香山リカのココロの万華鏡
本当のことの伝え方
2020年10月14日 毎日新聞首都圏版
「ファクトチェック」ということばがはやっている。
世の中に影響力を持つ政治家などがテレビやSNSで発したことばがファクト(事実)かどうか、あとからじっくり調べていくことを意味する。
アメリカのニュース番組を見ていると、しょっちゅう「このあいだの大統領のことばはファクトではない」
「この発言はファクトと言ってよいだろう」などとやっている。
政治の世界で事実が大切にされるのは、もちろんよいことだ。
では私たちの日常生活はどうだろう。
たとえば私がいる医療の世界でも、最近は「患者さんには本当のことを伝える」のが基本になっている。
かつては胃がんがあっても、医者が「胃潰瘍ができていますから、手術で切っちゃいましょうかね」と言うことがあったが、いまは違う。
内視鏡検査の画像を見せながら「ここに見えるのが悪性腫瘍つまりがんです。CTを見ると転移はないようですね。手術して胃を4分の3、取るのがよいと思いますが、よろしいですか?」などとはっきり伝える。
いきなり言われてショックを受け、頭の中が真っ白になった、という人の話も聞いたことがある。
医者の先輩が、かつてこう言っていたのを思い出す。
「なんでもファクト、事実を伝えるのがいいのかな。
昔はよく“やさしいウソ”と言ったものだよ。
患者さんが高齢だったり気が弱そうだったりしたときは“良性でしたからご心配なく”とウソを言ってもいいんじゃないかな」
そのときは、私たち後輩は「ダメですよ。やっぱりちゃんと本当のことを伝えなきゃ」と言ったが、だんだん自分がシニアに近づいてくると「もし自分に悪い病気があったら、“やさしいウソ”の方がいいかも」とも考えるようになった。
とはいえ「ファクトが大事」という流れが変わることはないだろう。
もしかしたらこの先はAI診療が普及して、診断結果がメールなどで送られてくることになるかもしれない。
でも、病の再発率や余命なども書かれている、というのはやっぱりやめてほしい。
医療以外の世界でも「本当のことを伝えたら傷つくだろうな」と伝え方に迷う場面は、実はけっこうあるのではないか。
相手のために事実とは違うことを伝えたことがある、という人もいるはずだ。
政治の世界ではファクトを。
でも、生活の中では“やさしいウソ”も少しだけ許してほしい――。
そんなことを言うのは身勝手すぎるだろうか。
(精神科医)