離島で今、伝えたい 被爆体験、共有者減 「もうひと頑張り」 /長崎
2020年8月8日 毎日新聞地方版
「やはり、伝えておきたい」。
あの日から75年、長崎の離島の被爆者がそう思い始めている。
ー1945年8月9日、原爆が落とされた時は長崎市内にいて、その後、離島に帰った人たちだ。
本土に比べれば数は少なく、周囲に被爆体験を共有している人がほとんどいないため語る機会もなかったという。
しかし、毎年8月9日が来ると凄惨(せいさん)な情景や亡くなった人たちへの思いを募らせていた。【今野悠貴】
「ほとんど被爆体験は語ってこなかった。でも忘れたことはない」。
対馬市の鈴木好長(よしなが)さん(93)がゆっくりと口を開いた。
41年4月、対馬の国民学校高等科を卒業し、長崎市浜口町の三菱長崎工業青年学校に入学した。
45年8月9日、爆心地から3・2キロの三菱重工長崎造船所内でフラッシュをたいたような光に包まれ、爆風で窓ガラスが吹き飛んだ。
翌朝、同僚らと爆心地に近い浜口町の工場へ負傷者の救護に向かうと、一帯は焦土と化し、浦上川には多くの遺体が浮いていた。
「あの光景は脳裏にこびりついて離れない」
原爆投下の2週間後、対馬に向かう貨客船珠(たま)丸の甲板からは機雷がいくつも見えた。
両親は死んだと思った息子の姿に涙を流して喜んだ。
珠丸は約2カ月後、対馬海峡の機雷に触れて沈没し数百人が亡くなった。
戦後は対馬で理容室を開店。
子供2人を育て、今は孫やひ孫もいる。
しかし、これまで自身の被爆体験は次男に一度語っただけだという。
8月9日が近づくと祈る気持ちが湧き上がってくる。
7月下旬、数年ぶりに被爆者の平間(へいま)淳さん(89)方を訪ねて胸にしまってきたあの日のことを語り合った。
「普段の生活で原爆のことを口にする機会がなく、思い出すきっかけもない」と話す平間さんも、この日は久しぶりに75年前を回想した。
◇ 五島列島の東端に位置する新上五島町では、旧制県立瓊浦(けいほ)中1年生の時に被爆した高井良(たかいら)明さん(87)が「県被爆者手帳友の会」の上五島支部会長を務めている。
20年前に約150人いた会員は現在、20人ほどになった。
2004年に5町が合併した新上五島町は中通(なかどおり)島、若松島と周囲の小さな島にまたがっているため、足が不自由になった被爆者同士の交流はほぼなくなった。
高井良さんは「そろそろ潮時かな」と語る。
離島の被爆者は本土に比べて被爆者の数が少なく、3月末時点で五島市が400人で新上五島町が294人、壱岐市は72人、対馬市は59人。
2万5726人いる長崎市などに比べて被爆者団体の活動が盛り上がりにくく、被爆者とそうでない人の間に温度差がある。
近年、高井良さんの元に地元小中学校からの講話依頼はなく、子供たちに75年前の話をうまく伝えられるのか自信もない。
日々の暮らしも妻(83)の介護などで手いっぱいだ。
今年は毎年8月9日に営まれている旧制瓊浦中の慰霊式も新型コロナウイルス感染予防のため参列を見合わせなければならなかった。
弱気になる時もある。
しかし、そんな時には若くして人生を奪われた同級生たちの顔を思い浮かべる。
級友からもらった手紙を読み返すことも。「こっちでも平和の大切さを伝えるため、もうひと頑張りしようか」。
そう自らを奮い立たせる。 〔長崎版〕