「世間体」という「戒律」に縛られた日本社会の病
9/7(月) 現代ビジネス
ヤマザキマリ 漫画家、文筆家
戒律としての「世間体」
緊急事態宣言下で商業施設の自粛が決まったとき、それでも営業を続ける店はその名前を公表する、というのが日本の行政処分の限界だったようです。
しかし、「名前を公表しますよ」というのはつまり、「世間の目に晒しますよ」という罰則です。
感染リスクの危機が差し迫った状況で、自治体が事業者に言える唯一のことが「世間から制裁を下されなさい」というのは、あまりにちぐはぐです。
しかし日本の場合は、往々にしてこの世間体が、自粛を促すプレッシャーとして機能する。
言わば「戒律としての世間体」です。
法でも宗教でもない、世間が起こす圧力が日本ほど強い国はほかにそうありませんし、その効能が法律にまで影響することに愕然としました。
イタリア人の夫とこの話になったとき「名前の公表? それは逆に集客効果をもたらす宣伝になるんじゃないの?」とさっぱり意味を理解していませんでした。
世間体は「空気」と言い換えても成立しますね。
日本は言葉の応酬をせずとも、空気を読み合ってコミュニケーションを取ることを良しとする国です。
場の空気を的確に読める人を評価し、読めない人のことを排除する。
その空気に照らして、休業要請に従わない事業者を処分してもらうというわけです。
世間体の戒律に従わないものは「異質」や「異端」と烙印を押され、共同体という群れのなかから排除される。
この異質なものを取り去ることで同質性の純度の高い群れを守り、保とうという考え方は、とても日本的だと思います。
世間体が優位となった親子関係
この世間体の戒律が作用するのは、新型コロナだけとは限りません。
特に近年は親子の関係性のなかでさえ世間体が優位を占めています。
たとえば2018年の春、5歳の女の子の虐待死事件が起きました。
女の子は両親から毎朝4時に起こされては平仮名の練習をさせられ、モデルにするためだと、食事もろくに与えられなかった。
この両親は結局、自分の娘がどんな性格の子で、そのとき何を訴え、どんな気持ちでいるかを慮ることより、娘を世間から高評価を得られるような人間にさせることしか考えていなかったのです。
それは娘への愛情からの行動ではなく、「子育てに成功した自分たちが世間から評価されたい」という承認欲求に基づくもので、娘を使って群れから認められることを目指していた。
まさに子どもの人格を無視した虐待です。
虐待死までいかなくても、子どもより世間体が優先されることは、日本の家庭でしばしばあることだと思います。
たとえば学校で自分の子がいじめられて帰ってきたとします。
大多数の親はまず「どうしていじめられるようなことをしたの?」と子どもに聞く。
それはすなわち「あなたのほうが学校という世間に背いたのでは?」という意味で、その時点で親は子どもにとっての敵になる。
いわば自分をいじめた一味です。
親はもう、苦境に追い詰められた自分を無条件で助けてくれる存在ではなくなってしまうわけです。
子どもが帰属すべきは家族
この世間体優位の考え方は、西洋のキリスト教的倫理観のもとでは信じがたいものです。
イタリアの場合、子どもがいじめられて帰ってきたら、まず事情を確認するべく親が学校へ向かいます。
子どもを守るため、対立した相手の子どもや親との話し合いにも行くでしょうし、時には転校を決める。
「適応できない場所に、つらい思いをして無理に合わせることはない」と子どもを家族で守ります。
子どもが帰属すべきは家族で、社会ではないのです。
イタリアでは、学校とは学習教育を受けさせる場で、子どもの人格や倫理観を育むのは家庭だという理念がはっきりしています。
またいじめが起きても、保護者はその責任が学校にあるとは考えません。
しかし日本の場合、まず学校にその責任が向かう。
まったく考え方が違っています。
とはいえ、北部イタリアのような経済活動が活発な地域では、家族のあり方が変わってきた気配もあります。
数年前、テストの点が悪くて親から叱られることを危惧し、自殺してしまった子どもがいましたし、豊かな家族を装うことで経済的に破綻し、無理心中した家族もありました。
いずれにせよ、それまでのイタリアからすれば前代未聞の事件です。
コロナで変わらざるを得ない社会を生き抜く術とはどういうものなのか。
これから先、世間体による評価が生きるうえでの優先順位となるような事態が、イタリアでも起こり得るのか。
私は不安を覚えています。
※本記事はヤマザキ マリさんの新著『たちどまって考える』(中公新書ラクレ)より著者の許可のもと抜粋・再構成したものです。