2020年10月14日

年金は貯蓄ではなくて、保険である理由

年金は貯蓄ではなくて、保険である理由
2020.10.13  ダイヤモンドオンライン
大江英樹:経済コラムニスト

年金は3種の不幸に備える 「保険」である
 公的年金に関しては、最近ようやく少しずつ世の中の人の誤解が解けつつあるような印象がある。
筆者もあちこちで年金について記事を書いているが、以前はまったく見当外れでエビデンスも無ければ、論理的でもない「年金破綻論」がコメントとして寄せられることが多かった。
だが、そういう感情的な議論は影を潜め、まともな議論が出てきたのはとても喜ばしいことである。

 ただ、それでも年金についてはまだまだ多くの誤解が存在しているのだが、そんな誤解の中でも最も基本的な部分、つまり「公的年金の本質」、もっと突っ込んで言えば「公的年金の存在意義」について十分な理解がされていないように感じられる。
 結論から言ってしまうと、公的年金の本質は「保険」なのである。
ところが、多くの人は年金を「貯蓄」だと思っている。
金融の専門家の人たちも公的年金について正しく理解していない人たちは多いのだが、彼らのように優秀な能力と頭脳を持っているにもかかわらず年金について間違った理解をしているのは、根本的に「年金が保険」であることを理解していないからだろう。

優秀な“ファイナンス脳”を持っているがゆえに年金について誤解し、「年金は積立方式にすべし」という論が出てくるのだと思う。
 年金を積立方式にすることが、いかに非現実的なことであるかは後で述べるが、まずは年金=保険であることの意味について考えてみよう。
 そもそも保険の目的とは何か?
それは「将来起こりうる不幸な出来事に対してみんながお金を出し合って備えること」である。
これに対して貯蓄の目的は「将来の楽しみや安心のために自分でお金を蓄えて備えること」である。
保険は共同で、貯蓄は自分で備えるものなのだ。

したがって、保険と貯蓄ではその仕組みや構造が異なるのは当然である。
では、年金が保険であるとすれば、それは一体、将来起こりうるどんな不幸に対して備えるものなのだろうか?

公的年金は3種類の不幸に備えるようにできている。
「長生きすること」は 幸せとは限らない?
 まず最初の不幸は「長生きすること」である。
「長生きが不幸とは、どういうことだ?」と思われるかもしれないが、長生きが幸せなのは「健康でお金が十分ある場合」だ。
 ところが誰でも年を取ると働けなくなり、収入が途絶えるわけだからお金に対する不安が出てくるのは当然だ。
もし世の中に年金制度がなかった場合、働けなくなった老後をまかなうためには自分で貯蓄するしかない。
 しかし、何歳まで生きるかは誰にもわからないから、どれくらい貯蓄しておけば安心なのかもわからない。
だからこそ死ぬまで受け取れる「公的年金」には大きな意味があるのだ。
この役割を果たすのが「老齢年金」であり、公的年金の最も大切な役割である。
言わば終身支給の保証がついた「所得保障保険」なのである。

「病気・怪我」「自身の死亡」への 備えにも
 2番目の不幸は「病気や怪我によって自身が障がい者になること」である。
これに対応するのが「障害年金」である。
老齢年金は支給開始が65歳からであるが、障害年金は、年齢に関係なく、一定の条件の下で支給されるので、万が一の場合でも安心できる。

 そして3番目の不幸は、自分自身が病気や事故で亡くなってしまった場合である。
これは本人というよりも、むしろ残された家族にとっての大きな不幸である。
そこで残された家族に対してその生活を支えるために支給されるのが「遺族年金」である。
これは民間の生命保険の役割を果たしていると言ってもいいだろう。

 言うまでもないことだが、こうした「老齢年金」「障害年金」そして「遺族年金」はいずれも別々のもので、それぞれに加入しなければならないということではない。
単に支給方法が違うということであって、公的年金に入っていれば該当する事象が生じた場合は、いずれの年金も受給することができる。

年金を「損得」で考えるのは 本質的ではない理由
 よく年金を損得で考える人がいるが、たしかに貯蓄や投資であれば損得で論じることが重要だろう。
自分が出したお金がどれぐらいになって戻ってくるかが貯蓄や投資の成果なのだから、これは当然である。

 ところが年金は保険なのだから、「元を取る」という発想はあまり意味がない。
元を取るということで言えば、世の中の保険はほとんど元のとれないものばかりだ。
 保険に求められる最大の意義は「安心」なのである。
何か不幸な事態が起きてもそれに対して経済的な心配をしなくても良い、という安心感だ。
投下資本に対するリターンを評価することに長けている“ファイナンス脳”を持った金融のプロフェッショナルの人たちが年金の理解を間違えるのもこの点にある。

 さらに言えば、現役世代が年金の受給世代を支える「賦課(ふか)方式」は少子高齢化が進む時代では支えきれなくなるので、自分の年金を自分で作る「積立方式」にすべしという意見もしばしば金融のプロから出てくる。
が、しかしこれも保険であるという本質を考えると間違った意見である。
 そもそも年金の制度運営として「積立方式」はそぐわない。理由は2つある。

 1つは前述したとおり、自分の寿命が何歳まであるのかは誰にもわからないことである。
これだけあれば大丈夫と思って積み立てをしても予想以上に長生きした場合は原資が枯渇する恐れがあるからだ。
だからこそ、その時代に働く人がみんなで保険料を拠出し年金給付に充てるというやり方の方が、老後生活をまかなう制度としては向いている。

年金制度が積立方式になると 年金積立金の運用リスクも
 2つ目の理由は、もし将来の年金支給原資を全て積み立てていくのであれば、それらが常に運用のリスクにさらされてしまうということだ。
 現在の年金は毎年徴収される保険料をその年の年金受給者に払うやり方で、言わば単年度決済であるから運用のリスクはない。
ただし、今までこのやり方で余った分を積立金として蓄え、運用を重ねた結果、その残高が約200兆円となっている。
この積立金は今後の年金財政にとってはバッファーとして重要ではあるものの、200兆円という巨額の資金を運用していくのは結構大変だ。
 現実に今年の1〜3月で大きなマイナスが出た時は話題になったし、過去にもリーマンショックの時には一時的に評価損が膨らみ、メディアも野党もこぞって攻撃をした。

賦課方式で毎年決済していてもこれだけの積立金があるのだから、将来に向けて年金保険料の全てを積み立てるとすればその金額は恐らく1000兆円を超えるだろう。
 仮に今回のような大きな下げが起きると、評価損だけで100兆円、すなわちほぼ年間の社会保障給付費ぐらいの金額がマイナスとなってしまう。
そうなれば今とは比較にならないぐらい大変な騒動になるだろう。

 それに将来起こるかもしれないインフレに対しては、投資でもって完璧に対応できるとは限らない。
なぜなら、平成の30年間のように市場が長期にわたって低迷することもあり得るからだ。
ところが物価が上昇するということは極端なハイパーインフレでない限り、経済成長に伴って賃金も上がる。
 したがって、賃金をもらっている世代が保険料を負担するというのは、どんな時代にあっても最も合理的な方法なのである。

事実、先進国である程度の人口規模の国において積立方式をとっている国はない。
 もちろん現在の公的年金制度にもまだ色々と問題点があることは事実だ。
そのために5年毎に健康診断である公的年金の「財政検証」がおこなわれ、それに沿って制度の手直しがおこなわれているのである。

ただ、公的年金は今流行の言葉で言えば、「公助」ではなく「共助」、つまり社会を構成する多くの人が共に助け合うという制度なのだ。
だからこそ年金は保険なのである。
本質を間違えないようにすることが大切だろう。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☁ | Comment(4) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする