現実にあったことを「知る」ことだ。
体験者の声を生で聞くことはもはや難しくなりつつあるが、いかにそれを伝え残してゆくかが、ふたたび悲劇を繰り返さないための喫緊の課題であると言えるだろう。