2020年10月09日

「誰もが『生きたい』と思える社会」が議論の前提

「誰もが『生きたい』と思える社会」が議論の前提
2020年10月7日 毎日新聞
香山リカ・精神科医

 京都で起きた難病・筋萎縮性側索硬化症(ALS)の嘱託殺人事件を受け、同じ病を患う参院議員の舩後靖彦氏が、<ALS患者嘱託殺人 誰もが「生きたい」と思える社会を>という論稿を書いた。
 「尊厳死や安楽死の議論の前に、まずはだれもが『生きていたい』と思えるような環境、社会づくりを」という舩後氏の主張をどう受け止めるか。

さらに、「死の自己決定権」や新型コロナウイルスの感染拡大でしばしば話題になる「命の優先順位」をどう考えるか。
読者に呼びかけたところ、多くの意見が寄せられた。

 まず私が感銘を受けたのは、この問題を経済合理性の観点で語ろうとした人が、今回ひとりとしていなかったことだ。
京都の事件では、難病患者の依頼を受けて薬物を投与して死に至らしめた医師のひとりのSNSアカウントが特定されたが、「回復の見込みがない難病や高齢の患者の医療を続けるのは、カネとマンパワーの無駄」といった内容の投稿が多くを占めていた。
 それに対してネットでは批判の声が渦巻いたが、一部ではあったものの「この医師の言うことは正論」などと評価する人がいたのも事実だ。
さらにごく一部には、「仕事もできず生産性がない人たちには生きる価値はない」という優生思想的な発想から、尊厳死や安楽死を積極的に認めようとする声もあった。  

さらに事件が発覚した7月23日、日本維新の会代表の松井一郎代表が「維新の会国会議員のみなさんへ、非常に難しい問題ですが、尊厳死について真正面から受け止め国会で議論しましょう」とツイッターで呼びかけた。
これにも「殺人事件が判明した当日に尊厳死の議論を呼びかけるとは」という非難とともに、「お願いします」「必要かと思います」と肯定する声もあった。

 こうした流れを受けて、医療財源の節約といった経済合理性の観点から一気に尊厳死や安楽死の法制化の動きにまで進むのでは、と私も一時は緊張した。
 しかし、今回寄せられた意見の多くは、舩後氏に賛意を示すものだった。
のちほど紹介する「議論は必要」という人もあくまで患者自身の観点に立って見解を述べており、「このままじゃ医療費のムダづかい」「生かしておく必要はない」などの経済至上主義や優生思想からそれを語ろうとはしていなかった。

 人間としてそれはごくあたりまえのことなのかもしれないが、最近の世相はとかくすさんでおり、私など「誰もが生きられる社会を」という言葉を口にするだけで、SNSでは「きれいごとを言うな」「じゃあなたが障害のある人、全員を面倒見ろ」といった攻撃が飛んでくる。
その中で今回のような誠実な意見を目にすると、それだけで心が洗われるような気がした。
 今回は、障害や病気の当事者や家族の方も多く意見を述べてくれた。

脊髄(せきずい)損傷の障害がある『木村俊夫』さんは、はっきりと「少なくとも今の日本の自己責任論や生産性云々(うんぬん)、弱者切り捨ての風潮が蔓延(まんえん)している社会では尊厳死や安楽死の議論はすべきではないと思います」と言う。
 また、障害があるという『匿名希望』さんは、「私自身は消極的安楽死に賛成で、日本尊厳死協会に加入している」としながらも、命が「自分の意思とは関わりなく優先順位を決定されるのではないかという危惧は常にある」と正直に自分の気持ちを語ってくれた。

 さらに、当事者にしかわからない話を書いてくれた人もいた。
『大道寺玲子』さんのように、かつて病から何度も死を考えたが、「今、つくづく『あの時死ななくて本当に良かった』と思っています」という。
 『猫派です』さんは母親の自殺未遂を経験したという家族の立場から、「それを見て自殺は駄目なことなんだと学びました」と思いを打ち明けてくれた。
 もちろん、今回、当事者の立場から尊厳死、安楽死を望む、という声もいくつかあった。
進行性の膠原病(こうげんびょう)を患っているという『ニャン子ママ』さんは、「不治の病は本人にしかわからない苦しみがあり、それは家族であっても理解する事は不可能だと私は思います」として、安楽死に肯定的な立場だと明らかにする。  『ぴー』さんはがんで苦しんで亡くなった母親をみとった家族の立場から、「本人が望むなら安楽死もありだと思います」と述べる。
これも重い意見である。

 また、現在は病や障害はないが、将来、他人の手を煩わせるのはいやだ、安楽死の権利があった方が不安が減って生きやすくなる、という意見もいくつかあった。
さらに、脳神経内科医だという『Neurologist』さんは、病で終末期を迎えた人は時間がたつにつれて死を受容し、延命治療を望まなくなるという論文を紹介しながらも、「『命の優先順位』は論外です。
これでは収入の多い人の方が少ない人より価値があるなど優生学的思想を産みます」と語った。

 いずれの人たちの言葉も本当にリアルでかつ重いと思う。
今回の意見を通して私は、尊厳死や安楽死の問題は原則的に、当事者や家族、現場の医療従事者以外から語られることがあってはならないのだ、という思いを強くした。
 つまり、松井・日本維新の会代表のように、当事者でもない立場の人が外から「さあ、そろそろ考えませんか」などと切り出すべきではないのではないか。
 そして、こういったすべての議論の前に、まずは舩後氏の言う「誰もが『生きたい』と思える環境、社会」があるべきだ、というのはすべての投稿の根底にある認識のようだった。

中には、「相模原の事件が絶対に起こらないと言い切れない今の日本では、議論すら拙速にすぎると思います」
「まだ差別主義者が跋扈(ばっこ)するこの日本で命の選別に関わる議論など百年早い」と言い切る人もいた。
本当にその通りであろう。

 今回、「命」に関する本質的な議論の中で、冷笑主義的な詭弁(きべん)や経済優先の表面的な意見ではなくて、誠実かつ率直な「正論」を多くの人から聞けたことは、私にとってもたいへん有意義であり、心から投稿者のみなさんに感謝している。
「尊厳死、安楽死は是か非か」といった拙速な議論ではなく、またこうして「命とは何か」「人生とは何か」という問題をじっくり読者と考える機会を持ちたい。 
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☔ | Comment(0) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする